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コーチ物語・クライアントファイル4 伝えたい言葉 その8

「羽賀さん、ミクさん、大変お世話になりました」
「由衣さん、これからはどうするの?」
 葬儀後、啓輔のアパートの整理も終わり羽賀の事務所で一息ついている羽賀とミク、そして由衣。ミクは由衣のこれからを心配するように、その質問をした。
「えぇ、啓ちゃんの意志を継ごうと思って。羽賀さんの話を聴いて、私一つ思い出したことがあるの」
 由衣はミクの質問に、思い出すようにそう答えた。
「どんなことだい。よかったら教えてくれないかな」
 羽賀は珍しく、興味深く由衣にそう質問した。
 クライアント自身に興味を抱くことがあっても、基本的にはクライアントから言い出さない限りは相手の中へ踏み込む質問をしない羽賀。しかし、今回ばかりは自分にも責任があると思っているのか、由衣のこれからについてとても興味を持っていた。
「えぇ、啓ちゃんが羽賀さんと知り合ってすぐくらいかな。私、一度だけ啓ちゃんのアパートに泊まったことがあるの」
 羽賀はあの日のことだとすぐにわかった。だが、それは口には出せない。黙って由衣の話しを聞き続けた。
「その日の夜、啓ちゃんぼそっとこんなこと言ったの。『オレも羽賀さんみたいに、人の気持ちを安心させて、そしてその人の人生をサポートできるようになりたい。』って。はじめは何のことだかよくわからなかったけれど、こうやって羽賀さんとお話しする機会が多くなってそのことがよくわかったの」
「ということは、由衣さんも羽賀さんみたいになりたいと?」
 ミクは由衣と羽賀を交互に見ながら、由衣のこれからを想像した。
「はい、まだこの世界のことはよくわからないですけれど、今の学校で心理学とかカウンセリングといった分野をもっと勉強して、人の心をいやせるような職業に就きたいと思っています」
 由衣はまだコーチングという分野を知らないらしく、羽賀をカウンセラーか心理学者だと思っていた。
「あれ、コーチングじゃ…」
 ミクがそう発言するのを、羽賀は横から遮るように言葉を発した。
「そうか、今はこの分野の見聞を広げて、その中から由衣さんにぴったりの道を見つけるのがいいとボクは思うな。それに由衣さんが通っている大学には、心理学で有名な先生が確かいたはずだよね。まずはその人にいろいろと学ぶっていうのもいいかもね」
 ミクは自分の言葉を遮られたのが不満なのか、ちょっと怒っている。しかし、羽賀はそれを無視するかのようにさらに言葉を続けた。
「ところで由衣さん、由衣さんは一体どんな人になりたいのかな?」
「はい、さっき言ったとおり多くの人が安心して行動できるサポートができる人間になりたいと思っています」
「そうなったとき、由衣さんってどんな気持ちになっているだろうね」
「そうですね…やはり自分のやりたいことで多くの人が幸せになれる。なんだか最高の気分って感じかな」
「じゃぁ、その気分はどのくらい先になって味わいたいのかな?」
「う〜ん…今は大学二年生だから、やっぱり社会に出る二年後くらいかな」
 由衣のその言葉に、羽賀はすかさず反応した。
「社会に出なきゃ、それって味わえないんだ」
「え、いや、そうじゃなくて…そうですよね。別に二年も待つ必要なんてないんだ。今すぐやろうと思えば、誰かを幸せにすることだってできるんですよね」
 羽賀は由衣のその言葉に、笑顔で応えた。由衣も、羽賀のその笑顔に安心したのか、今まで見せることのなかった笑顔を羽賀に見せることができた。
「じゃあ、私帰ります。ときどきここに寄らせてもらってもかまいませんか?」
「あぁ、由衣さんさえよければいつでもおいで。またいろいろと話しをしようね」
「はい、ありがとうございます」
「そうそう、その言葉。啓輔くんが由衣さんに、そして多くの人に伝えたかった言葉だったよね」
「はい、私も今からは多くの人に感謝の言葉をかけて、そして多くの人から感謝の言葉をかけられるようにがんばります」
 由衣はガッツポーズを取り、羽賀のその言葉に応えた。
「由衣さん、今度は羽賀さんがいないときに遊びに来てね。同世代同士、いろんなお話ししましょうよ。私も一人でここにいるの、ちょっと寂しいからさ」
「はい、ミクさん。じゃぁ今度は女だけのお話しましょうか」
「あ、それいいね。それと、今度から『ミクさん』じゃなくて『ミク』でいいからね。私、そうやって呼ばれる方が好きなんだ」
「はい、わかりました。ミクさん…じゃなくてミク。あ、どうせなら私のことも『由衣さん』じゃなくて『由衣』でいいからね」
 羽賀は二人の会話を心地よく聴いていた。これで由衣さんも一安心だな。
羽賀は心の中でそう思えた。
 由衣が帰った後、ミクがちょっと怒った顔で羽賀に詰め寄った。
「ねぇ、羽賀さん。どうしてあのとき私がしゃべろうとしたのを遮っちゃったのよ? コーチングのこと、由衣さんに…じゃなかった、由衣に言っちゃダメだったの?」
 羽賀はソファに腰を落ち着け、先ほどの飲みかけだったお茶をひとすすりして、ミクにこう話した。
「由衣さんにはまだコーチングに限定して欲しくない、ボクはそう思ったんだ。たくさんの選択肢の中からコーチングを選んでもらえば、それはとてもうれしいことだよ。でも、今の由衣さんにはいろんな知識を吸収して、いろんな芽を育てて欲しいと思っているんだ。それに、今からのコーチングはコーチングだけやっていたんじゃつとまらないからね」
「え、それってどういう事?」
「コーチだからと言って、コーチングだけにとどまっていたんじゃ、クライアントの本当の気持ちはつかめないと思っているんだ。コーチングは学問じゃないからね。ただの道具だよ。道具を磨くだけじゃだめ。道具は使いこなしてこそ便利なもの。ほら、畑を耕すのに鍬を磨くだけじゃだめでしょ。耕すための体力だって必要だし。今の由衣さんには、基礎的な体力としていろいろな知識を吸収して欲しいんだ。それからコーチングの技術を磨くのだって遅くはないと、ボクは思うよ」
 羽賀はさらにお茶をひとすすり。そしてミクをしっかりと見つめた。
「なるほどねぇ…基礎体力か。で、私にはその基礎体力ってつけてくれないの?」
「だって、ミクは自転車で十分基礎体力つけているじゃない。それ以上力持ちになってどうするの?」
 羽賀は笑いながらミクにそう伝えた。
「あ〜、それってセクハラぁ〜っ」
 ミクは羽賀の首を羽交い締めにして、ヘッドロック。でも顔はしっかり笑っていた。それにつられて、羽賀も笑いながら
「わぁ、冗談だってば、冗談っ」
 羽賀の事務所に、そしてコーチングの世界にまた新しい風が吹こうとしている。そんな予感をさせるひとときであった。

<クライアントファイル4 完>

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