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『灰のもと、色を探して。』第11話:焚火

 灰は、いつにも増して、強めに降っている。

 ヒューが言うには、この地方は特に積もるのだそうだ。最初はうっとうしいと感じた灰も、今では慣れて、気にならなくなっている。姉は、髪に絡むのがどうしても許せないらしい。

 どちらにせよ、今日で終わりなのだとアッシュは思った。灰の空は、今日で最後。明日からは、自分たちの世界と同じく、太陽と月の巡りが空に浮かぶ。

 昨日、造物主の石庭には到着していた。日暮れが近い、とヒューから指摘され、時間に余裕のある翌日に改めるべきだ、と指摘されたのだ。再創世の手続きには、結構な時間がかかるとのことだった。

 そのヒューの提案や情報は、すべてゾヴから発せられている。

「もう、入っていいのかしら?」

「はい、ゾヴから許可は出ています」

 門は、すでに開いている。均一に切られた石を重ねて、壁はできているようだった。その壁が、木々よりも高く積まれ、見えなくなるまで一面に拡がっている。製法自体はアッシュの世界に近いと思ったが、石の滑らかさと、切り出し方の狂いのなさは、真似できそうもない。

「すごい技術だね」

 伸びた声で、ギマライが言う。

「スミスに見せてみたい。むきになって、同じものが作れるようになるまで、徹夜しそう」

 ギマライの呟きを、アッシュは受けた。姉は、今朝起きてからというもの、妙な緊迫感を見せ続けている。ギマライもそれを感じ取っているのか、逆にのんびりとした調子を崩さない。

「入りましょう」

「はい、ミリアさん」

 外観に、姉は興味を見せない。ヒューとともに前へと歩いていく。

 門を通った。景色は一変して、水に溢れていた。灌漑だけとは思えない水路があちらこちらにあり、互いに交わっては複雑な紋様を作る。吸い上げられた水は、高くそびえるいくつもの塔から、十字に滝となって落ち、それが新たな流れを作り出す。灰がなく、青空の下であれば、さぞ映える風景なのだろう。

 木々や草花は、ひとつとしてない。代わりに、水で似たような造形がなされている。

「なんて、美しい」

 感嘆を述べるヒューに対し、姉の表情は冴えない。

「綺麗だとは思うけど、なんだろうね、この変な感じ」

 だれにむけてでもなく、ギマライが言う。アッシュも、同じ印象だった。

 なぜか、違和感が拭えない。

「なんのための、水なのかしら?」

「芸術だそうです。わたしたちが来るからと、歓迎の意を籠めてゾヴが作ったそうです」

「それは、大急ぎだったでしょうに」

「そうでもない、とのことです。まあ、日中しか旅は進められませんでしたからね」

「ありがとう、とゾヴに伝えてくれる?」

「どういたしまして、とゾヴは言っています」

 屈託のないヒューに比べ、姉の声に熱はない。心なしか、姉は急いでいるように見えた。ゾヴを早く見たいのだろう。

 アッシュの思っている以上に、ヒューからはゾヴの名が出る。

 昨晩の姉の話がなければ、自分はここまで引っかかっていないのだろうか。ギマライに、どう思うか訊いてみたかった。その機会があれば、というところだが。

 水の庭は、終わりを見せない。さまざまに趣向を変え、自分たちを楽しませようとしてくる。都度、ヒューは笑みを浮かべ、時には拍手をした。

 気づけば、皆はだいぶ先に行っていた。自分がどれだけ、疑念に苛まされていたのかと苦みを感じる。

「随分、熱心に考えごとをしているね」

「ギマライさん」

 隣にいたのか、と思う。姉やヒューとは異なり、なにも表情からは汲み取れない。

 好機だった。

「ギマライさんは、どう考えてるの?」

 主題をはっきりと伝えないまま、アッシュはギマライの眼を覗く。想定していたのか、ただ落ち着いているのか、ギマライは眉ひとつ動かさなかった。

「そうだなあ。なにが正しいのか、という点は置いといて、最近のあの二人は、少し怖いね」

「それは、ヒューだけではなく、姉ちゃんも?」

 なにを訊きたいのか、気づいてくれている。

「ヒューはゾヴを、天使と紹介していた。ヒューのような末端の眷属ではなく、中枢に近い存在だと。協会で言うところの、スミスみたいなものなんだろうね。ただ、ヒューはあからさまにゾヴの影響を受け続けていて、最近はゾヴの伝言役にしか過ぎないようにも見える。ミリアはミリアで、そんなヒューをどうにかしたくて躍起になっている」

「どうにか?」

「ミリア本人に確認したわけではないんだけど、多分、出会ったころのヒューに戻って欲しいんじゃないかな。あの時のヒューは、村の束縛と安全を捨てて、危険を承知で自由を求めた。そこに、ミリアは思うところがあったんだろうね。それが今では、なにを言うにもするにも、ゾヴという単語が最初に現れる」

「わかるような、わからないような」

 言葉を受け、ギマライは軽く笑い声を立てた。

「ヒューは、自らの役割に拘っている。使徒を造物主の石庭に案内するという大役に。その過程で、上位的存在の天使であるゾヴに従い、彼の命に違わないように動くことを、自らに厳しく課している」

「ヒューが変わって、姉ちゃんはそれが気に入らないってこと?」

「そうだね。二人は今、それぞれの思いに囚われている。妄執、とでも言えばいいかな。なんにせよ、物事はこうあるべきだと、かたくなに信じこむ輩が俺は好きじゃなくてね。かといって、諭すのも柄じゃないから、距離を置くようにしている。今のように」

 前を歩く二人に、ギマライは顔をむける。その横顔を見ながら、アッシュは驚嘆を隠せない。スミスは、わからないことを教えてくれる。経験から来る、大人の知見だ。しかし、ギマライの場合は、それとは違う。洞察と言ってしまえば容易いが、経験とは異質の力だった。

 だからこそ、わからない。

「ずっと気になっていたことが、あるんだ」

 ギマライは、こちらへ注意を示さない。先を促している、とアッシュは思った。

「ギマライさんは、大人で、実力があってすごく頭もいい」

「照れるなあ」

「そういう、冗談めいた雰囲気にするのも上手だし、俺の悩みの内容を言わなくても、わかってくれていた。協会内は当然として、スミスからも一目置かれているような人なのに」

 ほんの少し、ためらう。知ることが、必ずしもよい結果を生むとは限らない。それでも、訊けると思う機会が、再びやって来る保証もないのだ。

「どうして、俺とミリアに、協力してくれてるの?」

 まだ、彼の視線は前へ注がれたままだ。

「たしかに、灰の国の調査は、発掘協会の歴史の中でも、過去に類を見ないほどの業務だとは思うけど、同時に危険も多い。遺跡を探索するのとは、わけが違う。スミスがこの件をなしにしようとした時、わざわざ説得する必要はなかったんじゃないの?」

「だから、腕輪を昔くすねていたって言ったじゃないか。それを、使いたくなってね」

「嘘だよ、それ」

 大きい声を、あげてしまう。姉たちに聞かれてはいないかと不安になったが、二人には届いていないようだった。

「ギマライさんが腕輪を拾ったのは、つい最近、多分俺と姉ちゃんがはじめて灰の国へ行った時だよ。消えた俺たちの行方を、スミスと二人で捜査していた時に、拾ったんでしょ。ヒューは、俺が数百年ぶりに腕輪を手に入れた人物だって言っていたからね」

 堰を切ったように、言葉は止まらない。

「それに、ギマライさんが、あの腕輪を何年も前に手に入れていたとするなら、ずっと放っておくなんて考えられない。用途を究明するか、不要なら売っているはずだよ。記念の品として大事にするなんて、俺の知ってるギマライさんじゃない」

 言い切ってから、大きく息を吸う。鼓動が速まっていた。

「アッシュ、きみは、そんなに喋るようなひとだっけ?」

 笑みを浮かべて、ギマライはこちらを見る。その顔を不快とは思わなかった。むしろ、何度となく見たような笑顔なのに、アッシュは妙な新鮮さを感じた。

「こんなにひと息に話すのは、はじめてだよ。あまり物事を深く気にしない人間だと、自分では思うんだけどね。こればかりは、この旅がはじまった時から、疑問に感じていたことだから」

「そうか」

 ギマライは笑みを崩さずに、空を仰いだ。灰がいくつか、その顔に当たる。いつしか、歩みは止まっていた。ミリアとヒューは、さらに遠ざかっていく。

「こんなつもりじゃ、なかったんだよな」

 発せられるその声は、いつもより太く強く聞こえた。

「とりあえず、指摘の通り、腕輪は二人が消えた日に、偶然拾った。直感的に、同じものだと思ったけど、そのまま隠しておいた。折を見てどこかに売ってしまおうと、考えていたよ」

「今は、違うの?」

 ギマライは答えない。わずかに、首が縦に動いた気がした。

「世界は、決断でできている」

 なにを、言い出すのかと思った。

「灰の国は、別の世界を作る、というだれかのとんでもない決断で作られた。発掘協会がここまで大きくなったのは、スミスのさまざまな決断があったからだ。判断、でもいいかもしれないけど、俺は決断という言葉が好きでさ」

「決断」

 鸚鵡返しをしてしまう。

「そう。そして、決めたことには、責任が伴う。その結果がうまくいっても、いかなくても」

 ゆっくりと、ひとつひとつの語句を噛みしめながら、言っているようだった。アッシュにむけていながら、独り言とも思える。

「間違った決断をしたことがある。俺は、それにけじめをつけたい」

 ギマライの横顔に、変化は見えない。それでも、かすかに語尾が震えている気がした。

「間違いとも、思ってなかった。いや、そう思いたくなかったんだろうな。でも、それから眼を逸らし続ける自分に、なんだか、嫌気が差したんだよ」

「姉ちゃんに、関わること?」

 なんとなく、そう思っただけだった。そしてその直感は、多分誤っていない。一度、ギマライはこちらを見てから、また、視線を前へ戻した。

「まったく、今日は厄日だな」

 そして、彼は長く息を吐いた。

「そう、ミリアのこと」

 穏やかな風が、アッシュの耳をくすぐる。アッシュの硬い髪と比べ、ギマライの髪は稲穂のようにやわらかく揺れた。

「ミリアとアッシュに協力することで、俺は過去の過ちを清算できる。そう思っている。まあ、その具体的な内容は、勘弁してくれよ、アッシュ」

 言ってから、少しの間だけ、ギマライは微笑んだ。

「姉ちゃん、変わったよ」

 今度は、ギマライがこちらを見てきた。

「灰の国に来て、ヒューと会って、ギマライさんと旅して。姉ちゃんは変わった」

 ギマライを見やる。自然と眼が合った。互いに、表情はない。

「だから大丈夫だよ、ギマライさん。清算できるよ」

「ありがとう、アッシュ」

 ギマライは平淡で、なにも裏を含まないような顔だった。それが、どこか嬉しかった。

「よくわかんないけど、もしどうにもならなかったら、姉ちゃんに口づけでもしちゃえばいいんじゃない? 言葉で通じないなら行動で示す、みたいな」

 からかってみる。姉はどうか不明だが、少なくともギマライは姉に気があるはずだった。

「それは、名案かもしれない」

 乗ってきた、とアッシュは思った。

「打つ手がなくて、どうにもならなかったら、最後の手段としてやってみるよ」

「打つ手がなくて、どうにもならなかったら、ね」

「直後に、斧で斬られるだろうけど」

 一拍置いてから、二人は笑った。

 そしてまた、二人の歩く音だけが鳴りはじめる。姉とヒューは、依然として前を歩いていた。風景も変わらず、石と水で埋め尽くされている。

「せっかくだし、逆に訊きたいんだけど、アッシュ」

 ギマライを見あげ、アッシュは次の言葉を待った。

「きみはどうして、ミリアに執着するんだい?」

「執着?」

「きょうだいは、ほかにも見てきたけど、ここまで弟が姉を意識しているのは例がなくてね。どういう経緯があるのかなって」

 返答に詰まった。自分の信条に、話題が触れるのははじめてだった。当然、今まで他人に話したことはない。でも、言ってみていいのかもしれない、とアッシュは思った。ギマライなら、人に言いふらすような真似もしないだろう。

「父と母の、遺言みたいなもの。死ぬ間際に頼まれたんだ。だから俺は、ミリアを守らなければならない」

「へえ、そうだったんだ。そのこと、ミリアには?」

「伝えてない」

「だろうね」

 妙に、晴れ晴れとした気持ちが、拡がっていく。秘密を共有することで、得られる感覚なのだろうか。

 束の間、嫌な予感がした。ギマライの視線に、尖ったものを感じた。先ほどまでの心地よさは消え去り、少しだけ肌に寒気が走った。

「それは本当に、アッシュのしたいこと?」

 なにを訊くんだ、当たり前じゃないか。ふざけたことを言わないでくれ。

 声には、ならなかった。ギマライと再び、眼だけが合っている。口は開いても、言葉が出てこない。はじめて問われたから、心が用意できていなかったのだろう。

「そうだよ」

 いくらでも、強い返事はできたはずだ。それでも、やっとの思いで発せた言葉は、消え入るように小さかった。

「なら、いいんだけど」

 淡々と言ってから、ギマライは前方に手を振る。姉が、早く来いと促しているようだ。

「行こう、アッシュ。話せてよかったよ」

「うん」

 走る。湧きあがってくる感情に、アッシュは名前を付けられないでいた。

 両親から頼まれたことを、言動の指針にしていた。それは誇らしいことであり、姉が喜んでくれると嬉しかった。

 そう、思いこんでいたのか。

 姉を守ると言いながら、自分を守っていたのではないか。頼まれたことだから仕方がないと、ひたすらに言い聞かせて。

 だとしたら、自分のやりたいこととはなんなのか。なんとなく、生まれた感情の答えが見つかりはじめている。

 これは、不安だ。

「遅いわよ、二人とも」

 声に、思考が中断される。姉のもとに着いていた。やはり、その顔は強張っていて、口調にも棘が見える。

「ごめん、ちょっと男同士の話をね」

「わたしとミリアさんも、よくしましたね」

 特に意図はないのだろうが、過去形をヒューは用いた。姉の眉が、かすかに動く。

「そろそろ、ゾヴか来るようです」

 地鳴り、と思った時には、前面の床が上昇していた。下から、水に押されている。水の奔流は威力の衰えることなく、先ほどまで地面だった石を、次から次へと持ちあげていく。一定の高さまで上昇したあと、水は役目を終えたかのように、即座に凍った。

 石で、階段が作られた。その先に広間が見える。圧倒的な量の氷に支えられた、異様な空間だった。

「あがりましょう。ゾヴが待っています」

 こちらの応答を待たずに、ヒューは階段を行く。無言で姉は続き、アッシュも、ギマライとともにあとを追った。

 広場の床は、全体でひとつの紋章となっているようだった。より細い溝が床に張り巡らされ、すべてに水が流れている。

「ようこそ、造物主の石庭へ。お会いできて光栄です、使徒の皆さん」

 中性的な声が、広場に響き渡る。中央に、石でできた大きな椅子があった、人の倍の体躯は収まれそうなその椅子に、ぽつんと少年が座っている。少女と判断してもいいくらい、躰の線は細かった。

「ヒュー、よくここまで案内をしてくださいましたね。天使として、そのような忠実な眷属を持てたこと、本当に誇り高いです」

 声の響き方が、なにかおかしい。ゾヴとの距離は、まだ近くはない。大声を張りあげているわけでもないのに、驚くほど聞き取りやすく耳に届く。

「声は、魔法でどうにかしてるのかな?」

「さすがギマライさん、ご明察です。職業柄、全部の眷属と遠くから話さなければならないので、声は最大限に気を遣っています」

「外見と名前は、もう一致してるわけだ」

「ヒューから、聞かされていますから。さあ、もっと近くへ来てください」

「はい」

 ヒューは走っていく。アッシュたちが近づくと、ゾヴは椅子からおりた。飛び降りるような恰好だが、着地の音はまったく出なかった。

「改めまして、お初にお眼にかかります。造物主の石庭を管理している、ゾヴと申します。アッシュさん、ミリアさん、ギマライさん、ヒューがお世話になりました」

 ゾヴは、丁寧にお辞儀をしてきた。年齢や身長は、自分と同じくらいに見える。そして、薄い青色の服に、細長い青髪。瞳の色も、青々としていた。

 なにより、近くで聞くゾヴの声は、なぜだか総身に震えが走るほど、心の安らぐものだった。

「見た眼がこうなので、どうも若く見られてしまうのですが、これでもこの世界が作られた時から存在しています。皆さんよりも、遥かに年上なんですよ」

「わたしのような末端の眷属と違って、家庭を持ったり、子を成したりする必要がないんです。それくらい、ゾヴは世界の中枢にいて、ずっとこの世界を守っています」

「守っていると言っても、今や悠久のような使徒の不在により、世界は自らが誤っていることに気づけないほど、誤作動で満ち満ちておりますが」

 もっと、声を聞いていたいと思った。先ほどまで、じわりと忍び寄ってきていた不安など、どこかへ行ってしまうようだった。

 なんだろうか。頭の焦点が定まらない。

「どうですか、この景色は? 久々に使徒が来られるとのことで、大急ぎで作り変えたんです。階きざはしを設けて、壁をなくしたのも、ひとえに風景を愉しんでいただきたいがゆえでして」

「水をここまで巧みに制御し、美観を作るなんて。ゾヴ、素晴らしい造形です」

「ありがとう、ヒュー。使徒の皆さんにも、気に入っていただけるといいのですが」

「いい景色だとは思うよ。ねえ、アッシュ?」

「ああ、うん」

 話に集中できていなかった。なにを呆けているのか、とアッシュは自分に言い聞かせる。

「景色より、誤作動の話をしたいんだけど」

 姉は、苛立ちを隠せないように声をあげた。

「わかりました、ミリアさん。いきなり本題にむかうのも、気遣いがないかと思ったのですが、そうですね、誤作動についてお話しましょう」

 姉とは対照的に、ゾヴは静かに話を続ける。

「結論から申しあげると、誤作動を帳消しにできる再創世、これは、もう意味を成しません」

 だれもが、言葉を発さなかった。ヒューも、知らないままでいたらしい。瞠目してゾヴを見つめている。

「もはや、再創世でどうにかできるような次元ではなくなっているのです。今までも、現在もこれからも、世界は緩やかに誤り、狂い続け、それを受容するしかありません」

 なにかを諳んじるように、ゾヴは言う。信じることなど、できはしない。そう思っても、心はどこかでゾヴの言葉をおだやかに吸収していく。そして、安堵が拡がっていく。

「長い間をかけ、ここまでご足労いただいた中、このようなお話となり恐れ入ります。ですが、僕たち天使や眷属にも、あなたがた使徒にも、打てる術はないのです」

「それが、本当だという証左は?」

 ギマライが、平静な様子で問う。内心がどうかはわからないが、至って冷静な口調に思えた。

「俄かには信じがたい内容ということは、重々承知しています、ギマライさん。ですが、僕の言葉の真偽に関係なく、皆さんにはお引き取りいただく以外の選択肢はありません。あちらの世界へ戻ってのち、腕輪は完全に破壊してください。再びこちらへ、来ることのないように」

「じゃあ、なんでここまで呼んだのよ」

 小刻みに、姉の躰が震えているのが、アッシュにはわかった。懸命に感情を殺して、姉はゾヴを厳しく見据える。

「三つあります。しっかりと、僕の口からお伝えすべきと思ったのがひとつ。ヒューに伝えさせたところで、信じていただけず、結局こちらまで来ると思ったのがひとつ。この景観をご覧になれば、よい思い出になったと、多少ご満足の上でお帰りいただけるのではないか、と思ったのがひとつです」

「来ることだけなら、できないのか?」

 ギマライが、姉の質問に続く。悪くない案かもしれない、とアッシュは思った。

 再創世ができなくても、ヒューに会うことはできるだろう。冒険を続けることも、きっとできる。今の状況が続くのなら、それでも構わないのではないか。

「それは可能ですが、範囲は僕に決めさせてもらいます。この誤作動だらけの世界では、使徒の存在はそれだけで害毒なのです。変化を望んでいないところに変化をもたらすのは、邪魔でしかありません」

「ふざけんじゃ、ないわよ」

「ミリア、落ち着け」

 前へ出かけた姉を、ギマライが手で制す。

「ヒューは、再創世をするために、眠りも惜しんであんたと会話してた。この世界の知識を得て、しっかりとわたしたちを導くために。家を出たのも、決められた道じゃなく、自分で選べる生き方をしたいって。灰じゃなく、太陽や月の回る空を見たいって。あんたの話は、そのすべてを台なしにすることだってわかってるの」

「ヒューは眷属です。指揮系統で言えば、僕より結構下に位置する存在です。僕が現状をよしとするなら、それがすべてです」

「そんなの」

「ミリアさん」

 遮り、ヒューは姉の名を呼んだ。

「申しあげにくいことではありますが、ゾヴの言う通りです」

 完全に不意を突かれたのか、ぎこちなく姉の首がヒューへむく。油の差さっていない、古びた機械のようだった。

「ヒュー、あなた、なにを言ってるの」

「旅をご一緒できて、楽しかったです。どうか、お帰りください」

「嘘でしょ。ヒューは、そうよ、あなたは騙されているんだわ」

 叫ぶように、姉は全身から声を出す。姉がここまで激昂しているのは、これまでになかった。

 それに比べ、このまま帰ることとなってもいい、と考える自分は、なにかおかしいのだろうか。当初の目的は達成できていないが、それに落胆してはいない。

 ゾヴの言うことは、正しいのだ。

「だって、あなたは自由を得るために外へ出たんじゃないの? 自分で決める人生を歩みたかったんじゃないの? これじゃあ、結局、ゾヴの言いなりじゃない」

「ミリア、息を深く」

 ギマライの腕は、姉に強く握られている。力がさらに籠められたようだった。

 ヒューは表情を変えない。ゾヴを一度見てから、再度こちらをむいた。

「それも、ある種の巡り合わせだったのでしょう。そのおかげで、わたしは皆さんに会え、使徒を造物主の石庭へ連れて行くという、望外の名誉を得ました。それだけで、充分です」

「そんなわけない」

 さらに、姉は前へ出ようとし、ギマライに止められる。この世界では、姉の方がギマライよりも力が強い。彼の制止は、姉の理性によって成り立っている。それも、限界の際に近づいているようだった。

「あなたが見たかったものは、こんな水だらけの庭なんかじゃなくて、灰に塗れていない、色のある世界のはずよ。方法はきっとある。わたしが、必ず見つけてみせる。諦めずに、探しましょう」

「ミリアさん」

 ヒューの呟きは、宙空に溶けゆく。

「もう、いいでしょうか? ヒュー、下がりなさい。あなたは立派に役目を果たしました。あとは、僕の仕事です」

「ミリアさん、どうか帰ってください」

「下がりなさい」

 ゾヴは、視線をこちらにむけたまま、顔だけをヒューへむける。眼を閉じると、一礼をしてからヒューは後ろに下がった。

「ご納得しては、いただけませんか」

 ゾヴの声色が、冷えこんだ気がした。

「頼みというより、命令に聞こえるね」

 ギマライは、ミリアを抑え続けている。その表情には、緊張が走っていた。

「少し予測はしておりましたが、使徒という方々はどうも、僕の話を聞いてくれない傾向が強いと思いまして」

「それさあ、俺が思うに、あんたが俺たちをここまで呼んだ理由って、もうひとつあるよね?」

「どういうことですか、ギマライさん?」

「以前、といってもかなり昔だけど、その時も使徒はここまで来たんだろう? その人は、あんたの言うことに従ったのか?」

 ゾヴは応えない。首をわずかに傾げ、ギマライの次の言葉を待っているようだった。

「拒否したんだろ? 多分、かつての使徒たちは全員ここへ来て、あんたの話を聞き、賛成の意思を示さなかった。だから、すでにあんたは半分諦めた上で、俺たちに説明しているんだろう、ゾヴ」

「そうかも、しれませんね」

「素直なんだな。まあ、というのが導入でね、本題は、決裂した場合はどうするのか、いや、どうしてきたのか。そこを、俺は訊きたい」

 ギマライが、一瞬こちらを見てきた。強く光った瞳だと、アッシュは思った。

「ここで息絶えてもらうほか、ありません」

「それが、本心だろう」

 風がそよぐ。その風は、ゾヴにむかうと、通り過ぎずに、ゾヴの周囲に滞留した。お供をするかのように、近くの水も浮かび始める。先ほど座っていた椅子が浮くと、ゾヴのもとに寄り、ゾヴは退屈そうに、そこへ横になった。

 すさまじい重圧を、ゾヴから受ける。灰の国で対峙してきたどの魔物とも、格が違う。体中に痺れが走り、アッシュの頭にかかっていた靄が急速に霧散していく感覚を得る。

 先ほどまで感じていた安寧が嘘のように掻き消え、脳は激しく脈打ち、自ら認識できるほどに呼吸が荒くなる。

 ゾヴがこちらを見て、かすかに笑った。途端に、身悶えしたくなるような悔しさが、出口を探して体内を遁走する。

 ゾヴの魔法に、かかっていたのか。ギマライも姉も、ゾヴとの対話に万事構えているのに、自分だけが、甘い菓子をもらった子どものように、なにか満足していた。

「脅しか?」

「面倒なのですよ」

 丁寧さが、ゾヴから感じられなくなっていた。漂う椅子に横たわり、前髪を弄んでいる。それから、近くの水を指でつつき、弾力を愉しんでいた。ヒューは、ゾヴのうしろで立ったまま、俯いていた。

 ギマライの眼は、いつ戦闘になっても対応できるように、という意味だと思った。それほどに状況はよくなく、ゾヴとの会話の終わりも、近づいてきているのだろう。

 じわじわと、肌がひりついていく。

「天使は本来、使徒へ危害を加えるようには作られていません。ですから、加えるのは、色々と手続きや決裁が大変なのです。もう一度提案しますが、お引き取り願えませんでしょうか」

「ミリア、どうする?」

「選択肢があるの?」

「ないな、こればかりは。さすがの俺も腹が立っている」

「そう。気が合う時もあるのね」

 戦うのだ、とアッシュは思った。まずは、姉がどう動くかを見て、それから、なにを唱えるか決める。いつもの、戦闘時の流れだった。

 その姉の躰が、微動して、動かなくなった。

「姉ちゃん?」

 まだ動かない。そして、ぐらりと前へ倒れゆく。

 どうしたのか。

「やはり、こうなりますか」

 諦めたように、ゾヴは呟いた。

 くずおれる姉を、ギマライが支えた。考えるより先に、アッシュは駆け寄った。

 姉の腹部から、血が滲んだ。拡がりが速い。

 ゾヴが、姉に攻撃を加えた。見えなかったが、間違いない。ほかに、こうなる理由はない。

「逃げ、て」

 姉の声は、吐血に巻きこまれて、ひどく聞きづらかった。痛いのか、つらいのか、姉は涙を流していた。

 耳が熱くなった。唇が震え出した。視界が揺れて、定まらない。ただ、その端が赤く染まっていることは、なんとなくわかった。ゾヴを見やる。先ほどと変わらない態勢で、感慨もなさそうに、こちらを眺めていた。

「おまえ」

 憎い。

「やめろ、アッシュ」

 ギマライの声が、遠く響く。

 ミリアを、守ってあげて。

 母と父の声が、近くで鳴った。

「食い千切れ、灼虎(しゃっこ)の狩人狩り」

 まだ、使えない魔法だった。知ったことではない。アッシュより大きな炎が、複数現れる。それは虎の形を成し、ゾヴにむかって跳躍した。

「薙げ、火尖双剣」

 続けて唱え、投擲する。中空で刃は二つとなり、不規則な軌道でゾヴへと飛ぶ。

 額の中に、なにか糸がある。多分、切れてはいけないものだろう。それが、ほつれはじめているのを、アッシュは感じた。

「怖いですね」

 ゾヴは、指を弾く。全方位から、巨大な水柱があがっていた。遅れて、轟音が響き渡る。庭園すべての水が、叫んでいるかのようだった。

 水柱から、ゾヴの頭上へ水が集まる。やわらかそうな水の大きな球体から、束の間、線がいくつも伸びた。

 その水の線に、虎は刺され、剣は方角を変えられていた。

とてつもない威力の、水撃だった

「アッシュ、やめるんだ」

「うるさい、あいつだけは」

 もう一度、と思ったアッシュは、右腕があがらないことに気づく。

 穴があいていた。躰が認識していないのか、まだ血は吹き出てこない。

「ミリアさんが逃げるよう頼み、ギマライさんがやめるよう言っているのに、まったく聞かないのですね、アッシュさんは」

 腕に、猛烈な熱を感じる。呻きそうになるのを、アッシュは我慢した。先ほどの水撃の時に、自分も撃たれたのだ。左手だけ、アッシュは拳を握った。

「急いで、水の庭園に造り変えた、と申したではないですか。以前、ここは緑の溢れる庭でしたので、火を使われたら困ると思いましてね」

 だれかが吼えている。その雄叫びが、自分のものだと気づくのに、少しかかった。躰全身に、熱がこもっている。それを霧散させたいのか。

「火尖剣」

 残った腕で放る。ゾヴまでは届かず、落ちて消えた。

 水が穿たれる。アッシュの周辺の床に、小さな穴が無数にできていた。

 ゾヴは、声高に笑った。

「こんな童のような火で、水に歯むかうとは。負けを認めなさい。たかが使徒の分際で、再三に渡る忠告を無視したことを、そして僕に楯突いたことを、謝りなさい」

 お手玉でもするかのように、ゾヴは水球で遊ぶ。

「そうすれば、ギマライとアッシュ、二人は帰してあげます。ミリアは、もたないでしょう」

「頷くと、思っているのか」

 砕けそうなほど、強く歯を噛みしめる。負けられなかった。姉を残して行けるわけがなかった。しかし、腕が動かない。火では、水に対抗できない。斃せない。

「ミリア、許せよ」

 ギマライが、抱えた姉に呟くように言った。それは驚くほどに、優しい声だった。

 姉を置いていくのか。ギマライに対してさえ怒りを覚えかけた時、アッシュは固まった。

 異常なほど刮目し、勝ち誇ったように、ギマライはにやりと笑みを浮かべたのだ。

 なにが起こったのか、わからなかった。すさまじい勢いで、ゾヴが遠ざかっていく。

「なぜ」

 期せずして、ゾヴの声と、自分の思いが一致する。

 姉に、担がれていた。損傷など微塵も感じさせない動きで、姉は一歩一歩を跳躍し、ゾヴとギマライのいる広場からすさまじい速度で離れてゆく。

「はは、ミリア、すげえ重い」

 遠くなるギマライが、高く笑い声をあげた。その眼と鼻から、多量の血を流しながら。

「ギマライ、あなた、まさかミリアを操って」

「さんを付けろよ、天使如きが。こちとら使徒だってのに」

 ギマライが、姉に操作魔法をかけているのだ。慌てて地面を見る。姉から流れる血痕が、ひと筋の道を作っていた。当たり前だ。腹に穴が開いているのだ。普通なら走れるわけがない。

「この、使徒どもが」

 ゾヴから、水撃が来る。さまざまに動き、誘導しては躱しながら、姉は疾駆をやめない。息遣いの尋常ではない荒さが、警鐘そのものだった。

「姉ちゃん。やめて。降ろしてよ」

 信じられないほど、強く押さえられている。姉の意思なのか、ギマライの操作魔法なのか。その力を、弱めようという兆候はまったく感じられない。

「ギマライの、やつ」

 息の合間で、姉は声を絞る。

「わたしは、重くないわよ」

 ひとつ、大きく跳んだ。庭園の門をくぐる。そのまま姉は倒れこみ、アッシュは放り出された。幾度と転び、衝撃が躰を襲う。痛くはない。こんなもの、痛いとは思わない。

 天地を認識し、這い、そして立つ。姉は仰むけになり、肩で息をしていた。駆け寄り、膝に上体を寝かせる。

 依然として、腹部は深紅に濡れ、衣服を赤く、そして黒く染めあげていた。

「あの馬鹿、わたしのこと重いなんて、失礼なこと言ってさあ」

 姉は、眼を覆うように、片手を額に乗せていた。

「本当に、馬鹿だよ」

 声が、震えている。

「姉ちゃん、血が」

「わたしは、平気。あいつが、随分乱暴に操ってくれたけど、大丈夫」

「本当に?」

 そうは見えないが、姉は身体能力が卓越している。損傷からの回復も、速いのかもしれない。もちろん、姉が強がっているだけの可能性もあるが、さりとて、今のアッシュには、姉を安静な状態にしておくことしかできなかった。

「ギマライさん、来るよね?」

 姉は応えない。二人の荒い呼吸が、唯一その場に音を生み出していた。

「そんな」

 ギマライの魔法は、アッシュたちと異なり、自身が戦うものではない。魔物の邪魔をしたり、なにかを操って戦わせたり、用法の難易度が高い。

 つまり、一対一で戦えるような種類のものではない。

 仮に攻撃できる魔法があったとしても、流血するまで魔法を唱え、姉を操ったあとに、ギマライにその余力があるだろうか。あってくれ、と願うしかない。願う以外に、アッシュにはできることがなかった。

「あいつ、なんで笑ったんだろう」

 姉は、アッシュに訊いていながら、自らに問うているようだった。

「わからないよ、わたしには。わからない」

「やれたから、かも」

 なんとなく、返した。ギマライの言っていたことを、思い出しながら。

「なにを?」

「やりたいことを。ギマライさん、清算したいって言ってた。昔、姉ちゃんに、間違ったことをしてしまったって」

「間違ったこと? なによ、それ」

「中身は、教えてくれなかったんだよ」

 姉は口を開き、なにかを言いかけたが、そのまま深く息を吐いた。

「やっぱり、馬鹿だよ、あいつ。どうしようもない、馬鹿だ」

「姉ちゃん」

「なんでアッシュじゃなくて、わたしに言わないの。わかんないじゃん」

 気づけば、姉は両手で顔を覆っていた。

「もう、わかんないじゃんか」

 姉ちゃんを泣かすなよ、ギマライさん。

 心でそう呟きながら、アッシュは、石庭の方角に顔をむける。

 息が、落ち着いてきていた。それは、その分だけ時間が過ぎているということでもあった。静かだった。先ほどまで、ゾヴと問答し、追撃を振り切っていたとは思えないほどに。

 いや。

「なにかが」

 わずかに、地響きがする。ゾヴか、とアッシュは眼を凝らす。鼓動の音が強まる。姉に聞こえて欲しくはないが、もう伝わってしまっているだろう。

 遠く、広場の方から、蛇のように水がうねるのが見えた。苛立ちを発散するかのように、暴れている。ゾヴの魔法だろう。

 影。小さいと思ったが、どんどん大きくなっていく。見たこともない、四つ脚の獣が、こちらに駆けてきていた。魔物。その外見をつぶさに捉え、少しでも多くの情報を得ようとアッシュは努める。

 しかし、なぜか敵対していないとわかった。馬の倍はあるほどの巨大さだが、近づくにつれて、不思議と親近感が湧く。

 細目、短い脚。背中から生えている羽。

「色丸。色丸か、おまえ」

 叫び、姉をその場に置き、アッシュは駆け寄る。不用意に落とした姉が、呻き声をあげた。

「あんたねえ」

「姉ちゃん、随分大きくなってるけど、こいつ色丸だよ。間違いない」

「はあ?」

 色丸は、口に咥えていたものを地面に下ろす。

「ギマライさん」

 意図せず、大声をあげてしまう。それをきっかけとでもするかのように、色丸の体躯は縮み、親しみのある、まるまるとした形に戻った。珍しく、色丸は息切れをしていた。

「色丸。お前」

 色丸が、ギマライを咥え、ゾヴから逃げてきたのだ。先ほどの水の蛇は、逃げられたことへの、ゾヴの怒りなのだろう。

「アッシュ」

 伏していたギマライは、アッシュの助けを借りずに、大の字となった。

「血が」

 夥しい血が、ギマライの眼と鼻から流れている。そして、その顔は痛みに歪みきっていた。

「ミリアは、無事か」

「うん」

「そうか。よかった」

 激しい運動のあと、といったふうの姉に比べ、ギマライの場合、操作魔法の超過詠唱の反動で、とにかく頭が痛くなるようだ。

「思った通りだ。ゾヴは、あそこから動けない」

 苦悶の表情を見せながらも、ギマライは、どことなく楽しそうな色を声に乗せる。

 色丸は、なにか思うところがあるのか、ギマライの顔を舐めはじめた。

「うまくないよ、俺の血なんて」

「さっきの大きな色丸も、ギマライさんの魔法?」

「まさか」

 言いながら、ギマライは色丸に手を伸ばし、その顎を撫でる。

「ほんとに、こいつだけは、言うことを聞かない。俺は逃げろと、言ったんだけどな。見る間に、大きくなってさ」

 見れば、黒毛で判別しづらくはあるが、いくつか損傷を受けているようだった。

「だけどまあ、ありがとう」

 誇らしげに、色丸は吼えた。

「なんとか、全員逃げられたな」

「全員じゃないわ」

 姉が、こちらに来ていた。手を腹に当て、弱々しい足取りで。

「歩いちゃ駄目だよ。信じられない量の血を、失ってるんだから」

「アッシュ、あなたも右腕をやられたはずでしょう?」

 損傷の度合いが違う。そう言おうとして、アッシュは右腕を動かした。

 動いた、と唖然としてしまう。

「これは」

「ヒューが、治してくれたのよ。ゾヴに撃たれた瞬間、あの子の眼が光った。わたしには、そう見えたわ。治癒魔法を、使ってくれたのよ。でなければ、いくらギマライに操られたとはいえ、あそこまで速くは動けない」

「俺の血は、止まらないんだけど」

 ギマライは、手で拭うこともせず、流れるがままにして耐えている。

「わかってて言わないの。あなたのは、超過詠唱の代償じゃない」

「ヒューは、どうして」

「ゾヴに反して、わたしたちを助けてくれた。それ以外、考えられない」

 姉は、広場の方をむく。束の間だが、その横顔をかつてないほどに、アッシュは綺麗だと思った。

「もう一度、ヒューとしっかり話し合わなければならない。ゾヴではなく、ヒューの言葉で」

「どうするの? ゾヴを、なんとかできるの?」

「なんとかする」

 気づけば、姉の手に斧が握られていた。いや、ただ持っている、と言ったほうが正しいだろう。当然に満身創痍の姉に、力強さはわずかたりとて感じられない。

「いったん退くべきだ、ミリア」

 ギマライは、まだ空を見ている。眼の流血は治まったようだが、鼻血はとめどなく地面に滴っている。

「ギマライ」

 姉は、いくらか逡巡しているようだ。ギマライの言うことを一息に否定しないのは、なにか新鮮だった。

「勝てない、絶対にだ。あの力は異常じゃない。その上を行くなにかだ」

「でも」

「加えて、こちらはひどいありさまだ。ヒューを本気で取り返したいと思うなら、退くんだ」

 ギマライの話し方は、おだやかだった。裏の目的があるというふうでもなく、ただミリアを諭そうしている。

「姉ちゃん、ギマライさんの言う通りだよ。悔しいけど、今の俺たちじゃ、なにもできない」

 反応はない。こちらを見ようとしない姉を、アッシュは見続ける。勝てるわけがない。姉だって、わかっている。

「姉ちゃん」

「そうね」

 灰色の空を見あげ、姉は呟くように返した。

「ありがとう、二人とも」

 斧をその場に落としてから、姉は静かな声で言った。地に斧の落ちた音が、鈍く鳴る。

 姉の腕輪が光り、遅れてギマライとアッシュのそれも光りはじめた。その光の青さに、ゾヴの碧眼を想起し、アッシュは拳を握る。

 この感情は、悔しさか。

 それだけではない。

 同時に、這いあがってきたこの黒めいたものは、恐怖か。


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こちらのイラストは、maruco様に描いていただきました。

改めまして、この度はご協力いただきありがとうございました。

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