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雑誌『モノノメ #2』の私的感想まとめ


いい子にしていたので『モノノメ#2』が届きました。

以下、私の感想ツイートから各記事の一部引用と所感を列挙します。

巻頭記事「観光しない京都 2022」

" ただそこに存在しているだけでいつの間にか、僕たちの身体の中に歴史が入り込んでくる。(中略) いつの間にかたくさんのものを受け取っている。そして知らない間に変えられてしまっている。"
#観光しない京都2022

巻頭から写真の素晴らしさにしばし見入ってしまった。特に気に入った一枚はコレ。

「米・花・酒」って、人生に必要な3つの要素じゃないですか。張り替えられてピカピカの店頭のテントと「花」と書かれたボロボロの幟のコントラストが眩しい…… 

アップダウンがなく碁盤の目のごとく整然とした地理の上に、平安京以来切断されることなく歴史が乗っかっているコントラストが、京都の特異性だと思う。天災や戦禍を免れ、開国の際にも首都ではなかったという幸運にも恵まれている。また、人の出入りが多く新しい物もふんだんに取り入れられている。

連載 / 企画

" 開店から50年……支え続けた人たちと一緒に、静かに、ゆっくりと続けられる範囲で続けていく、そして時間が来たら終わっていく。(中略) この味は、この人たちのつながりがあってはじめて50年間維持されてきたものなのだ。"
#おいしいものにはわけがある 

 京都には他にも旨いお好み焼き屋はあるが、あの焼きそばは唯一無二だと思っている。あんなにラードをふんだんに使っていながら冷めてもしつこく感じないというのは、一体どういうことなのか? 

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" 基礎自治体というのは生活の共同体であるのに対して、国家というものは想像の共同体であり、都道府県はその中間にある。(中略) 国家が支配の手段として作った都道府県ではなく、生活共同体を構成する人々が全体最適を目指すための都道府県。"
#日本列島再改造試論 #井上岳一 #田口友子

日本は国土がそんなには大きくはないし、人が住める地域も限られているから、行政の単位としては道州制よりも廃県置藩的なサイズの方が機能しそうですね。団塊の世代が後期高齢者に突入しつつある今のタイミングで、社会の構造を一気に変えたいところ。

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" 人間の身体に、科学の力で自然物(動植物、あるいは鉱物など)が一体化する。そのことで、人間は別の存在に「変身」する。(中略) 大きく、強く縦に伸びることはなくとも、異質な存在を取り込むことで横に広がることができる "
#ひとりあそびのおとなの教科書

ソフビ人形は4頭身のサイズだからこそ、これを使って遊んでいた幼児たちの感情移入を促進し、大きな支持を得たのですね。私たち男の子たちは、「男」として社会的に規定されたからには非力で庇護される立場にあっても悪と戦いたいし、世界を救いたかったのです。

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" 三浦半島はバブル期のリゾート開発に失敗し、軍事的な拠点であることも手伝って (中略) 放置されてきた土地だ (中略) 東京から1時間半で、海と山とを同時に触れることのできる土地はそう多くはないはずだ。日帰りで遊べる、少しだけ離れた身近な世界の果て。"
#走るひとたち #上田唯人 #高山都

表紙写真にもなっている三浦海岸の風景に魅せられて、我がPLANETSCLUBランニング部では刊行前にも関わらずランオフを開催してしまいました。しかも、当日に編集長の宇野さんが現れて一緒に走るというサプライズあり!

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“ 水・木って、言葉が悪いかもしれないですがどうでもいい業務が集まりがちというか、それがウィズコロナになって削れたぶん「意外と水・木暇じゃない?」「いらない業務多かったよね」という話をすることもあります。”
#妄想企画水曜日は働かない

私の場合は(月)分析・資料作成(火)社内会議(水)フリー(木)商談・臨店(金)部内会議・市場調査 という感じです。水曜日は自己啓発とか調べ物とか考え事に使うのですが、これらは土曜の午前中とかに回して水曜日は完全にスイッチオフにした方が充実しそうですね。

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“ 今回は、看板こそ「TOKYO2020」と銘打った大会で、場所としては東京という都市で開かれてはいましたが、ほとんど無観客であったことを鑑みると、事実上、日本のオリンピックではありませんでした。“
#現役アナウンサーがその目で見たTOKYO2020 #吉田尚記

私も東京に住んでいますが、東京でオリンピックがあったという実感はまったくありませんね… ラグビーワールドカップの方が盛り上がっていたような。違いは海外からの観戦客の有無でしょうか?

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“ 私は昔から美しいこの山や、森林や、花の咲く野原を愛する。いまの人間は少しの休息もなく、疲れということも感じなかったら、またたくまにこの地球の上は砂漠となったしまうのだ。”
#眠い町 #小川未明 #久保田寛子

本文に添えられた、というか対峙した版画が童話の作品世界を膨らませている。挿絵を描く人の解釈力だったり要約力はすごい。

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“ こうして空間を縦に切るモノって、意外とないんです。そもそも現代では、日本の美意識を感じさせてくれるモノには小さいものが多い。(中略)さらに、こうして縦の結界を生むものは稀です。”
#もののものがたり #丸若裕俊 #沖本ゆか

空間を衝立で区切るが如く、自在鉤を天井から垂らすことによって空間に陰影を付けていく。なんとも贅沢な…… 

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" 子ども心にタブーを感じ始めていて、それに触れることに対して秘密の扉を開けるような背徳感のようなものがあったんだと思います。中毒性があって何回も読んでいた理由はそれかもしれません。"
#絵本のはなしはながくなる #近藤那央

近藤那央さんの絵本の趣味がそのまんまネオアニマで微笑ましい。

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“ これらの結論は、本来、次の問いに必ず支えられなければならない。すなわち、「わたしたちは本当にそのような生、社会を欲するのか?」。さらに、「もし欲するのであれば、それを可能にする条件は何か?」” 
#社会構想のための哲学的思考 #苫野一徳

フッサールの現象学とは懐かしい。私は若い頃に岸田秀さんの『唯幻論』や実存主義に影響を受けたので、同意できる部分が多いです。「確かな」ではなく「より確からしい」と表現された方がふさわしいかな、と感じました。

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“ 人間の共同生活の地盤にあるのは、他者の意図を推測し、かつ他者に利益を与えようとする利他的な心のあり方であり、(中略)人類は協力的なコミュニケーションを土台に進化してきたからこそ、今のような言語を生み出せたのであり、その逆ではない。”
#指し示すこと物語ること #福島亮大

ここでもフッサールが出てきた。「協力的(例えるとプロレス的のよう)な営みが言語を含めたコミュニケーションの成り立ちで、それによって知覚可能なもの以外も想像力によって共有されていく。小説も(宗教やイデオロギーも)この延長線上にある。」という理解です。

特集 「身体」の現在

“ 世界がどんどんツルツルになって、球体になって、それ以上変化しませんという世界は本当に良い世界なんだろうか。ちょっとぐらいノイズがあって、デコボコがないと、それこそ多様性の系を閉じていることになるんじゃないか ”
#ケアと拡張身体のあいだで #牛場潤一 #緒方壽人 #笠原俊一 #田中みゆき

身体が麻痺した人が考える「本来の自分を取り戻す」という自然な感情は尊重されるべきだが、もしその人が20世紀的な「五体満足主義」に囚われていたとしたら「本来の自分」への欲望こそが自分自身を追い込んでしまうのではないか?という問題提起と、多様な身体拡張の提案。

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" 異なる言語、つまり本来ならつながらないものがつながる世界を劇映画は構築できる。しかも劇中劇という設定を活かして。(中略)コミュニケーションはやがて、劇中劇からロードムービーへ、つまり作中の虚構から現実に開かれていく。"
#ドライブ・マイ・カー #佐渡島庸平 #濱口竜介

映画『ドライブ・マイ・カー』の秀でたところは、劇中劇(の稽古)とロードムービー(通勤)が並行してひたすら繰り返され、また両方が繋がっていることだと思います。繰り返されることによって戯曲の台詞も最愛の妻の死も内面化されていく。劇映画の特色として時間or空間を移動することに合わせて登場人物の内面の変化を描写することがあります。この映画は、時間と空間の移動を同時に描写した上、さらに反復を加えることで主人公が徐々に回復していく過程を鑑賞者と共通体験させる、という点が持ち味として生かされていると感じました。

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“ この20年くらい、世界中の表現者は、表現者対観客という関係性ではなく(中略)共創して生成するんだということを考えてきたわけです。ところが今(中略)外部の目を失ってしまうという弱点が露わになっている ”
#もうひとつの眼ともうひとつの身体はどう出会ったか #飯田将茂 #最上和子

「見る」「見られる」関係が固定化され敵対していたのが20世紀。誰しもが自分の物語を生きざるを得ない21世紀に「共創」というテーマが現れたが、外部の喪失が顕在化された。第三者としてカメラを入れるアイデアは秀逸だが「何を撮るか」が課題。

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“ 乙武さんの車椅子が伸び縮みすることに興味を惹かれました。(中略)身体の多様性をどう知るか、健常者と障害のある人が相互をどう理解するか(中略)スポーツするのとはまた違った相互理解を生むので、それが面白い ”
#思想としての義肢 #遠藤謙 #落合陽一 #乙武洋匡

「欠損」している部分を物理的に補うのではなく、その状態で「均衡」している身体に対して義肢を付け加えるという考え方。身体の作りや均衡状態は人によってバラツキがあるので、義肢は大量生産ではなくオーダーメイドによる個別最適化に向かう。障碍に限らず、すべての身体に共通する話。私も趣味で走るようになってから、姿勢とか着地とか重心とかバランスとか股関節の折りたたみとか、自らの身体に向き合うことがやたらと増え、「自分に合ったシューズを履く」ことと「バランスボードに毎日乗って鍛える」ことに落ち着きました。

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“ 私たちは誰もみていない自分の部屋でも服を着て過ごし、たとえ誰にもみせない服でも自分のために一着を選ぶ。服を選ぶこと/纏うことは他者とのインターフェースを考える行為であると同時に、自分の身体と対峙する私的な実戦でもあるはずだ。”
#凡庸な服はいかに捉え得るか #藤嶋陽子

「モノ」で自己表現していた時代には他人に見せるためにファッションは機能したが、「コト」で自己表現する現代ではライフスタイルの一部として他人から “ 見られる ” ものに変化した。そこでは私という個性よりも属性の方が強調される。一方でインターネットに接続されていない私的領域で身につける衣服はどのように選択され、日々纏われているのか? ここを深掘りすると個々の根源的な価値観とか嗜好とかが浮き彫りになりそうで、興味深い視点でした。

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" 脱文脈化と脱宗教化(中略)の過程で、涅槃を目的とする来世志向的側面は取り除かれて健康を目指す現世志向的なものとなり、(中略)それは仏教でもなくなる。(中略)マインドフルネスは米国で爆発的な広がりを見せた。"
#マインドフルネスの身体技法はいかに受容されてきたか #藤井修平

団塊ジュニア世代の私が「マインドフルネス(笑)」というスタンスを取ってしまうのが何故か? を、思い返すことができました。バブルの頃、自己啓発セミナーなどで洗脳の道具として利用されまくっていた手法なのです。

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" あらゆる権利が認められ、あらゆる物や事が商品化した世界において始まるのは、これまで以上に過酷な競争です。(中略)これまで以上に(中略)社会的な事件が生じていくでしょう。(中略)すべては自己責任、努力不足、能力不足だと考えられるためです。"
#制作する身体をめぐって #上妻世海

市場が社会を覆い尽くした結果、愛情や友情・尊敬のような間接的に生じる(長期的)報酬を直接的に求める人が増えた。またインターネットまでもが社会化してしまった結果、個人の私的領域が物理的な場に戻ってきた。身体が感情・イメージ・言語の複雑な混交であることをそのまま捉えることが必要である。丸山圭三郎先生の『生の円環運動』のような結論だった。
形式と実質 ≒ シニフィアンとシニフィエ

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" 全体的にテクノロジーの流れを見ていると、身体的な疲労や制約を廃止したい感じがあります。そういうテクノロジーの探求の方向を見ると、「身体、いるのかね?」と。"
#消極的な人よ身体を解放せよ #消極性研究会

オンラインの特徴としては、質量を持った身体がないために存在感を消すことが容易であること。オフラインで「存在感をマスクするデバイス」を浸透させるには、コロナ禍のような理由付けが必要とのこと。

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" 家族問題に関わる機会が増えてから、家族そのものもたまたま揃った組み合わせに過ぎないと感じることが多くなりました。それは社会も同じで、たまたま出会った人同士、役割・環境・共有するものが変わるだけで、関係性や結果は大きく変わります。"
#ムジナの庭では何が起きているのか #鞍田愛希子 #鞍田崇

心のケア・身体のケアに「環境からのケア」ご加わる。光と風と音に見守られた空間に醸成される「コレクティフ(たまたま)」。場は昔は「庭」と表記されていたという、別紙での福嶋亮大さんからの指摘と繋がってくる。

■ 編集長の宇野常寛氏による本誌解説は ↓ コチラ。


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