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『敗戦後論』 加藤典洋 " 語り口の問題 "

① ハンナ・アーレント
 筆者は、第二次世界大戦中にドイツからアメリカに亡命した哲学者であるハンナ・アーレントの文章を読み、そこに書かれている問題が日本で自分が考えてきたことと地続きであると感じた。
たとえば、筆者はユルゲン・ハーバーマスが主張する市民的公共権について、「公衆の自覚を持った市民」や「公開の討論によって世論を形成し」といった、市民主義に付きものの腰の軽さを感じていた。一方でアーレントは、公共性という考え方を個人原理といった近代的なものからではなく、古代ギリシャ・古代ローマから取り出してくる。彼女の公共性という概念は、むしろ名誉・誇り・政治といった反個人主義的な前近代的な思考を母体としていた。なぜならアーレントが自らが持つユダヤ人としての民族性やその思想の「共同性(シオニズムなど)」を殺すために、「公共性」という古典古代の概念を、対置物として必要としたのである。
「共同性」とは元々はさほど原理的な意味は持っておらず、せいぜい副次的な概念として存在している。しかし戦後の日本が置かれた思想的・道義的な環境によって、「共同性」の問題が解決されるべきものとして成立してしまった。この一点によって、我々日本人はユダヤ人思想家と共通の場所に立っているというのが、私の基本的な認識なのだ。
 何人もの戦後知識人たちが啓蒙的な市民主義を唱え、一方でその鬼子のようなかたちで現代思想家たちが極端に観念的な外部性を対置した。しかし前者は大衆社会の中に拡散し、後者は共同体嫌悪のロマン主義的な表現にすぎないことが明らかになって消滅した。かつて筆者は「共同体とは内側からしか開かない扉を持つ閉鎖空間であり、内側にいる者にしか解体できない」「共同体の外に出ることは、その解体を意味しない」と述べたが、アーレントも同じ問題にぶつかっていたもである。
 イアン・ブルマは『戦争の記録 ー 日本人とドイツ人』で、両国では平和主義が戦争の罪悪感を和らげる「高潔かつ好都合な方法」として機能していること、また「アメリカの占領政策によって天皇が免責されることで日本では誰も動議を問われにくい特異な国になった。これは日本人にとっての ” 受難 " ではないか?」と指摘している。たしかに戦後、私たちは道義的にはこれ以上ない泥沼に落ちたのではないだろうか? そう考えるところからしか、私たちがその苦境を抜け出る方途はでてこないと、筆者は確信している。
 アーレントは「パリア(賤民)としてのユダヤ人」という表現を使って、ルソーの博愛(兄弟愛)を否定してレッシングの友愛を必要とする。前者は快楽と苦痛を基にして「音声」を生むが、後者は歓びを基にして「語り口」を生む。ユダヤ人にとって侮辱され自尊心を傷つけられたパリアとしての経験は、何の光明もない場所で人の生に触れることだった。しかし、そこには政治的な意味はない。だからこそ、パリアにとって友愛が必要となるのだ。一方で戦後の日本人は、ユダヤ人とは対極の意味でパリアになったのではないか? その自覚があってはじめて私たちを包む戦後の共同性を解体できるのだと、筆者は考える。

② 素猫ー戦後の歪み
 戦後日本は占領とその後の推移により、平和憲法の押し付けや最高責任者である天皇の戦争裁判での免責といった数々の矛盾に顔を見せている「ねじれ」を、その根源に抱えることになった。このねじれが、日本社会を「歴史を形成する主体を持たない分裂した人格」にした。これによって、ねじれに目を瞑る護憲派と、ねじれの解消を目指す改憲派との、出口のない人格分裂が生じてしまった。ところで、この二者に分裂した主体が国民として歴史形成の主体たりえないとは、どういうことだろうか?
 日本の侵略を認める発言があると、決まって日本社会のうちに潜むもうひとりの内的自己が暴発を引き起こす。「南京虐殺はなかった」などと。日本の戦後の問題の核心はここにある。これは歴史を時期受ける主体が戦後日本に形成されていないという事態であり、この人格分裂から回復できない限り思想の生きる公共空間がない、ということを意味している。ではどうすれば、この分裂を克服できるのか? 迂遠なようだが、そのカギは死者の弔い方にある、と筆者は考えている。死者の弔い方において、日本の侵略戦争がもたらしたアジア二千万の死者への謝罪と、自国の間違った戦争で無意味に死んだ三百万の死者への哀悼の、分裂が現れている。この根源にある問題は、侵略戦争のために無意味に死んだ自国の死者を無意味なままに深く弔う方法を、私たちがいまだに見つけられないでいる、ということなのではないか?
「悪い戦争を戦った敗戦国」というカテゴリーは、じつは世界戦争の出現以前は存在していない。戦死者を義によっては弔えないかたちで戦争をはじめ、終えた敗戦国は以前はなく、敗戦は道義的な敗北を意味していなかった。逆に国民意識の形成のひとつの契機となったのだ。ここにひとつの現代的な課題が顔を見せている。戦後日本が抱えている自己欺瞞からどう自己回復するかという課題は、新しい現代的意義を持つのである。戦後の日本がようやく他国に対して謝罪する、その謝罪主体を作り出せる。そのようなあり方は、そもそもどのような死者の弔い方を要請するのだろうか? 日本の三百万の死者を悼むことを後回しにして、アジアの二千万の死者の哀悼・謝罪を行うことなんて不可能ではないだろうか?

③ 『イェルサレムのアイヒマン』
 元ナチの戦犯でアルゼンチンに潜伏していたアドルフ・アイヒマンは1960年に捕捉され、イスラエル最高裁判所で死刑判決を受けて1962年に絞首刑が執行された。『イェルサレムのアイヒマン』は、アーレントがこの裁判を雑誌『ニューヨーカー』の特派員として膨張した上、尋問調書や膨大な資料を駆使して書き上げた3年がかりのルポルタージュだ。しかし、発表直後から主に欧米のユダヤ人社会やイスラエル・ドイツ国内を中心に大きな論議を呼び、数年にわたり反アーレントキャンペーンともいうべき彼女への批判と、激しい論争が起こった。
 このルポルタージュに対してこれだけ激しい反応が引き起こされた理由は、次の3点にようやくできる。
 まず第一に、それまであまり公然とは語られてこなかったヨーロッパのユダヤ人強制収容におけるユダヤ人組織のナチスへの協力ぶりを、はじめて正面から取り上げて道義上の責任を問題にした。特にユダヤ人強制収容の部署の責任者だったアイヒマンが中心となって、ドイツ支配下の主要都市に作られたユダヤ人組織の指導者を動かすかたちで仕事を進めた。こうして生きながらえた元指導者の大半が、イスラエル建国に関与した。
 第二に、アーレントはドイツにおけるヒトラー統治下のドイツ旧指導者層と保守派・軍人指導者によるクーデター計画(レジスタンス)を批判した。クーデターの首謀者が準備していた政綱領には、ユダヤ人絶滅政策への批判的言及が一言もなく、また連合軍との休戦交渉に対する基本認識にも驚くべき楽観主義と杜撰さが見られたのだった。
 第三に、この著作全体に流れる「語り口」の問題がある。この文章が発表された『ニューヨーカー』誌が持つ、知的で瀟洒な都会的センスに相応しい「硬質でしゃれた」語り口を持ち、さらに皮肉と風刺をまじえる乾いた語調と言い方からなっていた。
 アーレントというハノーバー生まれのユダヤ人女性、十代半ばでラテン語・ギリシャ語に通じ大学でハイデガー・フッサール・ヤスパースに学び、アウグスティヌスを主題に学位論文を書き上げたが学者への進路を拒否。ヒトラー政権下でパリに亡命して親シオニズム運動に従事し、やがてアメリカに亡命して『全体主義の起源』なる著作でデビューした人間に、誰もが一筋縄ではいかない「わかりにくさ」を感じていた。『イェルサレムのアイヒマン』が出版された後、彼女はまず在米のユダヤ人組織ぐるみの反アーレントキャンペーンに見舞われた。そこでは事実を歪曲した要約が流布され、それに二重三重の批判を加える陰険なやり口が採用された。この非難の嵐の中でアーレントは一度だけまともに批判に答え、四つに組んだ論争を行っている。それが、1963年に行われたゲルショム・ショーレムとの往復書簡だ。

④ 共同性と公共性ーショーレムとアーレントの論争
 アーレントとショーレムの論争では、ホロコーストにおけるユダヤ人指導者たちへの態度が、焦点のひとつとなった。ショーレムは、悲劇的状況に置かれた「同胞」への同情に欠けるとアーレントを批判した。「しばしなほとんど嘲弄的で悪意のある語り口」に、共感を覚えることはできないと。それに対し、「相手がたとえ同胞だったとしても " 判断する=裁く " 責任を回避することはできない」と、アーレントは回答した。
 「民族の娘」でありながら、なぜアーレントが書くものには「同胞」への同情がないのか? 「誰が、あの状況でユダヤ人の指導者たちがどういう決定をすべきだったかを言えるでしょうか? 私はその場にいなかったので、あえて判断しようとも思いません」と、ショーレムは彼女を批判した。これに対し、アーレントは「私は頭のてっぺんからつま先まで我が民族の娘で、それ以外ではありえない、という言い方には奸計めいたものを感じる。自分にとって「ユダヤ人性」は所与のひとつでしかない」と返した。ショーレムの言い方が、民族という「自然による」形質を使ってアーレントを暗々裡に圧迫していると訴えたのだ。
 ここでショーレムとアーレントを隔てているのは、濃厚な「共同性の思考」と、強固に反共同的な「個人的思考」の対立だ。強固な共同性が、これに従わないものを強固な個人性(公共性)へと追いやらざるを得ない歪みがここでは明らかになっている。アーレントの思考は、ショーレムに代表される強固な共同性の世界を基にして生まれてくるのだ。彼女の思考は、ある共同的なものに強く対立し、その対立自体を解体しなければそこから自由になれない、というように伸びる。しかし共同性が壊された後に対置されるのが「公共」でありその単位が「個人」だとしても、先に「共同性」を壊すものは何か?
  アーレント、はショーレムの共同性にふたつのあり方を対置する。それは「共同性に対置される " 個人 " という単位」にたつ共同体、また「共同性の単位としての " 私 " 」に立つ共同性。そして彼女はその両方を否認する。彼女はどんな共同体も愛さず、「友人」しか愛さない。また、「ユダヤ人への愛」というのも、自分がユダヤ人なので自分自身を愛することはできないのだ。さらに、彼女は先のショーレムの問いについて、後に「我々自身がそこにおらず、それに関係していない以上判断できない(裁けない)、という議論は、もしそれが本当なら誰も裁判官や歴史家になれないことになる」と答えている。この論理的な答えは鏡のように明晰だが、その基になっているのは共同性ではなく公共性なのである。アーレントが公共性を必要としているのは、共同性の思考をどうしても解体しなければ彼女のような人間は生きていけないからだ。ここに彼女の思想経験と、「どうすれば死者との共同性を解体して、死者との関係を公共化できるか」という、戦後日本にとっての未知の課題の接点が見える。
 彼女にとって判断者=裁き手のモデルは「注視者」という第三者的存在だ。公正な判断=裁きが成り立つためには、判断者=裁き手は当事者性を持たないことが必要だと彼女は考えた。注視者であることと、「普遍的正義」を前提にすることは同じではない。彼女にとっては普遍性を先立たせる「規定的判断」ではなく、個別性しか与えられていないところで判断する「反省的判断」が死活的に重要だったのだ。第三者性はなぜ必要だったのか? それが権利を持たなければ、ショーレム的な共同性の濡れた手をはじくことができないからである。非当事者として存在することがほぼ不可能な場所で、それゆえに掴まれる第三者性であるが、それがこの始点から公共性の方に育っていった「パリア」の第三者性なのである。

⑤「語り口とは何か」
 アーレントとショーレムの論争では、その一番深いところで「語り口」の問題が差し出されていた。アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』を支える語り口がショーレムの言う通り軽薄さや生意気さを持ったものかどうかは、語学的に筆者の能力を超えているのでわからない。しかし、このルポルタージュ全編を通じて彼女がこの重い主題にはっきりと距離を取り、時に辛辣に時に皮肉を交え、ドイツ支配地でのアイヒマンに関わるユダヤ人の移送について膨大な資料に依りながら、淡々と叙述を重ねていくさまは、非常な迫力を感じさせる。また、アイヒマンの味方なのかという評を生むほどに彼について深くコミットし、可能な限り彼に沿って物事を理解しようと試みている記述も、筆者に極めて強い印象を与えた。
 アーレントについて良質の分析を試みている評伝『ハンナ・アーレント』で、著者シルヴィ・クルチーヌ=ドゥナミはこの語り口の問題にページを割き、非難のいくつかを紹介して論評している。当時最も問題になったのは、ユダヤ人社会で最も敬愛されたレオ・ベックの書き方である。彼はユダヤ人移送の事実を知らされないままナチスに協力し、最後に真実を知り絶望するが、この真実に仲間たちが耐えられないと考え、それを内に秘める。アーレントはもちろん彼の徳の高さを知ってはいたが、それでも「ユダヤ人の総統(ヒトラーを指す言葉)」と形容した。ショーレムの抗議により、第二版ではアーレントが例外的にここを削除したが、イスラエルを代表する哲学者マルティン・ブーバーも、これを「節度を欠いた語り口」だと非難している。
 はっきりしているのは、心ある多くのユダヤ人知識人を困惑させ憤慨させた「嘲弄的で、悪意ある」語り口の採用は、アーレントの無思慮の結果などではなくこの仕事の起点に位置する動機なのである。彼女はアイヒマンが捕捉されたという報道の直後の時点で裁判が開かれるのを知り、立ち会うことを計画している。そして、この時点で『ニューヨーカー』への掲載というかたちでアイヒマン裁判への立ち合いを考えていた。ほぼ同時期に同誌で企画されていたトルーマン・カポーティのノンフィクション・ノヴェル『冷血』に刺激を受けた可能性もある。語り口に思想的な意味を見ることである共同性を殺す、思想的なフィクションの試みに他ならないところが、両作品の共通点である。
 ともあれ、彼女のルポルタージュの発表場所は、はじめからいかにもホロコーストから遠い、場違いな、軽薄で不謹慎な、しゃれた都会的雑誌でなければならなかったのだ。
 

⑥ 私の領域
 しかしこの語り口について、当のアーレントは不思議なほど沈黙していた。彼女が語り口について発言した数少ない機会では、「私はどんな組織にも属しておらず、常に自分自身の名においてしか語りません。また私はレッシングが『自立的思考』と名付けたものに多大な信を置いています」と言っている。また、「語り口とは非常にアイロニックで、実際には発した人の人となりと不可分です。発言内容への批判には答えようがあるが、語り口についての批判は私の人となりへの異議でしかないので、どうしようもないのです」とも言っている。彼女は別のところで、「自分の民族の悪は他民族の悪よりも自らを深く悲しませるが、それは口に出されず、" 別種の行動あるいは態度の最も深く秘められた動機 " となるだろう」と述べている。この発言に沿って想像すると、彼女の軽薄な語り口に「もっとも深く秘められた動機」とは、おそらく悲しみ(グリーフ)なのだろう。
 では、なぜその悲しみはアーレントの口に出されないのか? その悲しみの主体が共同性に連なる「私自身の人格の一部、一断片」だからである。 それは、彼女が『人間の条件』で述べる定義に従えば「奪われてあるもの」であり、語る主体が不在の事態なのである。彼女は同じインタビューで「愛」についても同じ考え方を示し、「私は自分の友だちしか愛せません。それ以外の愛のかたちは完璧に不可能なのです」と述べている。彼女が定義する愛は、「世界から私的な領域への撤退」なのだ。
 アーレントの言う「愛」はプライベートな領域に属し、「敬愛」はパブリックな領域に属している。愛は「自然」によって与えられ、敬愛は「法」によって作られる。また、彼女が敬愛する " 真理・戒律・道義・法に依拠しない " レッシングは、「友愛」のために真理を犠牲にする覚悟をもって「こうした主義は、たとえ証拠によりどんなに正しいと証明されるにせよ、ふたりの人間の間のかけがえない友愛を、そのために犠牲にすることを正当化するだろうか?」と語る。ここにあるのは、どういう問題なのか?
 アーレントと、彼女の師であるハイデガーの友愛エピソードがある。かつては恋仲だったこともあるが、ハイデガーはナチスに入党しアーレントは亡命したため、両者の交流は途絶えた。彼は戦後も自分がナチスに協力したことを反省しなかったが、彼女は戦後彼の元を訪れ、その後も死ぬまで交友関係を維持したのだ。なぜ思想的に許し難い人物と友愛の関係を結べるのか? それは友愛が、世界から撤退した非公共的な領域で成立しているからである。
 ここで友愛は、「愛」と「敬愛」の双方にまたがるものとして存在している。人はプライベートな領域に属する「私」と、パブリックな領域に属する「個人」にまたがるかたちで存在している。彼女は一個人として公共的な世界で彼を糾弾しながら、同時に一個の私性として私的領域で彼と交流を保ち続けるのである。さらに筆者は、アーレントがハイデガーを厳しく批判していたからこそ、友愛の関係が結べたのだと考える。アーレントがアイヒマンの裁判に陪席しながら視界の片隅にいつも感じていた存在は、このハイデガーだったのかもしれない。
 アーレントが「私は民族を愛さない」といくら言っても、ショーレムに代表される共同性は「あなたに欠けているのは心なのだ」と言って嘆けばそれで済んでしまう。共同性を殺すには、共同性の単位である「私」の場所から " 裏の闇である私=私性 " となって語るしかない。「私性」とは、世界から奪われた存在にほかならない。私に残されているのは、語り口だけなのである。

⑦共同性を破るもの
 アーレントは文字通り、共同性という彼女の前に立ちふさがるものから、その語り口を取り出してくる。『イェルサレムのアイヒマン』の中では、裁判の首席検事であるギデオン・ハウスナーが、冒頭から終章まで彼女に批判され揶揄され続ける。彼はこの裁判の影の演出者である首相ベン=グリオンの代弁者であり、この裁判を利用して全世界にユダヤ人の悲劇の事実を知らしめようと、アイヒマンが関わっていない多くの事実をでっち上げるためにおびただしい証人を喚問し、証言を引き出そうとする。
 アーレントの眼にこの裁判は、ハウスナーの語り口に象徴されるむごさ・醜さを帯びている。それは彼女の民族の共同性が持つむごさであり、この共同性は民族性の中で打倒されなければならないと考えた。共同性とは最終的に語り口として現れる。語り口を殺すものは別の語り口でしかない。共同性に変わるものが個人性や公共性だとしても、まずは共同性と同じ世界の住人である私性による共同性の殺害が必要とされる。彼女の語り口はハウスナーの語り口の完全な陰画なのであり、イスラエルやユダヤ人社会が欠落させたものだけで成り立っている。いわば、その共同性を闇に使った鏡なのである。
 共同性と公共性の対立とは、ユダヤ人でいえばシオニストと同化ユダヤ人の対立である。アーレントはかつてシオニズムの近くで活動していた時に「ユダヤ人は選民意識を捨て、普通の民族になるべきだ」と主張した。メシア待望がある限り、そこを逃げ場としてしまってユダヤ人が歴史に投げ出されることはない。そこで彼女は、ユダヤ人が他の民族同様に軍隊を持ち、彼らに政治的体験を強いることに積極的な意味を見出した。それに対してショーレムは「それはユダヤ人の終わりを意味する」と批判した。アーレントとショーレムの語り口をめぐる論争は、共同性と公共性の対立だったのだ。
 さて、話を大きく戻すと、「なぜ人は南京大虐殺などの事柄に関して無限に恥じ入り、責任を忘れないという語り口に接すると、そこに鳥肌が立つような違和感を感じるのか?」 という問いが残る。特徴として、それが公共性に達しておらず、共同的だということだ。死者との関係が共同性としてある限り、私たちは分裂した主体としてしか他者の前に現れることができず、歴史形成の主体を構築できないからだ。旧護憲派と旧改憲派の語り口が相似的なのは共同的だからであり、死者との関係がともに共同的だからである。
「汚辱の記憶を保持し、それに恥じ入り続ける」とは、共同性の言葉では言えないことが共同性の語り口で言われているのである。これはアーレントの言い方なら「たとえある種の行動か態度かの最も深く秘められた動機になりこそすれ、決して口に出して語られるものではない」はずのことだろう。「恥じ入り続ける」ことは、人を世界からいったん撤退させるのだ。それは、語ることとは別の動機になるのである。
 最後に、シオニズムの指導者のひとりであるクルト・ブルーメンフェルトの話をしよう。アーレントは幼いころから彼と知り合いで、彼女がユダヤ人問題に興味を持つきっかけにもなっている。アーレントはもう一人の師カール・ヤスパースとの手紙のやり取りで、彼は「ゲーテのおかげでシオニストになったのだ。シオニズムはドイツからのユダヤ人への贈り物なのだ」としばしば語っていた、と記していた。シオニズムにもハウスナーに象徴されるものと。ブルーメンフェルトに象徴されるもの、このふたつが存在する。ブルーメンフェルトはイスラエルに帰化後、なぜその同化名をヘブライ的な「本来の名前」に戻さなかったのかを口にはしていない。そう、それは口にしてしまえば(主義として語られれば)そこで消えてしまうのだ。彼にとってドイツ性とシオニズムは、彼を動かすふたつの核だった。そのふたつが不安定なまま拮抗することで、語られない私性の核となることで、共同性のくびきを越えて普遍的な意味につながる。
 それは私性が個人という公共性の洗礼を受けないまま共同性の外に抜ける、ひとつの可能性を指示するもののように思われる。アーレントの語り口の問題が示すのも、同じ可能性である。


■ あとがき
 この本は二年半ほどかけて書かれた筆者なりの戦後論だ。この本は性格の異なる3本の論考からなっている。「敗戦後論」が政治篇、「戦後後論」が文学篇、そして「語り口の問題」がその両者をつなぐ蝶番の論である。その中で筆者が最も意味を感じているのは「戦後後論」が展開している議論であり、政治と文学・他者と自己の対立は、文学・自己の観点に徹する時にのみ解除される、ということ。つまり文学と自己は対立しないのだ。
 現在この日本に住んでいる人で、「風通しの良い社会」や「他国との関係において真っ当な責任を果たす社会」を求めていない人はあまりいないだろう。しかし戦後50年を過ぎてもそうはなっていない。その大きな理由は、旧護憲派によるイデオロギー的な国民批判によるものだと筆者は考える。国民という単位をひとつの「悪」というイデオロギーと捉え、批判的な立場に基づいてトップダウン式に事を為していく。結果として、「国家・国民は悪だ」という国民批判イデオロギーと、そのカウンターとして現れる「国家・国民は善だ」という国民称揚イデオロギーの対立が生まれる。このイデオロギー的対立は現実との関係から導き出されてはおらず、旧護憲派と旧改憲派の相すくみ状況と、その帰結としての謝罪発言と失言のセット状況が現れている。この状況を打開する手がかりとして、第一にこのイデオロギー的な対立構造の総体を問題にし、双方を「イデオロギーである」という理由からひっくり返していく論点を築くことが求められる。
 これに関連して、歴史の問題がある。過去の歴史を引き受けるとは、いったいどういう「歴史」を引き受けることか? 筆者は「語り口の問題」で、共同的(同一性に依る)なものとしてある死者との関係を公共的(個別性と差異性に依る)なものに変えること、これが日本社会の人格分裂の克服の意味だと述べている。これまで敗戦は、死者と生き残った者を共同的な関係に置く契機としてあった。しかし世界戦争の出現以降で敗戦の意味は変わり、第二次世界大戦の敗戦は「死者と共同的であろうとすると、国家を分裂させる」契機になったのだ。旧改憲派は自分たちを国内の他者との関係で、一方で旧護憲派は国外の他者との関係で自己同定化している。そこには異質な他者との関係の項が抜けている。二千万人のアジアの死者への謝罪を言いながら三百万人の自国の死者をその中に位置付けられないのは、そこにあるのが単一な他者との共同的な関係であることの現れなのである。これは、世界史との関係、そして自国史との関係で自分を同定化する論理の分裂にほかならない。
 したがって今私たちに求められているのは、世界史・自国史のいずれとも自分を関係させ、双方を串刺しするかたちで、これまでとは違う歴史との関係を作り出すことだ。世界史の中にも自国史の中にも位置を持つあり方を作り出し、そのはざまを生きること。それが、歴史を引き受ける時の歴史の意味なのだ。



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