自分を生きる!良い子の「生うた」49話

https://youtu.be/-Og535nusJQ

「みんな仲良く」を深堀考察したら、実は責任回避の方法だったことに気づいてしまった。

皆さんは、いじめについてのニュースを聞くたび、なんとなく「また隠ぺい」「動機、理由がはっきりしない」
「いじめがあったかどうかもはっきりしない」というモヤモヤ感を感じることはないでしょうか?

どうも、いじめは「感覚」で始まるようだ、そしていじめに関わるのを断ると、今度は自分が
標的にされるという自己防衛的ジレンマに陥ることになる。

昔もいじめはあっただろうが、インターネットなどの情報公開ツールがあまり発達していなかったため
一気に世間外に知れ渡ることもなかった。
つまり、「世間外」からのバッシングや影響、責任は現在ほど問われることはなかったんじゃないのかと推測する。

人の流動性も今ほど大きくなく、ご近所がほとんど顔見知りの為、なんとなくご近所のつながりで
「まあまあ、お互いごめんなさい」ということで、幕引きになっていたんじゃないかと。

ところが、インターネットやスマホなどの情報機器の発達により情報の流通量と方向性が多様になり、
悪く言えば顔見知りの内輪の事件じゃすまなくなり、ある意「公けにばれてしまう」「公表」される状況に
なり、世間内の子供の問題から、世間外の一般社会からの「いじめ」に問題に視点がすり変わってきたように思われる。
つまり、誰かが一般社会から責任追及され、罰せられる、バッシング、晒される状況になったということ。

そうなると、誰も「責任」なんか負いたくないから、子供世界の「監視」が強化され
「あれもダメ、これもダメ」と、どんどんルール化が厳格になっていく。
だから、前回動画「生うた」48話で言ったように、「みんな仲良く」って大人でもできないことを
子供に「面倒起こさんといてね」という代わりに、お題目として言っておく。
だって、問題起きたらだれか「責任取らなあかん様になってまうやんか」と。

だから、いじめ問題起きたらもう必死で「無かったこと」にするしか「隠ぺい」するしか手がないやんか。
それが、何年も何回も起きてる「いじめ隠ぺい事件」の本質ではないだろうか?

すべては「責任回避」のために誰も責任取らなくていいように「安全装置」
大人が不安なく働けるように、監視管理→刑務所化
指示どうりに動く「良い子」のゾンビ人間量産と。

一方、ヤンキーみたいに外側にストレス発散できる「言うこと聞かない」側は
「人権」やらなんやらで、「先生」の側が反撃できないのをいいことに
どんどんエスカレート。結果として、いじめられた方に泣き寝入りしてもらわないと
困る、仕方がないという図式ではないだろうか?

結局「弱者」である被害者さえ「いじめは無かった」ことにしてもらえれば
誰も責任問われないで済むから。

弱者は報われない・・・。真実に向き合う大人に出会えず
世間という見えない利益共有ネットワークになかったことにされて葬り去られるから。

「彼らの心が弱かったんじゃない!!!!!!」個人の問題にするんじゃねーーーーーーーーー!

だから、子供たちも自分の身を守るためには、自分のいつも一緒にいるグループに
属して、いつも一緒に行動しなければ危ないと思う。
こうして「いつも群れて、仲良くなければいけない」というある意味ストレス源が生まれる。
いつも周りに気を使い本音を抑圧する「優しい関係」の維持にエネルギーを使うので
日常生活が異常に疲れる。

大人の会社員と同じ状況。
世間とは顔見知りの人間関係における集団力学であり、利害関係だから
内と外に分けられ一旦何らかの問題が発生し「外」として見捨てられたら
生きていけないという「恐怖や不安、ストレス」でいっぱいになる。

「群れてないと不安」
「一人でいることが許されない」
「仲良くしていないといけない」
見て見ぬふりの見捨てられ不安から、権利を割り引きり、自己の本音を抑圧
し続けた結果、魚の死んだような目の「ゾンビみたいな」善良ないい人、大人量産されてませんか?

真実に向き合いお世話になっている人に都合が悪い「本当のこと」を言ったら
あるいは、人を傷つけたとしても責任を取る覚悟で本音を発したとしても
人格否定や多数派からのバッシングにあい、弱者である個人には
勝ち目はないから、みんな黙るしかなくなる。
様子を見て、勝ち馬に乗らないと自分の身が危ないから
誰も損したくないから。

「協調性」や「和の精神」なるものは良いイメージの言葉ではあるが
利害関係者に忖度し、空気を読んでお互いに迷惑をかけないように
気を使いあう優しい関係性を持てることが、日本的コミュニケションの
意味ではないだろうか?

ひとたびその「日本的コミュニケーション」が普通になると
思考は停止し個人の言葉を失うことになる。
つまり、本当の意味での他者(異質なもの)との関係は結べない
なぜなら、表面上同じものしか周りに入れなくなるから
異物である他者は、内と外の「外」に排除するから。

そうやって、内側仲良しグループ内での「自我」は拡大肥大し、他者と共に創る「自己」は育たなくなる
その拡大したグループ内「自我」は、「自分」と「みんな」の区別がつかない
自他の境界線がない状態になるから、自分がそう思ったら相手もそう思っていると錯覚する。
それを「共同幻想」という。

つまりここで一般に言う「協調性」とは「同調性」のことではないのか?と
言葉の使い方に若干の違和感を感じる。

「和の精神」とは、対立を殺害し、弱者との対話を避ける
空気による多数派への利益誘導システムのことではないのかと。
意志決定と利益は既得権益側へ、責任のみトカゲのしっぽ切のごとく
組織の弱者(いい子、いい人)へしわ寄せする仕組み。
丸山正男曰く「責任の後方移譲」である。

「空気」の本質とは「前提」のことだから、その前提を壊すためには
「和の精神」の本質である「状況功利主義」について知る必要がある。
真実を明らかにするための「対立」「対話」は悪ではないことを、共有することである。

メディアによる情報操作で、「噂になったらもうおしまい」という恐ろしい
状況を変えるためには、双方の言い分を十分に公平に伝えるメディアが必要だ。

「仲良く群れることで責任を回避する」
他者の顔色を見て、本音を抑圧し、権利を割り引くことで
居場所を確保するスタイル。

皆さんはどう思いますか?

参考書籍:
子供を呪う言葉、救う言葉 出口保行 著
対話のない社会 中島義道 著
暴走する世間 佐藤直樹 著
いい子に育てると犯罪者になります 岡本茂樹 著

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?