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コーチ物語 クライアントファイル 10 迷える子羊 その8

「ただいまぁ」
「羽賀さん、おかえりなさい」
 あれ、私以外にも声が。なんとお帰りなさいの三重奏になってしまった。私以外の声、それはミクさんと舞衣さん。
「わっ、美女三人からそろってそう言われると、なんだか照れるなぁ」
 羽賀さんは頭をぽりぽりかきながら照れくさそうに私たちの方へ向かってきた。その仕草がなんだかちょっとかわいくて、より羽賀さんを身近に感じることができた。
「あ、誠子さん。なんだか朝よりも生き生きした表情だね。
 なんかいいことあったかな?」
「えぇとても」
 やっぱりそうなんだ。私って今輝いているのかしら。
 桜島さんをみると、にこにこ顔で私の方を見ている。そう、それでいいんだよ。そんなメッセージが込められているのが感じ取れる笑顔だ。
「誠子さん、早速羽賀さんに」
 ミクさんが私を促してくれた。そう、いよいよ待ちに待ったお茶を入れる時が来たのだ。
「羽賀さん、よかったら私が入れたお茶を飲んで頂けますか?」
「え、誠子さんが入れてくれるの?うれしいなぁ。じゃぁお言葉に甘えてお茶をいただこうかな」
 羽賀さんの言葉に、私は心をウキウキさせてお湯を沸かしに席を立った。
 人数も合計で五人に増えて、お湯の量も少し多めに。そうなるとお湯を冷ます時間も少し長めにしないと。私は慎重に温度をみて、そろりそろりと急須へお湯を注いだ。このとき羽賀さんに、そしてみんなにおいしいお茶を飲んでもらいたい。そして気持ちを落ち着けてもらいたい。そんな思いを一生懸命込めてみた。
 羽賀さん達は私の動きをしっかりと見ている。ちょっと緊張。
「はい、お茶が入りました」
 応接テーブルの上にみんなのお茶を置く私。果たして反応は…。
 羽賀さんが湯飲みを口にする。そしてお茶をゆっくりとのどに流し込む。私はその様子を緊張しながら見ていた。
 羽賀さんが湯飲みから口を離す。目は薄目に、そしてやや上方向を見ている。その目尻は下に落ちて、にこやかな、そして幸せを感じるものだった。そして羽賀さんが口を開いた。
「あぁ、おいしい」
 私の心は、その一言で思いっきり急上昇。
「やったね、誠子さん!」
 ミクさんが私に向かってガッツポーズ。私もそれにつられて思わずガッツポーズ。桜島さんもニコニコ顔で私の方を見てくれている。
「へぇ、すごくおいしいわね」
 そう言ってくれたのは舞衣さん。みんなからそう言ってくれるのはとてもうれしい。これが喜びっていうものなんだ。そして、これが生きているってことなんだ。
 大げさかもしれないが、今の私にとってはこの一言がとてつもなく大きなものとして受け止められた。
「誠子さん、すごいね。こんな才能があったんだ」
 羽賀さんは湯飲みのお茶を飲み干して私にそう言ってくれた。
「いえ、今日桜島さんの話を聴いてどうしてもおいしいお茶の入れ方を学びたくなったんです。それで桜島さんにいろいろと手ほどきをうけまして」
「あ、桜島さん。あの一杯のお茶の話をしたんですか」
 羽賀さんは桜島さんの弟子だから当然知っている話なんだわ。
「え、なになに。一杯のお茶の話って何よ?私にも教えてよ」
 ミクさんが興味深そうに私に向かってそう言ってきた。
「桜島さん、話してもいいの?」
「うむ、別に秘密にする話でもないからな」
「わっ、私も聞きたいわ」
 そう言ってきたのは舞衣さん。そこで私は、桜島さんから聞いた一杯のお茶の話を始めた。そして、私自身に何が足りなかったのか、何を大事にして生きていかなければいけないのか、そんな言葉も足して話をした。
「へぇ、桜島さんって若い頃そんな経験があったんだ。私もお茶を入れるときには一生懸命愛情を注ぐようにしようっと」
 ミクさんは感心して、桜島さんの方を向いてそう話した。
「あ、お茶と言えばこの和菓子お客さんにもらったんだった。みんなで食べようと思って持ってきたんだ。どうぞ」
 舞衣さんがそういって、お菓子の箱を開けた。そこには見事な装飾を施した高級和菓子が数種類並んでいた。
「わぁ、おいしそう。どれどれ…」
 ミクさんが手を出そうと思った瞬間、桜島さんの手がバシッとミクさんの手をはたいた。
「こりゃ、こういったものはお客様からさきに選んでもらうものじゃ」
「えへへ、ついおいしそうで。誠子さん、お先に選んで下さいな」
「あ、私お皿を出すね」
 舞衣さんがそう言って席を立った。そして
「和菓子と言ったらやっぱりお茶よね。今度は私が入れるね」
 今度は舞衣さんがお湯を沸かし始めた。だが、水は私と桜島さんが買ってきたものではなく水道の水。あっ、と思ったがここで口を挟むのも悪いと思って、今回は舞衣さんにおまかせすることにした。
 舞衣さんを除く全員が思い思いの和菓子を選んだところで、ちょうど舞衣さんもお茶を入れ終わったようだ。
「さ、どうぞ」
 そう言って出してくれたお茶。心配なのは水道水を使ったところ。こんな事を言っては何だが、私は最高のお茶を入れたつもり。だから舞衣さんのお茶の味と差が出てしまうのが申し訳なくて…。
 そう思いつつ、和菓子を一口。そしてお茶を口に運んでびっくりした。え、なんで。どうしてこんなにおいしいの?
 私の入れたお茶と同じ、いえ、それよりもおいしく感じるわ。この味には桜島さんもびっくりしたようだ。
「あぁ、舞衣さんの入れるお茶っていつもおいしいね。ありがとう」
 羽賀さんは舞衣さんにそうお礼を言った。舞衣さんもその言葉を聞いて、お菓子を一口。そしてお茶をひとすすり。その表情はとてもまぶしい笑顔だった。
「ふぉっふぉっふぉっ、どうやら舞衣さんの方が魔法のレシピをたっぷりと持っておるようじゃな」
 ここで私は悟った。そうか、舞衣さんって羽賀さんのことを…。
 舞衣さんは私を上回る「愛情」という魔法のレシピをもっているんだから。これは残念ながら今の私ではかないそうにないわ。
「え、何のこと?」
 羽賀さんは桜島さんの言っている意味がよくわからないまま、和菓子をパクリと口に入れ、お茶を堪能していた。あの幸せそうな顔を見たら、舞衣さんの愛情がどれだけあのお茶にこもっているかがよくわかるわ。
「ところで誠子さん、大学を卒業したらどうしようと考えているんだい?」
 突然羽賀さんが私にそう質問してきた。お茶のことばかり考えて、自分の将来なんてまだ考えつかなかったのだ。
 私は自分に足りないこと、そしてこれからどのような気持ちを持って人に接すればいいかはわかった。けれど、具体的に何をやっていこうなんてまだ思いつかない。
 しばらく沈黙が続く。その沈黙を破ったのはミクさん。
「誠子さんって、どうして文学部だったの?」
「え、そ、それは…」
 言われて私は頭の中を駆けめぐらせた。そういえば、どうして私は文学部だったんだろう。あ、そうだ。本は好きなのだ。感銘を受けた書はたくさんある。でもその中から生きる喜びをまだ見いだせないでいた。だからもっと文学にふれて自分の生きる喜びを見つけたかった。そう、そうだった。
「生きる…生きる喜びを文学から見つけたかった。そう、そうなんです。私は死にたくはない。生きていたい。生きる意味を、そしてその喜びをさまざまな文章から見つけたかったんです。生きていたいのよ、私は」
 これほど「生きる」という言葉をかみしめて口にしたことはなかった。
「じゃぁ、その喜びを見つけてどうしたいのかな?」
「喜びを見つけて…そう、今度は私からそのことをみんなに伝えたい。自分の言葉で、自分が見つけた生きる意味を多くの人に伝えたい。それが私のやりたいこと」
 ようやく自分のやりたいことが自分の口から出てきた。そしてその言葉に私が一番驚いていた。
「うん、今の誠子さんはとても輝いているよ」
 羽賀さんのその言葉を聞いて、なぜだか涙が頬を伝ってきた。でも、私は泣いていない。涙が出ながらも笑っていられるのだ。
「うむ、ようやく自分の道を見つけたようじゃな。これでワシも安心して帰ることができそうじゃ」
「え、桜島さんもうお帰りになるのですか?」
 舞衣さんがそう尋ねた。
「今の誠子さんや舞衣さん、そしてミクを見ておったらカミさんの顔が恋しくなりおったわ」
「まったく、いつも突然現れて突然去っていくんだから。このじいさんにつきあうのは大変だよ」
 羽賀さんは笑いながらそう言っていた。だが、その言葉の奥に感謝の気持ちが表れていたことをとても感じることができた。
「では舞衣さん、羽賀のことをよろしく頼むよ」
「えぇ〜、私にはそういってくれないの?」
 ミクさんが桜島さんにそう反論。
「羽賀よ、ミクのことをしっかりと育てるんじゃぞ。口は悪いが性格は良い子じゃからな」
「なによぉ〜、桜島さんの意地悪っ!」
 羽賀さんの事務所は大きな笑いで包まれた。もちろん私もその中にいる。うん、人間っていいな。これが人のぬくもりっていうものなんだ。
 これが私の始まりだった。「ハッピーバースデイ、私」。笑いの渦の中で、私は心の中でそうつぶやいていた。

クライアントファイル10 完

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