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僕がウクレレポエムをやっている理由その1

前書き、自己紹介から動機
私がなぜ、ウクレレポエムをやってるか?
(転職と自分がわからない生き辛さ)

自分がわからない、何がしたいかわからない
そんな、得体のしれない漠然とした生き辛さにもがいていた。
職場で、信頼関係に基づいた長期的な人間関係が築けない
転職という手段で現実逃避することしかできなかった。
結果、転職ばかりの悪循環に陥っていた。

自分でも、理由がわからない。
人といると、なぜか息苦しかった、自分じゃない自分を演じるのに疲れていた。
予定調和の同調圧力が、心を雁字搦めにしていた。
説明したくても、言葉にできないもどかしさ、モヤモヤ感だけが増幅していた。
自分のボキャブラリーの無さに愕然としていた。

ある日、帰宅途中の電車の中で、疲れ切って寝そうになっていて
ふと「自分は、一日のうち何時間自分の意志で動けるんだ?」と疑問が湧いてきた。
通勤電車の中だけが、自分が自分自身でいられる空間なんだと気が付いた時は愕然とした。
いったい自分とは「何者なんだ」

会社と家の往復人生。
会社では、上司やお客様の顔色伺い。家に帰れば、嫁さんと子供。
会社員と旦那、父親という役割だけ人生。
「会社」が「世界」、「仕事」が「人生」そんな感覚。
決して、不幸せじゃない、贅沢を言わなければ飢えて死ぬことはまずない状況。
平凡を絵にかいたような無難な人生。

じゃ、なんでこんなに生き苦しいのか?
「何かが足りない・・・。」
そんな疑問がどんどん大きくなっていった。

仕事、人間関係、世の中の仕組み?
知らないことが多すぎたことに気が付いた。

決して、劣等生ではなかった学生時代、必要なこと「以外」を
寄せ集めて、学んできたような気がする。
虚無感に襲われる。
「自分は、何も学んでいなかったんだ!」

いつの間にか、教育を悪者視している自分がいた。
生きていくのに必要なことだけを教えてくれればよかったのに・・・。
不必要な、「ゴミ」だけを寄せ集めて、それをあたかも「大事なもの」として
頭に苦労して詰め込んできたような気分。
良かれと思って努力してやったことが、逆に致命傷になった気分。
もっと言えば、「テニス」の特訓やって、試合に出たら「野球」だった、みたいな
世の中の汚い大人たちに騙され続けてきた感覚だった。
悲しみに裏打ちされた、やり場のない怒りがこみあげていた。

教育を変えたい!最初は、そう思った。
公教育なるものを、責めていた。いや、憎んでいた。憎悪。

そのころ、丁度「不登校」や「引きこもり」という言葉が世の中に広がりを見せていた。
今まで、あるにはあったがタブー視されて表面世界には出てこなかった種類の言葉が
テレビや新聞など多くのメディアにあふれていた。

それと呼応するように、
「フリースクール」
「アダルトチルドレン」
「発達障害・愛着障害・アスペルガー」
「HSP」
など、年々新しい言葉が増えていった。

新しい教育・社会システムへの模索と、病気や障害方面への個人の内面への
原因探求・解決へのアプローチが広がっている感じだった。
それらの表面的な見える現象にばかり、気を取られていたら
親も教師も政治家も、誰も責任取らなくていい。
「その子が問題」なんだと。
問題にされた子供自身は、苦しくて仕方ないじゃないか!
結果「罪悪感」や「劣等感」でいっぱいになり自分を責める「いい子」ほど
孤独の闇に葬り去られる。
ちょっと救われるのは、「病気」や「障害」のせいにして
その子のせいじゃないとする方法。
本人も親も一時的には逃れられる。「自分は、悪くなかったんだ」と。
医者も製薬会社も儲かる。親も学校も誰も責任取らなくていい抜け道。
「自殺」は防げるかもという点では、まだましな選択だと思う。

当時「なんで屋」なる面白い商売も目にした。
路上で屋台形式の「よろず相談屋」みたいな感じで、店主がお客の「疑問・なんで?」に答えていいく。
にわかに答えの出ない「モヤモヤを抱えた人々」が世の中にあふれていたのだろう、結構流行っていた。
納得したらその対価を、自分の気持ち分の値段で支払うという珍商売だった。
興味があってちょっと覗いていたら、いろいろ「お題」が書いてあった。

「自分って何?」とか
「勉強するのはなんで?」とか
「神様ってなに?」とか
「生き辛いのなんで?」とか

本当に、自分も感じていたような素朴な疑問が書かれていたように思う。
多くの人が、何か時代の変化のような「生き辛さ」に基づく
不安と新しい時代の空気のようなある種の期待、希望そんな
180度正反対の空気が一緒に入り混じったような「何か」を感じているようだった。

私だけじゃなかったんだ・・・。
そのとき、気が付いた。

以来、「生き辛さ」や「素朴な疑問」から創発された探求心は
多くのキーワードを経て、その現象の裏にある背景を映し出してきた
個々にあるキーワードがつながって線になり、面になり
あたかもパズルを仕上げるように、私の頭の中でつながった。

目に見える「現象」とその背景にある目に見えない「真実=問題の本質」
その正体を暴き、世に知らしめる事。それこそは、私の人生に与えられた「意味」かもしれない。
承認欲求に振り回されて、虚無感でいっぱいだった「ゾンビ人生」からの脱出。
自分の人生に意味づけすることで生まれるエネルギー。
正体を暴き拡散する手段をやっと手に入れた喜び。
自身の内面から湧き上がる「ワクワク」と「情熱」に今アクセスしている。
30年近くかかったけど、それがいま私を動かしていることは確かである。

「その人生でしか、救えない命がある」
当時出会ったある人が教えてくれた言葉。

世の中に、同じ「人間」は存在しないということは、同じ「人生」は絶対にない。
すべてが見事にオリジナル。生きてるだけで、オリジナル。
その人生は、何を守るために、誰を救うために、誰とつながって
何と戦うためにあるんだろうか?

一緒に考えていただけたら、これ以上うれしいことはない。

※参考:すべては、生き残るための戦略、戦術
https://note.com/tanokuru/n/n48faea2580c9

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