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褐色細胞腫闘病記 第32回「腸閉塞とピノコ」

また入院している。

私の鼻からは管が通され、腸に溜まっている食べ物や消化液などを吸いだして、腸管内の圧力を下げているらしい。

診断は「術後腸閉塞」
このリスクは第1回目の手術の時から説明されていた。
有り体に言えば、手術による臓器の癒着で腸の通りが悪くなるという、よくある副症状である。

3回目まではこの症状は出なかった。だから私は腸閉塞にはなりにくい体質なのだなと思っていた。だが、そうは問屋が卸さない、ということだったんだろう。
「三島さん、こりゃ典型的なイレウス(腸閉塞)の所見ですわ。鼻から吸って大丈夫だったらオペはしなくて済むけど」
梶並先生がCTの所見を見ながら言う。
「えっ、やだなあ、胃腸だけは綺麗だって言ってくれてたじゃないですかあ」
もうすっかりタメ口だな、と思いつつも、もうしばらくオペはまっぴらだと我儘を言う。

「ああ、そうだね、手術したから癒着して、癒着したからイレウスになって、またイレウス治すのに手術してたらずーっとぐ~るぐ~るしちゃうよねぇ」
「バターが出来ちゃいますかね」
あ、しまった、これは通じないかも、と思ったら意外にも「あははは、あれ、販売中止になるらしいよ」と返って来た。
意外にいろんな本を読んでいる先生なのかもしれない。

「ま、見たところそれほど内容物出てこないから大丈夫だと思うよ。痛みは治まった?」
「はい、薬が効いてます。ここに救急搬送されたときはこの世の終わりかと思いましたけど」
「うん、イレウスで運ばれてくる人、みんなすごく痛がるけど、三島さん叫びすぎ」
「だって、耐えられるもんじゃないですよあれ」

そうだった。術後の痛みも相当のものだったが、譬えて言うなら手術の痛みは大怪我の痛みに近い。そうとう重症な痛みではあるけれど。
イレウスの痛みは、体の中から自らグツグツと痛みのマグマを湧出させている、そんな感じだ。

痛みに絶叫しながら、私は芳河さんを思い出していた。芳河さんが声も出せずに腸の壊死の痛みに耐えていた日のことを。
唸りながら、叫びながら、私はまだ「彼女よりずっとまし、彼女よりずっとまし」を唱えていた。
それは一見ひどいことなのかもしれない。

でも、特別塔の12階でふたりで夕陽を見たとき、彼女は言ってくれたんだ。
「もしこの先、どうしてもダメになりそうだったらさ、”芳河よりはマシ”って思ってくれていい。どんどん思って。それで勇気が湧くなら、私を踏み台にして、ね」と。

だから私は、彼女の好意を受け止めさせていただいた。
「芳河さんの方がつらい、私の方がつらくない、こんなのへっちゃらだ」
それは、まるで鬼畜のような呪文。
でも、ずっとずっとそう言い続けた。それが、彼女の遺言なんだ。私は彼女の好意をきちんと受け止める義務があると思っていた。
でも、もしかしたらそれが効いたのかもしれない。病院に着く頃には、私の痛みはずいぶん緩和されていた。

胃腸系の治療薬や鎮痛剤には、私の病気には使えないものが多い。「プリンペラン」というやたら美味しそうな名前の薬もそのうちのひとつだ。
さすがにその辺はよくわかってくれているようで、梶並先生は適切な鎮痛剤を落としてくれる。

「でもねー、三島さん、ちょっと気になる所見があるんですよ」
・・・は?
「梶並先生、ここへ来ていやな冗談はやめてくださいよお」
「帝王切開やったときに気づいていたんだけど、まあ、あのときはそれどころじゃなかったから誰も指摘しなかったんだけどね、若干左の卵巣が腫れているんですよね。今回のCTで結構それが大きくなってましてね」

…あ、そういえば、体をひねったとき、急に立ち上がったときとか、何かの拍子に左下の腹部痛があったな。
「入院中に婦人科の先生に診察してもらっちゃいましょうかね。紹介状飛ばしておきますね」
梶並先生がちゃちゃっと手続きを済ませる。

卵巣が腫れてるってなんだろう。
また褐色細胞腫が転移してしまっているのかしら。黒い不安が首をもたげてくる。

パジャマを着たまま外来に行き、私は産婦人科の先生に診察していただく。
ちょっと山田孝之に似ている髭面の医師だ。
あの屈辱的な形の診察台に乗る。
「これは医療行為である」と自分に言い聞かせ、大きく足を開く。
これを恥ずかしいと思ったらここにはいられない。負けだ。
膣エコーで卵巣の様子を診る。
「おおお、これですね。大きいですね」
腫れた卵巣の大きさを測る山田孝之。

診察台から降り、身支度を調えて山田先生の前に座るが、なんとなく気まずい。女性ならこの気持ちはわかるだろう。
だが、当然ながら婦人科の医師はこっちの屈託など知ったこっちゃない。

「ブラックジャックのピノコって知ってますか?」
「・・・は?」突然何を言い出すんだ。
「ピノコがいるんですよ」
これ、もし私がブラックジャックを知らない患者だったらどうするつもりなんだろうと思いながら、私も話を進める。
「双子の片割れでしたっけ?」
「入っているのは主に脂肪と、髪の毛、そして歯です」
「えええええっ! もろピノコやん」
なんて面白いの。思わずタメ口が出る私。

「三島さんのは手術適応ギリギリですね。7センチ弱あります。どうしますか」
「え、これって摘出しなくても大丈夫なんですか?」
「"卵巣畸形嚢腫"なんて病名を聞くとみんな驚かれますが、本当によくある良性の腫瘍なんです。放っておいても大丈夫なんですよ。排卵も可能ですし」
おおお、ピノコを飼っているなんてまたネタが増えたやん、と悪魔の囁きが聞こえる。
「じゃ、これ以上癒着が増えてもイヤなので手術は見送ってもいいですか?」
「わかりました。でもギリギリの大きさですので、痛みが出たらすぐに救急車を呼んでください。まれに悪性になる方もおられますから、定期的に通ってください」
病院通いまたかよ…いくつの科に通うんだ私は。

3日後、私は退院した。
便秘を避けるようにと酸化マグネシウムと、腸閉塞を防ぐための「大建中湯」という漢方薬が処方された。
漢方薬なんて、と馬鹿にしていたが、なぜだかこれが私にはとてもよく効いた。

消化の良いものを食べ、なるべくストレスをためず、そしてなるべく笑顔でいよう。もう入院はしばらくゴメンだ。

夜、久しぶりに私が作った同病患者が集う掲示板に入ってみた。
・・・うん?
なんだこの閑散とした感じは。
私は遡って読んでみる。

そして、絶句する。
なんと、ここに集っていた人すべてが、亡くなっていたのだ。

私は「嘘!」と叫んで立ち上がる。

鹿児島のHさん、いつも優しく問いかけてくれたHさんは先月中頃に亡くなっている。確かお子さんが2人いたはず。え、そんなそんな。どうして?
愛知のYさんは骨転移がつらそうだったけど、私にたくさんアドバイスしてくれたし、励ましてくれていた。でも、私が4回目の手術から退院したばかりの頃に亡くなっていた。
そして、私が若干辟易していた東京のSさんは、なんとつい10日前に急変したという。

え? 嘘だよね。
みんなこの掲示板がイヤで抜けただけなんじゃないの?
私は彼女たちが綴っていた闘病日記にアクセスしてみる。
それぞれ全員更新が止まっていて、ご遺族の挨拶が同じように書いてある。

イヤだ! どうして?
こんなに急に進行する病気ではないはず。なのになぜ?
確かに3人ともそこそこ闘病年数は多かった。
その場に立ちすくむが、どうしたらよいのかがわからない。
こんなことならもっと頻繁に掲示板に入っておくんだった。
ギリギリと後悔の歯ぎしりをする私。

この気持ちを話せる芳河さんはもういない。

え、じゃあ私、誰に話したら良いの。

え? え? え?

私はもう一度「褐色細胞腫 患者 ブログ」で検索する。
まったくヒットしない。ああ、誰か。誰か。誰か。

誰か、ここに、きて。

この世に私だけがこの病気で取り残されてしまったようなこの恐ろしさ。
このときの孤独感を、20年近く経た今でも私は忘れられない。
いや、でもきっと、いるはず。だから、掲示板は開いておこう。
ここを探して、入ってきてくれる人がいるかもしれない。

寂しかった。とてつもなく孤独だった。
私は過去の出来事を書いていたブログを立ち上げる。
…うわっ。なんだこのアクセス数は。
しばらく開けなかった間にコメントで溢れかえるブログ。
私は大急ぎで更新する。

あとは夢中だった。私は何よりこの空疎な心を埋めたかった。
誰か、誰か、誰か助けて。
本当はそう伝えたくて、今の孤独を掬い取ってほしくて、私はブログの主人公に自分の孤独を全投影した。

書いているうちに、私の心は凪いでいった。
書いているときだけが、私を立たせていた。
そして私は、読者の励ましの言葉を背に、夫と向かい合うことに決めた。

よろしければ、サポートをお願いします。いただいたご芳志は、治療のために遣わせていただきます。