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褐色細胞腫闘病記 第34回「淵の底」

「野乃ちゃん、ほら、また忘れ物っ!」
昨日は体操服入れを忘れ、今日は絵の具セットを置き忘れ、この子のうっかり屋は本当に私にそっくりだ。
「ママー、プリントのお返事今日までだった!」
「えっやだぁっ! なんなのよぉ」
もうこんなやり取りはすっかり慣れすぎてまったく驚かない。

最後の手術から5年経った。
娘の野乃子は小学6年になった。ずっと誰にも分け隔てなく人に優しく接する女の子に育った。


あれから、棚沢教授も、梶並教授も、みどり先生も転院になり、私の主治医は肝移植を専門とする佐々木先生に変わった。
佐々木先生は肝臓外科医の中でも群を抜いて優秀な方だと紹介された。
事実、過不足なく私のこの稀少疾患の知識を備えられた、見識豊かな教授だった。そして、何よりまったく偉そうにしない先生で、これは棚沢先生が推薦するだけのことはあるなと思う人格者だった。

もちろん、最初からすんなりすべてを受け容れたわけではない。
最初、私はものすごく駄々をこねた。
棚沢先生は聖ルクール病院の病院長として抜擢された。熱心なクリスチャンである先生はキリスト教の精神に則った医療奉仕精神の道を最後の医療生活に歩まれるのだと聞いた。

私が唯一、人見知りせず軽口を叩けた梶並先生は、自ら望んでドイツの研究機関に。そして藍野みどり先生は北野先生と共に同じ病院に転院したというが、その辺の詳しい事情は私にはわからない。

北野先生の私へのあの酷い顛末については、棚沢先生に何度も頭を下げられた。どうやら彼は研究者としては本当に名を挙げている医師らしく、つくづく「知識も腕も抜群だが臨床に不向き」な医師がいるんだということを棚沢先生から何度も聞かされた。だが、今思い返しても向かっ腹が立つのは変わらない。

だが、私の嘆きを諫めてくれたのは、意外にもこういうことに人一倍敏感な母だった。
「人生、生生流転。物事も、人も、絶えず流れゆくからこそ、いろいろ巡ってくるんだよ。きっとまたいい先生に巡り合えるよ」
そうか、そうなんだな、と私は襟を正し、すべてを受け容れた。
芳河さんは今どこらへんを悠々と流転してるのかな、と母に問いたいが、それは言えない。

4度目のオペから入ってくれていた佐藤先生と鈴木先生は変わらず私の担当でいてくださった。
5年経過してお二人ともそれなりの役職に就き、何より私のオペを見ていた先生が2人もいるということは心強いものであった。

『5年生存率』という言葉があるように、癌は5年持ちこたえられたかどうかで予後がある程度予測できる。
だが、私の褐色細胞腫という病気は、それが通用しなかった。
もうとうに忘れ切っていた頃に、まるで親切な友のようにそれは「やあ久しぶり」と頭を擡(もた)げてくる。そして知らぬ間に意地悪な友は、あくせくと私の臓器の中に自分の陣地を広げようとするのだ。
寛解したと思っていたら、20年後に再発して亡くなった方もいると聞いたことがある。
この腫瘍は、つくづく一般的な癌細胞とは違う動きをするのである。

だが。

私と言えば、この5年間病状には著変がなく、もしかしたらもう完全に寛解したのではないかとすら感じることもあり、ともすると自分が悪性疾患持ちの病人だということを忘れることさえあった。食欲もあり、活動力もあり、そして病気を克服したんだという自信もあった。
かつて、5年生存率0%と診断された私が、最後のオペから全く何の症状もないのだ。血圧も安定しているし、むしろ低血圧で朝が弱いくらいだ。
油断してはいけないとは思っていたが、それでももう「あれだけ痛い思いをしたんだから」という気持ちがどこかにあった。

書いていたブログが評判を呼び、複数の出版社にスカウトされた。
中には有名な出版社もあったが、私はその中で一番言葉遣いが丁寧で、決して押しつけがましくなく、なおかつ私の作品をしっかり読み込んでくださっていた編集者に応えた。

私は印税はすべて全額小児がんで苦しむ子供たちに匿名で寄付しようと決めていた。偽善というのではなく、ええかっこしいというのでもなく、これで私がお金をもらってしまったら罰が当たると本気で思っていたし、私が生き永らえたのは、きっと見えない力のおかげだろうというどこか畏怖するような気持ちがあった。
どこかで、この命の御礼をしないといけない、そんな気持ちだった。

しかし、それを知った夫が口を開いた。
「なんで何百万もドブに捨てるようなことをするんだ? 野乃子にのために遣ったらいいじゃないか。どこの誰とも知らない団体に寄付なんて」
隠れてコソコソ私の著書を買って読んでいることは知っている。なんで何も感想を言わないんだろう。
「私には私の考えがあるの」
「もったいねぇよなあ…」
そう言い放った時の夫の顔を、私は今でも忘れられない。

その年の秋、夫の父、私にとっての義父が亡くなった。
末期のすい臓がんで、見つかった時にはもう施しようがなく、入院して1カ月足らずだった。
夫の悲嘆は想像をはるかに超えていた。「嘆き」という言葉をわななくように全身で表した。人目もはばからず泣き、食も細り、そしてやがて会社を休みがちになった。まあ、確かにそうだなるだろう、あれだけ親の愛情を一心に受けてきた夫は、片腕を捥がれたよりも比較にならないほど痛いのだろう、つらいのだろう。

父親を自分の命だとでも言いたげな夫の気持ちを思うと同情しないでもなかったが、長年、話のろくに通じない義父との同居でのストレスを強いられてきた私には、到底夫の悲痛を分かち合うことなどできなかった。

年が明け2月になった。
娘は中学に上がる。そろそろ新しい自転車や体操服の購入案内が届き始める。私は「野乃子貯金」と名付けた口座にこっそり貯めておいたお金を確認するため、郵便局に足を運び通帳記入した。私がオークションやオープンマーケットで細々と必死で稼いできたお金だ。

ATMから吐き出された野乃子の通帳を見た。

そこには「0」の残高が記載されていた。

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※これは今から10年以上前の話です。
今現在、私は入院し病床でこれを書いています。
邂逅が追いつくまであと10年。
のんびりの更新で恐縮ですが、今しばらくおつきあいください。


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