刺激的な情報源から離れる

ある著名人のTwitterアカウントを久しぶりにフォローしたのだが、やめることにした。

その方は日々社会の不正と闘っているような方であり、内容は至極まっとうなものなので共感するのではある。が、そのツイートを見ていてスカッとしている自分がいると同時に、昔持っていた社会への怒りみたいなものが自分の中で再燃していることに気づいた。

奇妙な感覚である。別にここ最近怒ってなかったのに、そのツイートを見るようになってからは怒りが出るようになった。

それって本当に必要な怒りなのだろうか。怒りというものを否定するという趣旨ではない。公憤は社会の前進に寄与する側面がある。

怒る必要もないのにわざわざ怒りに行っている自分、と言えるように思える。怒るべき対象がこの世にあるのではなく、あるのはただ怒りに行っている自分なのではなかろうか。

アドラーなら「先ず怒りたいという感情があって、その後に怒る原因を探している」なんて言いそうだ。

自分は怒りたいのか?と思うと、別に怒りたくないわけで、そのアカウントのフォローを外すことにした。怒りが創造的活動の源になる人もいるが、自分の場合はそうではなく、美しいものを見るとかいったことの方がパワー源になるのを最近強く感じている。50年先、100年先の時代において美しいものを生み出すのが自分の今後の人生でやることだ、と最近は考えている。

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