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学校をつくる

実際の提案書類と共にお話したいと思います。

ぼくは学校が嫌いだった。
あのころは学校には部活のために学校にいっていたし、勉強がそもそも嫌いだった。
もっと楽しい授業をしてくれれば良いのになんて、生意気なことを言ってたもんだ。
そんな僕が、すこし前に学校の提案をした。
これからの学校がどうあるべきなのかについて考えた提案。

学校の提案をするにあたり、既存の学校について調べる中で、一冊の本に出会う。

『こどもたちが学校をつくる』
エンジニアの金田さんに紹介して頂いて、早速読んでみたところ、ぼくたちの考え方は急展開した。

そこには、つくると学ぶが同居していたり、完成の時期が未来に設定されていることであったり、学校を子供が自らつくることであったりと、従来の行政と建築家と施工会社によってつくられたものを生徒達が使うという仕組みとは違って、能動的に学びながら作られていく様子が書かれていた。
それは受動的な学校教育が能動的なものへと変換されるということで、ぼくの学校への価値観は一変することになった。
「ぼくの求めている学校はこれなんだ!」
という思いから、いちど学校というものの原点に立ち返り、これからの学校について考えることから、はじめることを僕たちは決意した。

求められたのはグローバルリーダーを育てるための中高一貫の全寮制の学校。
広島県の大崎上島に計画される学校のプロポーザルにフジワラテッペイさんの事務所とぼくたちの事務所 でプロポーザルに挑むことにした。
建築のプロポーザルは一次審査で技術提案書の提出が求められるが、基本的には過去に同等の用途や規模を経験していることが前提として作成されているため、当然ながら学校建築の経験のない我々チームは、圧倒的に不利なコンディションでの戦いとなることは言うまでもない。
それでもぼくたちはこれからの学校について考えずにはいられなかった。

敷地は広島県大崎上島。
人口8000人程度の過疎化の進む瀬戸内の島。
僕の生まれたまち、広島県三次市で20000人程度なので、なんとなくだけど、そこに住む人との関係性がおのずと親密になることが理解できる。
学校にいく通学路では、会う人みんなの挨拶をしていたし、まちのひとが
どこの家の子供なのかを知っている状態がそこにはあって、現代のこどもの見守り方とは大きく違って、まちぜんたいが子供たちを見守っている状態が地方にはあった。
遊ぶ場所は公園よりも、川や山、遊び方も自らが考え出して、魚屋さんで発泡スチロールを貰ってきて船をつくり、川に船出をしては沈没して、結果的には川で泳いで遊ぶ、そんな冒険の毎日で、悪いことをしようものなら、親だけでなく、近所のおじさんに、こっぴどく叱られていたことが鮮明に記憶に残っている。
だからこそ、ぼくたちは守られていたし、子供と先生という価値観だけに閉じ込められた学校という場所だけでなく、生活そのものが学校だったのではないだろうかと今は思う。

だとしたならば、学校はどうあるべきなのか。
グローバルリーダーという世界にでていくことを前提にしたかのような学校教育の場として、建築のできることはなんなのだろうか。
こどもたちの未来のための建築はだれがどのようにつくるべきなのか。
僕たちは考え続けた結果、村としての学校建築を提案することにした。

塀で囲まれた中に、学校とグラウンドを配置して、先生とこどもたちの関係だけで閉ざされた場ではなく、まちの一部としての学校は、地域にひらかれ
学校という場所で、まちの人に出会い、多様な体験や経験が存在する生活そのものを学校と定義し、これからのグローバルリーダーをそだてるべく、建築は村として存在することで、それが可能になるのではないだろうかと、ぼくたちは考え、下記の提案書を提出した。

学校経験のない我々チームは、かつてない学校の姿で、学校建築の歴史を更新し、これからの学校は社会に開かれるべきだと。
待つこと数週間、ぼくたちの提案が第一関門を突破した。
学校建築のベテランの中に、ぼくたちは唯一、学校建築の経験のないチームが次のステージに進むことになった。
時代が変わる、そんなことを思い、厚い思いがこみ上げて来た。

続きは次回。

公には出来ないけれど、ここだけで書くことが出来る情報も含めて、皆さんに共有出来ればと考えています。 建築業界の凝り固まった環境を見直しながら、新しい働き方や、経営方法、ブランディングについて綴っていきます。