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コーチ物語 クライアントファイル 9 疾走!羽賀コーチ その7

「全く、いつまで待てばいいんですか?」
 ボクはパトカーの中で警官と二人っきり。とくに話題もなく時間だけが過ぎていった。
 羽賀さんあのブルドッグ顔の刑事さんはうまくやってくれているだろうか。彼女は無事なんだろうな。そんな不安だけが頭の中を渦巻いていた。
「ん、何だ?」
 それに気づいたのはパトカーを運転していた警官であった。倉庫の方がちょっと騒がしい。よく見ると男が一人バッグを抱えて走ってきている。
「あ、あいつです。あいつがボクの彼女を!」
 ボクはその男を指さして警官にそう伝えた。ほどなくして「まてぇ!」という叫び声。
「おまわりさん、あいつを、あいつを捕まえなきゃ!」
 ボクは思わず叫んだ。警官も事態を察知して、パトカーから飛び出した。よし、この隙に。
 警官がその男の方へ走り出したのを確認すると、ボクは違う道を通って倉庫の方へ走り出した。そのとき、ボクの携帯が。着メロは彼女からのものだ。
「おい、真希、真希か?無事だったのか!?」
 電話口ではボクの声を聞いて、急にわんわん鳴き出す真希の声。
「こわかったよぉ、こわかったよぉ…」
 真希は何度も何度も電話口で叫んでいた。
「よし、今からそこに行くから。今どこなんだ。倉庫の中か?」
 ボクは携帯を耳に当てたまま、倉庫の方へ走っていった。
 ふと道ばたに目をやると、自転車が一台。おそらく羽賀さんの自転車だな。そう思ったとき、前の方から人影が。あ、羽賀さんだ!
「羽賀さん、大丈夫ですか?一体何があったんですか?」
「あ、菅橋君か…」
 息を切らしている羽賀さん。自転車では全く息を切らすことがなかったのに。よほどのことがあったとしか思えない。
「男を、バッグを持ったあの男を見なかったか?」
「えぇ、あちらの方に逃げていきました。刑事さんとおまわりさんが追いかけていますが」
 ボクは男が逃げ出した方角を指さして羽賀さんにそう説明した。
「よし、あっちだな」
 羽賀さんはそう言うと、さっそうと自転車にまたがった。その姿が妙に決まっている。かっこいい!
「菅橋君、彼女は倉庫の中だ。彼女のケアを頼んだよ」
 そう言うと羽賀さんはボクが指さした方向へ自転車をこぎ出した。とても頼りになる姿だ。
 おっと、こうしちゃいられない。彼女のところに向かわないと。
「真希、真希っ!」
 倉庫にはいると、携帯を片手に座り込んでいる真希の姿。気弱な一人の女の子がそこにいた。思えば真希が泣いている姿なんて初めて見る。いつも強気で、今はやりの鬼嫁という言葉がぴったりの真希だったが、やはり女の子だったんだな。
「真希…」
 ボクはここで男らしく振る舞わないと、と思い優しく、そして力強く真希の名前を呼んだ。そしてそっと彼女の肩を抱きしめ…
バシッ。
 彼女から返ってきたのは一発のビンタ。
「あんた、なんで私を一人にしたのよ! なんで私がこんな目にあわなきゃいけないのよ!」
 あ、いつもの真希に戻った。せっかくボクのいいところを見せようと思ったのに。
「ほら、いつまでもこんなところでぐずぐずしないの。さっさとこんなところから離れましょっ」
 真希はすくっと立ち上がり、言葉通りさっさと倉庫の出口に向かって歩いていった。その後ろ姿は気丈なのだが、どことなく安堵感と喜びがにじみ出ていたように思えた。
 ボクは真希をエスコートしてパトカーの方へ向かう。その途中、電話が鳴り出した。
「あ、菅橋君か。羽賀です」
「あ、羽賀さん。男はどうなりました?」
「まだ追跡中だ。あの男、突然畑の中に飛び込んでいって。ボクも自転車で追いかけて、あとちょっとというところまで行ったんだけど。今からヤツを先回りして追いかけるけど。それよりも彼女は大丈夫だったか?」
「えぇ、真希は無事でした。いつも通りの真希でしたよ」
 ボクは真希をちらっと見て、羽賀さんにそう伝えた。
「そうか、じゃぁぼくはもうちょっと警察に協力するから。確かパトカーで来たんだよね。パトカーの中でしばらく待っていてくれ」
 羽賀さんはそう言うと携帯を切った。どうやら男はまだまだ逃げ回っているようだ。羽賀さん、大丈夫かなぁ。
「ねぇ、警察はあの男を追いかけているんでしょ。私もあの男にはビンタ一発喰らわしたいのよ。確かパトカーで来ているって言ったわよね」
「あぁ、そうだけど。羽賀さんがパトカーで待ってろって」
「逃げた方向ってわかるの?」
「確かあっちの方だよ。畑に逃げ込んだって言っていたから、途中にあったあの畑のことだと思うけど」
「よしっ」
 真希はこのとき何かを決意したようだ。やばい、真希がこうやって気合いを入れたときってろくなことが起こらないんだよな。
 前にもデートの最中に、何を思ったかいきなり「よしっ!」て気合いを入れて、いきなり走り出したかと思ったら、その先はバーゲンセールの真っ最中。怖ろしいほどの勢いで飛び込んだ真希を呆然と眺めていたら、十五分後には山のような洋服を抱えて出てきたってことがあったからな。
「パトカーってあれね」
 真希はパトカーを確認すると、一目散に駆けだした。そして真希が飛び込んだのは、パトカーの運転席。
「菅橋君、早く乗って!」
「おい、真希。おまえひょっとして…」
 真希はいきなりパトカーのエンジンをかけ、ハンドルを握り、シフトノブをDに入れる。
「早く来ないと置いていくよ!」
「ちょ、ちょっと待てよ、真希!」
 ボクはあわてて助手席に飛び込む。それと同時に突然飛び出すパトカー。
そう、真希はあの男に一発ビンタを喰らわせようと、パトカーで男を追いか
け始めたのだ。
「おいおい、こんなことしたら警察に怒られるぞ」
「そんなの、百も承知よ。それよりもパトカーのサイレンを鳴らしてよ」
 ボクは真希に命令されるがままに、サイレンのボタンを探り始めた。
「これかな…」
 一つのボタンを押す。すると突然けたたましいサイレンの音と赤い光。
「よぉし、行くわよ!」
 真希の足は一段と強くアクセルを踏み込んだ。もうどうにでもなれ! ボクも腹をくくって真希につきあうことにした。
「絶対にあの男、許さないんだから!」
 真希はパトカーのハンドルを握り、前のめりになって運転している。男勝りの真希なのはわかっていたが、ここまで激しいとは…ボクは半分恐怖におののきながら、暗い夜道に目をこらしていた。
「あ、真希、あそこだ!」
 ボクが指さした先には、今は何も植えられていない田んぼのあぜ道で追いかけっこをしている人影。先頭はあの男。必死で逃げている。続くのは長身でスポーティーなスタイルの羽賀さん。あの羽賀さんが全力で走って追いつかないところを見ると、男は火事場の馬鹿力的な威力で逃げ切ろうとしているのだろう。
 そこから遙か後ろに、コート姿のブルドックが一匹…いや失礼、竹井警部が制服警官と一緒に追いかけている。
「真希、このあぜ道は車は通れないぞ。どうするんだ?」
 追いかけっこをしている連中は、田んぼの奥の方へと去っていく。このあぜ道は軽トラなら入れるがパトカーが走れば両端の水路に落ちてしまう危険性がある。
 しかも今は夜。ただでさえ危険な道。しかし、真希の答えはこうだった。
「もちろん、こうするに決まっているじゃないの!」
 そう言うと、真希はハンドルをあぜ道へと切り、さらにスピードを上げた。
「おいおい、ちょ、ちょっとぉ」
「しゃべると舌をかむわよ!」
 あぜ道は想像以上のがたがた道。だが、そんなのをものともせずに真希はアクセルを踏んでいる。
「あ、あぶないっ!」
「どいてどいて!」
「なな、なんだ!うわっ!」
 目の前の竹井警部と制服警官に追いついたと思ったら、真希はスピードを落とすこともなく進む。
 二人はあわてて両端の田んぼに飛びよけたが、竹井警部の方はどうやら水路に落ちてしまったようだ。
「ごめんなさい!」
 ボクは窓を開け後ろに向かって大声で叫んだ。でもきっと聞こえていないだろうな。すると次は羽賀さんが目の前に。
「ちょっと真希、今度はやばいよ。ちょっと止めて!」
 ボクの言葉に真希は思わずブレーキ。寸前のところで羽賀さんを轢くところだった。
「羽賀さん、乗って!」
 狭いあぜ道で羽賀さんはうなずく。が、羽賀さんも意外な行動に。なんと、乗ったのは車の中ではなくボンネットの上。
「出して!」
 羽賀さんの合図に、真希は再びアクセルを踏んだ。羽賀さんはバランスを取りながら逃げる男をにらむ。一体何をするつもりだ
ろうか?
 そしてとうとうパトカーが男に追いついたその瞬間。
「ブレーキっ!」
 羽賀さんが大声で叫ぶ。真希が急ブレーキを踏む。羽賀さんはパトカーのボンネットから前に飛ばされた。が、その飛んだ先にはあの男が。
 そう、羽賀さんはパトカーがブレーキをかけた反動を利用して、ロケットのようにあの男に体当たりしたのだ。
「うわっ!」
 男は羽賀さんに突然体当たりされ、その場でノックダウン。ようやく一件落着。かと思ったのだが…
「ようやく追いついたわ!」
 真希は勢いよく運転席から飛び降り、あの男の胸ぐらをつかみ、しばらくにらみつけた。そのとき、真希の右拳はストレートを出す一歩寸前。
「真希っ!」
 ボクは大声で真希に声をかけた。しかし、真希は今すぐにでもあの男を殴り倒そうという格好。男はびびっている。それほど真希の表情が怖かったと見える。そして真希の拳が男の頬を…
「もうそのくらいでいいだろう。真希ちゃん」
 真希の拳を遮ったのは、羽賀さんの手。
「こんな男のために、真希ちゃんの拳を汚す方が残念だよ。ここで一発殴り倒したい気持ちはわかるけれど、真希ちゃんの笑顔が台無しになる、ボクはそう思うんだよな」
 羽賀さんが優しい言葉で真希に語りかけた。
「そうね、そうかもね」
 羽賀さんのやさしい言葉で、真希もようやく怒りがおさまったようだ。そのとき、制服警官とズボンをびしょぬれにした竹井警部がようやく登場。
「はぁはぁ、まったくこの小娘は!公務執行妨害だぞ」
 竹井警部は怒りがおさまらないようだ。なにしろこの寒空の中ズボンまで濡らされたのだから。

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