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『灰のもと、色を探して。』第16話:アッシュとヒュー

 螺旋状に、下っていた。

 階段の段差は低く、幅は広い。そして、円周がとてつもなく長い。

 扉を壊し、アッシュはヒューをすり抜けて中に入っていた。逃げようと思ったわけではない。戦うなら、囲まれるおそれのある広場より、狭い場所のほうが有利だと思ったからだ。

 等間隔に松明が設置され、地下にもかかわらず明るい。しかし、まるで同じところを巡っているのだと考えてしまうほど、階段の幅や造形はすべて一様だった。現在地が地下の何階なのかも、わからなくなっている。

 走ることは、苦手ではない。しかし、戦いながら、しかも下りというのは、否が応でもアッシュに負担をかけていた。

 魔物の追手は、だいぶ減ったようだ。いくらか撃退したというのもあるが、かなりの速度で駆けている。よほどの手練れでない限り、付いてくることはまず不可能だろう。

 そして、ヒューは追ってきている。すぐ後ろで、付かず離れずの距離を保っている。幾度か攻撃を受けたが、紙一重で躱せていた。反撃として、ミリアの見真似で蹴ってみたが、まるで効果を感じられなかった。

 もっと対応を考えるべきなのだろうが、詠唱しながらだと、思考も鈍くなる。

 ギマライから、ヒューが敵として眼前に現れた場合の対策を、いくつか提示されていた。ヒューの意識の有無や、交渉の余地などによって、できることは限られてくる。そして、意識が判然とせず、かつ交渉もできなさそうな時、つまり最悪の現況では、やれることはほんのわずかだ。

「ヒュー」

 ひとつ、声をかけ続けること。同じ言葉ではなく、極力色々なことを言う。たとえヒューに聞き分ける力はなくとも、音としては聞けているはずだ。なにかヒューに引っかかる言葉を、氷山を穿つひと言を当てられさえすれば、ヒューに変化が生じるかもしれない。

「さっき俺のことアッシュって呼んだよね? ミリアはわかる? ミリアも、近くまで来てるんだよ。もう一度、ヒューに会いに」

 振り返りながら言う。ヒューから、反応はなかった。

「ミリアだけじゃない、ギマライさんだっている。ヒューのために、ギマライさんはすごい協力してくれたんだよ」

 来る。異様に長いヒューの右腕が、さらに伸びた。鞭のようにしなり、こちらに打ちかかってくる。アッシュは飛んで、壁にかかっている松明を取って投げつけた。ヒューの胴体にあたり、小さく悲鳴があがる。勢いを殺さず、姿勢を崩さないように心がけながら走り続ける。

 ゾヴのように、遠くからなにか魔法を放ってくることはなかった。武器も持っておらず、異様に盛りあがった躰を伸縮させ、予測できない攻撃をしてくる。

 その魔物らしさが、アッシュには苦く映った。

 同時に、ゾヴに対してふつふつと煮えてくる思いがある。ゾヴにとって、ヒューはなんなのか。魔物に作り変えた、と易々に言えることなのか。ゾヴの方が偉く、ヒューを好きにできることができたとしても、ここまで変えることが許されるのか。

 天使とは、そういうものなんだろう。

 でも、俺は許さない。アッシュは拳を握る。再会してから、ヒューは一度も笑っていない。

 少しずつだが、階段の円周が狭まっているように思えた。段差も、大きく感じる。あがりはじめた呼吸と、滲み出る汗から、かかった時間を考える。

 ミリアとギマライは、今もなお闘っているのだろうか。あれだけの夥しい数の魔物と、ゾヴを相手に。

 すでに斃してしまっているかもしれない。そうなら、この詠唱も不要になる。そこまで考えてから、アッシュは首を振った。

 楽観も悲観も間違っている。やるべきことをやるのみだった。

「ヒューはまったく息があがらないね。そんなに、体力のあるようには見えなかったのに。それでも、ミリアの方がまだ強いんだろうけど」

 ヒューからの反応はひとつとしてなく、ただの独り言となっていた。嘆きはしない。

「ミリアのことは、わからない?」

 同じ内容を繰り返した。ヒューも合わせるかのように、右腕を伸縮させては、こちらに攻撃をしてくる。変わらない景色、言葉、攻撃に、アッシュは眩暈さえ覚えてしまう。

「同じ?」

 なにか、見落としていないか。

 足を止める。やや距離を置いて、ヒューも佇んでいた。

 右腕が来る。触れる直前まで観察して、手で受けた。その威力は重く、手が弾かれる。しかし、この程度の攻撃なら、多少もらっても大丈夫だとアッシュは踏んだ。

「ごめん、ヒュー」

 謝りながら、アッシュは手を前へ出した。

「貫け、焔弩」

 ヒューの胴体、その左半身を狙って放つ。躱さずに、腕で防御された。その間に、再び松明を取って投げる。当然のように、捌かれた。

 思った通りだ。

「右手だけだ」

 攻守ともに、ヒューは右手のみで行っている。左手の方が防ぎやすい攻撃でも、ヒューは右手で防御した。アッシュは、悔しさで眉が寄る。こんなこと、ギマライならすぐに気づいているだろう。いや、自分でもわかったはずだ。焦燥しているのか。それが、ここまで洞察を鈍らせるとは思いもしなかった。

 なぜ、右手だけなのか。

 推量を重ねながら、アッシュはヒューへの間合いを詰める。驚いたように、ヒューは後ろへ飛びすさった。先ほどの距離を、保っている。威嚇するように右手をしならせ、その音は風を切る。しかし、左手はただ下がっていた。

「近づかれたくないのか?」

 ヒューは、呻き声をあげた。これは、ただの呻きなのか。いや、呻きだとして、なぜ呻くのか。魔物めいた言動だと、自分は勝手に思いこんでいないか。

 左の手のひら、その先の指が、震えている。動こうとするのを、耐えているように見えた。

「ヒュー」

 ヒューの表情が、松明で浮かびあがる。苦悶だ。変わり果てた魔物の姿、という言葉で易々と片づけてはいけない。ヒューはまさに今苦しんでいる。

 なぜか。簡単だ。

「俺と、戦いたくないんだ」

 頬を濡らす熱さを、アッシュは感じた。拭おうとは、思わない。

「そりゃ、そうか」

 皆、ゾヴと闘っている。ヒューも、魔物とされながらも、闘っているのだ。

「仲間だもんな、俺たち」

 全力で、アッシュは地を蹴った。伸びてきた攻撃が顔に当たる。痛さなど、感じていなかった。思いきり、ヒューを抱き締めた。その感触は、およそ人間とは思えない。それでも、ミリアがよくしてくれたように、あらん限りの感情を籠めて抱いた。

 自分がヒューにかけるべき言葉は、ここに来ては、ひとつしかない。

「負けるな」

「アッシュ」

 ヒューの瞳に光が宿る。そう見えた矢先、アッシュは腹部に衝撃を感じ、階段を転がっていた。束の間、呼吸が不自由になる。

 異様に膨らんだ左腕。その一撃を無防備にもらっていた。しかし、追撃は来ていない。先ほどまでの距離を、ヒューは保っている。

「来ないで」

 名前を呼ばれ、来るなと言われた。聞き取りづらいが、ヒューから発された音はたしかに言葉を成している。

 間違いない。ヒューの意思は確固として存在している。

「じゃあ、お言葉に甘える」

 起きあがりながら、アッシュは言う。すぐさま踵を返し、再び階段を下りはじめた。

 糸口が見えていた。まるで、崩れ落ちた遺跡の、その地中から黄金に煌めく箱を見つけた気分に、アッシュは襲われていた。

 魔物は、使徒を害する存在で、ヒューは、アッシュに損傷を与えたくない。ましてや、ヒューの魔法は治癒に特化していた。

 治癒したいし、それができる。ヒュー本来の、優しさの通底した意思はそこにある。しかし今では、殴り傷つけ、壊すことしかできない。この現状に葛藤や抑圧のないわけがない。

 なら、その負荷をもっと増やしたらどうだろうか。

「追ってこい、ヒュー」

 言われずとも、ヒューは付いてきていた。振りむかず、音だけで判断する。

 光を強く感じる。松明とは比べようのない明るさが、前方より届いていた。

 階段の終わりだった。そしてその先には、部屋があった。

 既視感に、戸惑いを感じる。

 この風景を知っている。入口の風化や、階段の薄暗さを微塵も感じさせないような、多すぎる光量。真っ白な壁や天井に反射し、なおのこと眩いばかりに白さが際立っている。

 遺跡だ。灰の国への、旅路がはじまった場所。その装置が置いてあった部屋に、ここはそっくりだった。中心にむかって走る。しかし、なにもなかった。

 いや。

 地面が円形に縁取られている。ひとが数人乗る程度の広さだ、とアッシュは思った。

「乗る?」

 直感に過ぎない。しかし、アッシュには確信めいたものがあった。遺伝子に、隠れて刻まれていた断片が、気まぐれに合致しただけかもしれない。あれは乗るものだ、と。

 乗れば、きっとなにかが起こる。再創世そのものか、もしくは昇降機のように移動がはじまるか。おそらくさらに深淵へ、下降していくのだろう。

 しかし。問題もできていた。ここは、ヒューとの追いかけっこの終着点だった。ヒューを元に戻す。再創世をする。課された二つの役割のうち、後者を優先するならすぐにあそこへ乗るべきだった。だが、それはヒューと離れることになる。再創世がどういうものかは想像がつかないが、ヒューに影響があることは疑いないだろう。魔物としてなのか、人間としてなのか、またそれぞれが受ける変化の吉凶も未知数だ。

 ならせめて、普段のヒューの状態に戻しておきたい。そういう合理はあれど、単純にミリアとヒューが楽しそうに話すのを、見たいだけでもあった。

「同時にやるしかないな。なあ、色丸?」

 呼んでみたが、返事はない。見やると、アッシュの近くで、じっと座っていた。

「無視かよ。傷つくなあ」

 言いながらも、色丸の丸みを帯びた体型に、少し表情が和らぐのを感じる。

 ヒューも、広場の中に入ってきていた。静かに、ただ対峙している。

「さっき甘えた手前、申し訳ないんだけどさ、ヒュー」

 ヒューは自分と交戦したくない。距離が離れていれば、弱めの攻撃ができる。言い換えるなら、近づかれてしまうと、魔物としての反応が大きくなり、強く攻撃してしまう。

 仲間を傷つけたくない。その一心が、ヒューが魔物の役割から解き放たれる唯一の動機だ。

「来ないでと言われると、行きたくなるのが男なんだよ」

 ひたすらに損傷を受けること。これが、アッシュのたどり着いた、ヒューをもとに戻せる方法だった。ギマライなら、もっと上手な策を思いつくのだろう。

 しかし、自分らしかった。この戦い方は、炎も魔法も要さない。躰ひとつで、ただ臨むだけだった。アッシュは、自分が笑っていることに気づく。

「負けるな」

 近づく。眼前に伸びた右腕を、首を傾けて流す。さらに数歩。視線は、ヒューの眼だけにむける。腫れて、過多に充血した瞳だ。また右腕が来た。避けずに手で掴んだ。振り回して解こうとしてくるのを、ひたすらにアッシュは拒む。

「負けるな」

 前進する。速度のある右腕と比べ、左腕の動きは鈍かった。振りかぶったヒューの左腕は、視界のどこかに入れてさえいれば、回避は容易だろうとアッシュは思った。しかし、そのつもりは豪もなかった。残った手で受ける。実のところ、力負けすると読んでいた。損傷はもちろんのこと、ややもすれば腕のどこかが壊れてしまうことも、可能性としては充分にあった。

 それを好都合だとも、アッシュは考えていた。損傷が酷ければ、ヒューに与える精神的負荷も大きい。

 手のひらが砕ける。その感覚を、アッシュははじめて覚えていた。ヒューの攻撃は、アッシュの防御を容易く突破し、脇腹に達していた。右手は、もう使い物にならないだろう。だが、それが緩衝を果たし、内臓への損傷は感じられなかった。

 握った手は、絶対に離さない。

「離れて」

「嫌だ」

 右手が、燃えるように熱い。乱れた呼吸からか、アッシュの出した声は弱くなっていた。

 手は砕けても、腕は生きていた。まだ、防御に用いることができる。ヒューの左腕が再度引かれる。まるで強弓のようだと、アッシュは思考の隅で思った。

 食らう。腕の骨が折れる音が響き、息が吸えなくなる。

 強弓が再び準備に入る。あとひとつもらえば、もう自分の右腕は死んでしまうだろう。

 眼を閉じた。肉が潰れる、湿った音が鳴る。続けて来るだろう痛苦を、アッシュは覚悟した。

 高く、喉の絞った鳴き声だった。続いて、痛みのないことを確認する。

「色丸」

 理解するより早く、アッシュは叫んだ。色丸が、かばってくれていたのだ。ギマライを乗せてきた時ほどまでとはいかないが、大きな体躯となっていた。色丸は勢いよく壁にぶつかり、地に伏せった。そして、元の小ささに戻っていく。震えひとつ、ここからでは見えなかった。

「なにやってんだよ、おまえ」

 自分はいい。でも色丸が傷つく理由はない。悲しみではなかった。ただ怒りが、アッシュの全身を巡っていた。

「ヒュー」

 視線を戻して、眼を見開く。ヒューの虚ろな瞳から、大粒の涙が頬を伝っていた。

「ふざけんなよ」

 掴んでいる右手を、潰しそうなほど握る。

「いつまでやられっぱなしなんだ。そんな弱い奴じゃないだろ」

 一歩近づく。ヒューの瞳孔に、自分が反射されているのが見えた。

「だれかの言いなりに生きたくないから、おまえは村を出たんだろうが。ミリアは、そういうところに惹かれてるんだよ。決して、今のそんな姿にじゃない」

「アッシュ」

 左手が、振りあがったままで止まる。

「俺じゃない。ミリアと言え。あいつの名前を呼んでみろ。その姿で呼んでみろよ」

「できない。この腕を止めることも、できない」

「やる。できないとかじゃない。やるんだ」

 一歩。そのまま、ヒューを押しこむ。目論んだ通り、倒すことはできない。同時に、掴んでいた手を離す。ヒューの体勢がわずかに乱れた。返ってくる力を利用して、円形の場所に再度押した。重さに、躰がひときわ軋んだ。

「焔弩」

 ヒューの脚に放つ。勢いよく炎はあがり、たちまちに焦がしていく。見ながら、アッシュはヒューに飛びかかり、覆いかぶさるかたちで、円形の場所へともに倒れた。ヒューの両肩に手をつける。砕けた右手から伝わる痛みに、アッシュは堪らず唸った。

 かすかに、地に揺れが走るのをアッシュは感じた。やはりここが、再創世の起点なのだ。

 なにがはじまるにせよ、急いでもらいたかった。

「離れて、アッシュ」

「うるさい。じっとしてろ」

 ヒューがここから良化していくのか、わからなかった。先に再創世を進めることで、なにかヒューに変化の兆しが出るかもしれない。この判断が正しいことを、アッシュは一瞬祈った。

「再創世だけは、させてはならない」

 ヒューの口から、心の感じられない声が漏れた。ゾヴによって造られた魔物の躰が、反応しているのか。和らいでいた動きが激しくなる。渾身の力で、アッシュはヒューを押さえる。重力が味方している分、多少は時間が稼げそうだった。

「使徒による、再創世起点への到達を確認」

 広場に、知った声が響く。この世界へ最初に来た時、いろいろと質問してきた声だ。

「前再創世時の記録を参照。破損を確認。新規での組立てを開始」

 顔に衝撃が来ていた。離したヒューの右手に、攻撃されたのだ。

「早く」

「再創世の時間軸を策定。現代に至るまでの倫理の通史的具体化、および生態系の仮想的変動を算出。問題なし。発信用尖塔の準備」

 堪えきれず、ヒューの上体があがる。

「燠打(おきうち)」

 叫んだ。ヒューの左手が火炎を纏う。しかし、押し倒せない。呻いたまま、ヒューの左手が振りあげられた。

 そして、力なく落ちる。

 困惑も忘れていた。事態を飲みこめない。ヒューの眼も、時間が止まったように動かない。

 妙な感覚を、背から感じていた。知らないものではない。それは、幾度となく窮地を救ってくれていたもの。

 色丸の瞳が、真っ赤に輝いていた。崩折れたまま、ただ顔だけをヒューにむけている。ギマライの操作魔法が、遠隔発動しているのだ。

「色丸。ギマライさん」

 湧き出る感情に、アッシュは声を漏らす。

「アッシュ。わたし、躰が」

 ヒューも同じことを感じ取ったのだろう。その眼に驚嘆を宿していた。

「わかってる。ヒュー」

 好機はここしかない、とアッシュは思った。ギマライの操作魔法で、ヒューの躰は彼女やゾヴの意思から遠ざかっている。

 しかし、ほかになにができるか。押さえつけているだけで、好転が見込めるのか。ただただ、再創世がはじまるのを、待つことしかできないのか。アッシュは考える。どこかに糸口があると、疑わずにひたすら思考を進めていた。

 打つ手がなくて、どうにもならなかったら。

 ギマライと話していたことが、脳裡に浮かぶ。

 ためらわなかった。やり方など知らないが、やってやろうと思った。。ヒューの瞳がさらに近くなる。そして、見開かれた。

「尖塔の創生、開始」

 重ねた唇に、全神経が集中していくのがわかる。

 直後、すさまじい勢いで広場は上昇していく。本来、下降を想定していたのだから、驚くべきなのだろう。しかしアッシュは、その驚愕も、また上昇による重力も感じないほど、はじめての唇の感触に五感のすべてを奪われていた。


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こちらのイラストは、たかはた風嘉様に描いていただきました。
改めまして、この度はご協力いただきありがとうございました。

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