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褐色細胞腫闘病記 第36回「螺旋階段」

私は側道に車を停めたまま、昨夜のことを思い起こす。

本当は「なぜ」という言葉の礫(つぶて)を夫の全身に浴びせたかった。
そして私が心底納得のいく答えを発してほしかった。
「それじゃあ仕方がないよね」と私が心から言えるまっとうな理由を、目の前に差し出してほしかった。

ねぇ本当に、なぜ。
女性に貢いでいたの。ずっとパチンコがやめられなかったの。父親が死んで自暴自棄になってたの。
ねぇ本当に、なぜ。
こんなことを何度繰り返しても、私が自分のもとからは絶対に離れていかないという傲慢からなの。
ねぇ本当に、なぜ。
営業成績を上げるために、借金で売り上げを補填していたの。それとも誰か困っている人を助けていたの。
   本当に、本当に、本当に…… 、、、

あなたの「本当」は今までいったいどこに在ったというの?

「私はあなたを絶対にむやみに責めたりはしない。よほどのことがあったんでしょ。興信所を頼むことも考えたけど、それはやめたわ。あなたの口からすべてを話してほしいの。離婚するのはいつでもできる。私は、あなたの話をまずちゃんと聞きたいのよ。母もそう言ってる。だから、正直に何もかも最初から話して」

そう一気に放つ私の言葉は、言っているそばから夜の闇にどろり紛れる。
嘘のにおいしかしない言葉達の縛(いまし)めが、私を容赦なく苛んでいく。
「一緒に頑張ればお金なんか何とかなるよ」
ほらほら、また私はがんじがらめになる。喘ぎ始めてる。
本来、私はこんなものわかりのいい妻などではない。
本当は唾棄したいんだ。目の前にいる男を、思い切り罵倒したいんだ。
夫の頬を張った日のことを思い出す。あの時、私は屈服させたかったんじゃなかったか。復讐したかったんじゃなかったか。
私のあの時の快感は、どこから来て、今どこに在るんだろうか。

    よくも私を。 よくも私を。

でもそれを言ったら私は自分を傷つける。だから言わない。言えない。

「わかった。俺、明日、お義母さんに会うよ」
あっけないほど夫はそれを承諾した。
何の言い訳もなく、ただ黙って笑う夫。

「私、ピアノ講師の仕事、もう一度続けたいんだけどいいかな。ちゃんと貯蓄したいの」
夫はキョトンとして私を見る。
「あ、そうだな、いいんじゃないかな。お前は何でもひとりでできるしな」
「なにそれ。嫌味?」

そこに野乃子が居間に入ってくる。笑顔を取り繕う私達。
「野乃子、明日早いんだろ?」
夫はそう言いながら野乃子の頭を撫でようとする。
思春期入り口の野乃子、恥ずかしさで咄嗟によける。夫は苦笑いをひとつして、窓の外に視線を飛ばす。
そこには何も映っていない瞳。
この瞳…どこかで見たことがある。
ああそうだ、ライオンに追いかけられているインパラの眼じゃないか。
取って食いやしないわよ、と、思わず笑いが顔に出る。
湧いてしまった笑顔を頬の端で捻り潰していると、意図せず涙が出てくる。

これまで私は彼にいくらお金を渡してきたんだろう。
独身時代、ピアノの生徒が50人以上いた。英語の得意な私は英語も教えて稼いだ。そのうえ空いている時間がもったいないからと昼間は事務仕事をしてパソコンを覚え、またある時は接客をしてお客様への正しい言葉遣いを覚えた。
タフだね、すごいね、よく働くね、と周りは揶揄を込めて私を評していたけれど、私は社会に必要とされているという実感がないと生きられない、不安神経症的な精神的脆弱さがあり、タフとは程遠かった。が、それを隠す狡猾さもあった。
私が彼の借金癖を許してきたのは、言ってみれば自分のためだったのかもしれない。金に頓着がない分、金のことで生活基盤が揺らぐというのが我慢ならなかったに過ぎない。すべてなかったことにしたったのは、私のほうかもしれない。
でも、結果、私は彼を甘やかしただけだった。金の管理が一切できない男に成り果て下げたのは、明らかに私だ。

だが、借りたものは返す、それは人と人とが一緒に歩むうえで、最低限守るべきルールだろう。
ましてや、黙ってサラ金に借金したり、私が細々貯めた貯金に手を付けたりするのは、明らかな反則行為だ。

結局、私は認めるのが怖かったのだ。
「この人は、私のことを全く愛していないのではないか」と認めたくなかった。夫を許せない。そして欺瞞だらけの自分も許せない。
全部最初からぶち壊して、すべてをやり直せたらどんなにいいだろう。
や、もう、果てない螺旋階段を昇りつつ壊すことが全く意味を成さないのは、誰の目から見ても明白すぎる事実じゃないか。
私は一生懸命、その先の言葉を探したが、それ以上考えていると闇に体ごと引き裂かれそうになり、昏い思念を強制的にやめる。
不要な諍いは明日に取っておこう。
私は湧いてきた涙を拭い、居間をざっと片付け、明日の野乃子の卓球の道具を準備する。

「あー、俺、ちょっと飲みすぎたなぁ。今日はもう、寝るわ。おやすみ。」
「ちゃんと缶、片付けてね」

----------そう、これが。

これが、この世で交わした、私と夫の最後の会話だった。


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