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民藝のインティマシー(2章「民藝の思想」)

 ■ 民家・民具・民藝
「民藝」という言葉は大正15年(1926)に柳宗悦らが考案し、昭和初期に一般に定着した。これに先立ち、柳田國男らが作った民俗学グループ白芽会(はくぼうかい)で、今和次郎(建築家・後に考現学者)が中心となって農村の古い家屋を調査し、大正11年に『日本の民家』が刊行された。この本によって一般の古民家への関心が高まり、民家という言葉も定着した。そうした状況の中で作られたのが民藝と、もうひとつ「民具」である。民具という言葉は、郷土玩具などを集めて独自の民俗学研究に勤しんだ渋沢敬三らが使いはじめたとされている。民藝は、大正デモクラシーとして知られる民主主義的な社会の動向と連動していたが、単純に時代の流れに吸収されてしまうものではなく、同時代と対峙する活動があった。この点を民具と比べて解説していく。
 民具は、近代化の中で失われつつあった伝統的な生活道具全般を指す。その民具全体の中から選びだされ、収まりきらない部分すらあるのが民藝である。民藝には「美しさ」を選択基準としており、その審美性によって伝統に収まりきらない「現代性」を帯びている。民藝は伝統的な生活道具にフォーカスし手仕事ならではの美しさを重んじたが、新しいものづくりと暮らし、ひいては社会全体のあり方を問い直していく「創造」的側面がある。
■ 民俗学と民藝
 民俗学と民藝学は民衆の生活を重要視するという共通点があるが、一方で規範や価値の追求の有無という点で決定的な相違がある。民俗学は過去の歴史を正確に報告する学問であるのに対し、民藝学は「かくあらねばならぬ」という世界に触れていく使命を持ち、価値観が重きをなして美学が関ってくる。民俗学が「経験学」であるのに対し民藝学は「規範学」、また民俗学の「記述学」に対し民藝学は「価値額」である、と柳は述べている。
 審美性と現代性が民藝の骨格である。民藝とは現代を批判的に検証し、それを打開する手がかりを過去に求め、そこで得られたものを携えて将来を構想し、その実態を掘り下げるべく再び現状と向き合い古物に導きの糸を探るというように、現在・過去・未来の時間軸を行き来し、絶えざる往還の中にある運動である。そして、現代性こそが民藝の価値・規範追求の駆動力となっている。
 ■ アーツ&クラフツと民藝
 通常、歴史的に民藝の成立背景を論じる際は、朝鮮陶磁と木喰物(もくじきぶつ)が挙げられる。だが本書では、美に尽きない「何か」を見出した民藝を明らかにし、そこから生活と社会を再び自らの手に取り戻す道筋を探ることをねらいとしている。民藝が持つふたつの基本要素である「審美性あるいは選択」と「現代性あるいは創造」。両者のあいだの運動やその駆動力について、アーツ&クラフツ運動と、民藝と同時代のモダニズムから検討する。
 アーツ&クラフツ運動は、社会思想家ジョン・ラスキンに影響を受けたウィリアム・モリスが主導した19世紀後半のイギリスに端を発する工芸運動であり、現代に至るまでのデザインの社会的役割の台頭を促した大きな一歩として位置づけられている。この運動の中心にあったのは。やはり美しさだった。当時、イギリスでは産業革命による急速な産業化・都市化にともなって、労働環境や居住環境の劣悪化や粗悪な日用品の横行が社会問題として顕在化していた。そんな中、中世ギルドの職人共同体をモデルに据え、機械化の中で失われようとしていた手仕事の再興によって建築・工芸・デザインのあり方を問い直し、生活の中の美しさの実現を試みた。
 注意すべきは、当時の日本においてモリスとラスキンの両名が、美や芸術的観点よりも「社会思想家」として注目されていており、柳が両者を熟知するに至ったきっかけも経済学者大熊信行の著書『社会思想家としてのラスキンとモリス』によるものだった。ラスキンもモリスも生活の中に美を実現することだけを意図したわけではなく、「工芸(道具や家具・建築やデザイン)」の社会的役割に着目し、それらの美的革新こそが社会問題の解決につながると考えていた。劣悪化するままに分離してしまった「生活」と「社会」を「工芸」によってブリッジし、この3つが有機的に連関するさまを追求した点がこそが、アーツ&クラフツ運動と民藝を接続する要だといえる。
■ モダニズムと民藝
 柳は彼の主著である『工藝美論の先駆者について』の中で、「ラスキン・モリスの思想」と「初代茶人の鑑賞」というふたつの先駆的な視点をあげている。一見、思想=現代性 で 鑑賞=審美性とも読みとれるが、民藝が同時にふたつの要素を骨組みとなって動的な活動を支えるという点からいえば、思想(アーツ&クラフツ運動)にも審美的側面の先駆けを見出すことができる。審美的側面は活動の中で「生活」と「社会」に関連づけられつつ現代性に牽引されているが、この現代性において同時代を伴走する動きがあった。それがモダニズムである。
 柳は近代化された機械生産について一方的に悪しざまに論じることはなく、それへの過信・盲信に陥った機械主義を批判した。これはまさにモダニズムが問題にしたところと同じである。モダニズムを代表する人物としてあげられる建築家のル・コルビュジエは、あえて挑発的に「住宅は住むための機械である」と発言しながらも、機械の功罪を見極めつつ従来にはない新しい住宅を追求した。彼のもとで働いていたデザイナーであるシャルロット・ベリアンが日本民藝館を訪れたり、柳らが戦後訪米した際にイームズ夫妻と出会ったりといった、モダニズムと民藝のつながりもあった。そして何をおいても、宗悦の長男で工業デザイナーであった柳宗理の取り組みがある。彼は父・宗悦らの民藝について「手工藝の枠を超えることはできなかった」と評しているが、彼・宗理のプロダクトデザインを通した試みもまた民藝の現代性ではなかったのではないか?
 アーツ&クラフツという「先駆者」とモダニズムという「伴走者」によって、「審美性」と「現代性」というふたつの基本要素からなる民藝の骨格形成が培われたのだ。
■ 民藝のロジック
 大正15年(1926)4月、柳らが配布した『日本民藝美術館設立趣意書』という薄いパンフレットによって、はじめて「民藝」という言葉が活字となって世間に示された。民藝というコンセプトを提示することによって、柳たちがこれに相応しいと考えた品物を蒐集・展覧・保管するための拠点を設立する同士を募る目的があった。背景としては、民藝の世界がいまだ世間の誰からも評価されていないという認識があった。実際、昭和4年(1929)になっても帝室博物館(現東京国立博物館)に、柳たちからの民藝コレクションの寄贈を断られてしまったのである。それでも、柳は平易な言葉遣いと分かりやすい表現を用いて自らの思想を明晰判明に論じていくことによって、多くの人たちの共感を集めていった。
■ 価値の相対化
 柳のロジックは単にわかりやすいだけではなく、世間一般の価値観に対する批判精神が現れている。二分法によって世の中のメインストリームを相対化し、多様な傍流の可能性を保持していた。柳とも交流のあった陶芸家バーナード・リーチの研究家である鈴木禎宏は、そもそも民藝というコンセプト設定にもそれが反映されていると指摘する。
 柳の著書『工藝文化』で提示された分類を鈴木がチャートに整理すると、トーナメント方式の二分法で造形芸術(美術と工藝を網羅するもの)から民衆的工藝(すなわち民藝)に至るさまざまなタイプの美術や工芸が示されている。そこでは、世間で高く評価されていたり多数の人が志向するものとは「別の選択肢」が、たえず選び取られていくのだった。
 当時、上位のものとして評価されていたのは、造形世界での最高価値である美を純粋に追求する、天才の手による「美術」だった。一方で当時「工藝」といえば工業製品を含む広い意味で使われており、趨勢は機械工藝にあった。しかし柳は、同時代とは別の可能性を探って「手工業」に向かった。当時のトレンドとして、職人が近代美術をモデルとして個人作家へと仕事を変化させたり、富裕層の支援の下で豪奢なものを作るようになっていたが、柳はこれらを「鑑賞工藝」と一括して「生活工藝」という別の選択肢を探っていった。社会が選んだのとは異なる可能性の追求、つまりオルタネイティブであることが、時代に対する民藝というコンセプトの立場なのである。
■ 共有の世界
 美術ではなく工藝、機械ではなく手仕事、生活の中の廉価な道具、民衆の日常使いの道具として、「別なるもの」への絶えざる志向の果てに見出されたのが民藝である。
 昭和3年(1928)に柳が寄稿した小論「なにを『下手物』から学び得るか」は補訂改定を繰り返し、昭和16年(1941)に『民藝とは何か』として刊行された。そこでは元々「下手物」とされていた箇所が、「民藝品」「民藝」に書き換えられている。この文章には柳が追求した「別なるもの」が端的に示されており、それは「下手物」という元々の言葉に託されていた。
 ここでは下手物すなわち民藝の特徴が、第一に「平凡」で「普通」の世界であり、第二に「公」に「共有」される世界でもあるとされている。このふたつの視点の間に「多数」という言葉がある。多数とは「普通」に多くある物たちであると同時に、特権的な者からの独占を免れた「共有」主体としての多くの人々でもあって、このふたつの視点の橋渡しをするものといってもよいだろう。民藝のコンセプトは多数派より少数派を志向して出発するのだが、その果てに見出される「別なるもの」とは " 多くの人々や多くの共有されうる物たち " の「多数の世界」なのだ。
 分けて逸らした世界から跳躍した先が、「公の世界、誰も独占することのない共有のその世界」という社会像になる。少なくとも柳の中では、雌雄独占ではなく共有、分断ではなく連携を旨とする理想の共同体のイメージが、民藝のコンセプトとともにあったのだろう。
■ 偉大なる平凡
 「公」に「共有」される世界、という視点は理想を見る視点でもあり、また「別なるもの」の目的を示している視点だ。対して、この目的を実現するための身近な手段を示しているのが、「平凡」で「普通」の世界、というもうひとつの視点になる。
 通常は積極的に評価されることがない「平凡」をただ肯定するほかない、という事実を柳は「逆理」と称して、平凡を「偉大な平凡」と讃えた。そして幾多の逆理として、凡庸の民衆・清貧の徳・無心の美などの具体例を挙げた。この中で柳のロジックが「別なるもの」の現実を厳密に言い当てているのは、凡庸・普通・平凡であろう。民藝でいう平凡とはなんだったのか。この点を見極めていくことにこそ、民藝の「のびしろ」を探るポイントがありそうだ。
■ 茶と民藝
 先に挙げた小論『工藝美論の先駆者について』について触れた際に、茶についてのコメントを略していたが、じつは民藝の「平凡」を語ろうとするとここを素通りするわけにはいかない。柳は、彼ら(初代茶人ら)が平凡な雑器の類すなわち「下手物」に美を発見して、後にそれらが「大名物」と呼称されるようになった、と書いている。ひとまず平凡かどうかはおくとしても、たとえば千利休に世間の価値観をひっくり返す振る舞いがあったことは誰も否定しないだろう。こうした「価値転倒」に匹敵する振る舞いを、柳は初期茶人たちの選択眼に見て取っていた。価値転倒は、世の誰からも評価されないものを救い上げることにつながり、この点にこそ「平凡」を茶人たちのまなざしと結びつけて論じる所以がある。それでも、価値転倒を遂行して確立されたはずの茶の湯においてすら、「平凡」とは無視されかねない側面なのだ。
 柳は「『喜左衛門井戸』を見る」というエッセイで、最も茶人の賞玩に値するといわれている「茶の美意識の象徴」とすらいえる井戸茶碗を見た感想として、「いい茶碗だ ── だがなんという平凡極まるものだ」と書いた。天下の名器を手に取った直後の執筆であるせいか、柳の感銘ぶりがストレートに伝わってくる文章である。いかに平凡であるか、その茶碗が作られたであろう背景を柳は想像し、短い文章を重ねて書いているが、なんの予備知識もない者が読んだらそれはただの罵倒にしか読めないものである。たとえば「貧乏人が不断ざらに使う茶碗である。まったくの下手物である。典型的な雑器である」「形に面倒は要らないのである。数が沢山出来た品である。仕事は早いのである。削りは荒っぽいのである。手は汚れたままである」などなど。
 柳は「平凡を」民藝のコンセプトを表すキーワードにしているが、それは茶の世界で使われるような質素・素朴・朴訥・清貧のように時として理想とされるような類のものではない。肯定などしようがない、そうした民藝の平凡ぶりをより直接的に表すのが「下手物」という言葉だ。もちろん下手物は決して下品とか粗悪を意味するものではないが、民藝が見出した平凡の意義は、茶の湯が価値転倒をして見出した「美」の世界とは相いれないのだ。
 夢なんか見ようがない平凡に夢を見たのが民藝で、その民藝にまた夢を見ようとしているのが現代の私たちなのだろうか? もちろん、私はそうは思わない。
 

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