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歌人・宮柊二の短歌にみる反戦の祈り

「文学は先祖への魂鎮めであり、供養である。」
(折口信夫「古代研究」より)

 歌人・宮柊二氏は、大正元年、新潟県北魚沼の地に長男として生まれる。家業は本屋である。師系は北原白秋氏であり、最終的に折口信夫(釈迢空)氏に私淑する。歌集「日本挽歌」は折口信夫氏の命名である。
短歌とは、日常のなかの気付きを詠むことが多い。我々にとって日常とは仕事や家事等、いわゆる平和的日常である。その日常のなかに、戦争という悲惨な体験のある人々がいる。そのひとりが宮柊二氏である。
 昭和十四年、二七歳の時、氏は中国大陸に渡り、山西省の各地で兵士として戦闘を経験する。その後、三一歳、戦地より帰還するまでの間、戦地で詠まれた歌が歌集「山西省」である。戦後の回想によるのではなく、兵士としてのその瞬間(とき)に詠まれたものである。それらの歌は、戦争を経験していない私に新たな洞察を与え、平和を願う強い力になったのである。以下に引用する歌は、書籍等において、社会一般的に紹介されていないと思われるものを選んだ。なぜなら、専門家がすでに紹介した歌を素人の私が紹介した場合、解釈の上書きに終わってしまうと考えたからである。その条件のもと、私が感銘をうけた歌を数首紹介したい。

山西省
山上のトーチカの空青く清み吊せし鐘もありありと見ゆ

 山上にトーチカがあり、それら全てを呑み込むように、青く澄み渡った大空がひろがっている。吊るしてある鐘も眼前に迫るようにありありとみえる。(トーチカとは鉄筋コンクリート製の防御陣地のこと)

 トーチカとは一般的には聞き慣れない言葉である。戦闘を有利にするために建造されるものであり、無機質な材質や形状からも、戦争の冷たさが伝わってくる。そして、鮮明に対比されるかのように、青く澄み渡った空がひろがり、本来、心が洗われるような空に不気味さが漂う。戦闘開始を告げる鐘の存在は、兵士にとって不吉な象徴である。本歌は、目の前の景色を詠む客観写生であるが、戦争の冷酷非情な面がありありと感じられるのである。


黄河
石炭の黒き河床の透き見ゆる夕べの河をかち渉るかな

 石炭の黒さのある河床が透けてみえる。その夕方の河を徒歩で渡るのだな。

 石炭が水底にみえる川は日本にあるだろうか。私は見たことがないから想像するより他にない。その石炭が鉄製の地雷にみえるかどうかは言い過ぎかもしれないが、戦時下という状況からも何か闇を感じさせ、不気味な雰囲気が立ち上がる。石炭は世界的に中国が上位の産出国であるから、もし、黄河という前書きがなかったとしても言外に場所は特定されるかもしれない。その異質で不気味な川をこれから渡るのだなという詠嘆は負の感情が強い。かくして、切れ字の「かな」には、死を意識せざるを得ない諦念と、それでも今この瞬間を生きねばならぬという現実の「重み」がある。石炭の物質的で冷ややかな「重さ」と感情の重さの僅かな響き合いが本歌の要諦ではないだろうか。

空雲母
隈ふかく月の下びに渓置きて孱顔たる山の骨あらき

 陰深く月の下に渓谷がある。弱々しい顔つきの山稜は荒い。

 戦地で自らの顔をみる余裕はあるだろうか。おそらくないだろう。祖父から聞いたことだが、鏡は光を反射させ索敵される危険性があるからむやみに出すことはないそうだ。もっぱら航空戦力等にモールス信号を送るためにつかうそうである。仲間の顔は、孱顔たる山の骨あらき、という写生に託して詠まれている。氏と仲間の一隊が心身ともに消耗していることがわかる。戦地の荒々しい無骨な環境と戦争の厳しさは、悲しくも響き合うものがある。その状況下、強い意志のもと戦い抜くという兵士たちの厳しい表情もみえてくる。歌人である氏の冷静沈着な観察眼は、青白い月光に照らしだされているようである。


中条山脈
麦の秀の照りかがやかしおもむろに息衝きて腹に笑こみあぐ

 麦畑が照り輝いている。ゆっくりと息をついたその瞬間(とき)、お腹の底から笑いがこみあげてきた。

 中条山脈と前書きがあるため、中原会戦のなかで詠まれた歌であると推察できる。数分後には撃たれるかもしれないというなかで、麦の穂は光る風に揺られ穏やかな様子である。兵士のこころとの落差は際立っている。腹の底からこみ上げる笑いは、精神の極限状態を感じさせる。笑うという言葉がこれほど悲しく感じられたことは私にとって初めてである。戦争は、笑いという人間の純粋無垢な表現の一切を否定する。それがまた「同じ」人間から生み出されているという負の連環はいかにして断ち切ることができようか。人は個としてできることは限られているが、支え合いながら希望を捨てずに力強く生きていきたい。戦場に揺れる麦の穂でさえも、人・戦争に無関心ではなく、この宇宙をともに生きる者として輝き、鼓舞しているのである。私は本歌を前向きな意志として捉えたい。


帰還暫日
ある夜半に目覚めつつをり畳敷きしこの部屋は山西の黍畑にあらず

 ある日の夜中、目が覚め座って居ると、畳を敷いたこの部屋は山西省の黍畑ではないと気付いた。

 戦争という経験は、すぐには癒えずに傷となり、長い間苦しめる。安楽なはずの自宅が、戦争という出来事を堺に一変するのである。畳は日本の文化であり、黍畑は山西省の象徴である。氏にとっての戦争はまだ終わっていないのである。

 以上、私の主観を交えながら数首を紹介した。氏の歌は、その瞬間、その場所で詠まれた真実の言葉であり、反戦の祈りである。
 歌集「山西省」には死を直接的に詠まれた歌もあるが、この場では選ばなかった。あまりにも生々しい表現は気分を害することもあろうと考えたからである。

 戦争の歴史は各国の政治・権力により歪められることもあるかもしれない。宮柊二という歌人の歌は、真の言葉であると私は確信している。

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