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コーチ物語 クライアントファイル 10 迷える子羊 その5

「それで、それでどうしたんですか?」
 桜島さんのおばあさんの言葉を無視して死に急いだという言葉。私はそこからどうやって自殺するのをやめたのか、そして一杯のお茶で命が救われたという言葉の意味が知りたくて、桜島さんに食い入るように質問した。
「それからが知りたいか?」
 桜島さんは私にもったいぶった口調で、そういってきた。
「は、はい。ぜひ教えてください」
 いつになく私は積極的になっていることに気づいた。が、そんなのはどうでもいい。桜島さんがどうやって立ち直ったのか、そこに私が生きていくヒントがあるような気がして、とにかくその先を知りたかった。
 桜島さんはそんな私の気持ちを知ってか知らずか、ゆっくりとコーヒーをすすってから再び私の目を見てこう言葉を発した。
「誠子さん、コーヒーが冷めるぞ。まずは飲みなさい」
 桜島さんに言われて、私はコーヒーを一気に飲み干した。さっきまで桜島さんの話に聞き入っていたせいか、コーヒーは熱くもなくぬるくもなく。ぐぐっと飲み干せるほどの丁度良い温度になっていた。
「はっはっは。そんなにあわてんでもちゃんとこの先を話してあげるわ」
 桜島さんはそういうと、またコーヒーを一すすりした。
「ワシがな、ばあさんを無視して先を急ごうとしたら、後ろで突然バタバタっと音がしたんじゃよ。振り向くと、さっきのばあさんが玄関先で倒れとるじゃないか。さすがのワシもその状況を見過ごすわけにはいかんと、あわててばあさんに駆け寄ったんじゃ。そしたらばあさんが胸を押さえながらこう言いよったわい。『く、くすりをとってきてくれ』と。それでワシが『どこにあるのだ』と聞くと、ばあさんは『仏壇のところにある』とふるえながら言っておるじゃないか。あわててワシはばあさんの家に飛び込んで、仏壇を探して薬を取ってこようとしたんじゃ。なにしろあのときのばあさんの顔はとても苦しそうじゃったからな」
 私はごくりとつばを飲み込み、桜島さんの話の続きに耳を傾けた。
「じゃが、仏壇は見つかったが薬は見つからん。きっとばあさんが勘違いしているものと思って、家中のあちこちを探したわい。じゃが、汗だくになって探し回ったが薬なんぞみつからん。そのとき、ふとばあさんのことが心配になって、あわてて玄関に戻ったんじゃ。そしたら予想外の光景を目にしたんじゃ」
「予想外の光景って?」
「なんと、そのばあさんが玄関先に置いている縁台に腰掛けて、お茶を入れているじゃないか。ワシはあっけにとられたわい。
 そしてワシにこう言いおった。『若いの、お茶を一杯飲んでいかんか』とな。ワシはまんまとこのばあさんにだまされたわけじゃ」
 私はここで思わずくすっと笑った。今でこそどっしりと構えた風貌の桜島さんだけれど、おばあさんに手玉に取られて家中を走り回ったんだ。それを想像したら思わず笑いが飛び出してきたのだ。
「ワシも走り回って疲れていたからな。のども渇いたわい。本当は冷たいものが飲みたかったんじゃが、まだ冷蔵庫なんてものがこの田舎には無かった時代じゃ。あっても井戸水くらいなもの。結局、ワシはばあさんの横に座ってお茶をもらうことにした」
 あ、きっとこのときのお茶がとてもおいしくて…でもそれと自殺をやめるのとはつながらないよね。おばあさんはどうやって桜島さんの自殺を止めたのかしら?
 私は次の言葉を待った。桜島さんはここでまたコーヒーを一すすり。そして話の続きを始めた。
「このときのお茶の味と言ったら…」
 きっとうまかった、そういう言葉を期待していた私はまたまた裏切られた。
「とにかくまずかったんじゃ。のどの渇いたワシでも、思わず吹き出してしまうほどのまずさ。お茶をあれだけまずく入れられるとは、ある意味才能じゃないかというくらいのものじゃった」
「え、でもお茶で命を救われたんじゃないんですか?」
「あぁ、このお茶がワシの命を救ってくれたんじゃよ」
 私の頭は混乱してきた。私はきっとおばあさんがおいしいお茶を入れてくれて、それに感動して生きる道を開いたとばかり思っていたのに。
 桜島さんの言葉はさらに続いた。
「思わずお茶を吹き出してしまってな。思わずワシはこう言ってしまったよ。『このくそばばあ、よくもこんなまずいお茶を入れてくれたな』とな」
「そ、それで?」
「そしたらばあさんはこう言いやがった。『じゃったら、おまえさんがワシにお茶を入れてくれんか。おまえさんの言うおいしいお茶とはどんなものか、ぜひ飲ませてもらいたいものだ』
 そう言われると意地になってしまってな。見ておけとばかりにワシはばあさんから急須を取り上げて、お茶の葉をもらってお茶を入れてみたわ」
「え、桜島さんがお茶を入れたんですか?」
「あぁ。じゃが、ワシの入れたお茶を飲んだばあさんが、今度はワシと同じように吹き出しおった。そしてこう言ったんじゃ。『おまえさんのお茶こそ、とても飲めたもんじゃない』とな。そういわれてワシも一口飲んだが、あまりおいしくはなかったな。ま、確かに今までお茶なんぞ入れたこともなかったからな。じゃが、ばあさんのお茶よりもうまかったと思うとるぞ。しかし、このばあさんに『うまい』と言わせんと死ぬにも死にきれん。それでワシは『待っとけ、今からおいしいお茶を入れてやるわ!』と啖呵をを切ってしもうた。そこからが大変じゃったわ」
 桜島さんは一気にしゃべったせいか、のどが渇いていたようだ。すでにコーヒーは飲み干していたので、お冷やを一気にのどに流し込んだ。
「意地になったワシは、とにかくおいしいお茶の葉と、おいしいお茶の入れ方を探すことにしたんじゃ。とはいっても田舎町の出来事。近くにそんなお茶の葉とお茶の入れ方の情報なんぞあるわけがない。じゃが、一度啖呵を切ってしまった意地もあるからな。とにかく一番近所の家に駆け込んでお茶の葉を分けてもらったり、お茶の入れ方を教えてもらったりしたわ」
「それで、お茶の葉とお茶の入れ方は集まったのですか?」
「まぁお茶の葉はなんとかなったが、お茶の入れ方がどうしてもみつからんかったわい。どこに聞いても『あぁ、それは無理だよ』の一点張りでね」
「えぇ、どうしてなんですか?」
「ワシもそれが不思議でな。で、とにかくどうやったらおいしいお茶を入れることができるのかを何件かに聞いて回ったら、それなら山向こうの水源から水をくんでくるしかないと言われたわ」
「え、水が原因だったんですか?」
「あぁ、後から調査してわかったんじゃが、ここあたりの井戸水はミネラル分が強くて、どうしてもお茶が渋くなってしまうのじゃ。お茶やコーヒーに向いている水は、軟水といってミネラル分が少ない方がいいんじゃよ」
「あ、だから羽賀さんのところにあった水じゃだめなんだ」
「その通り、あいつはちょっと外国かぶれのところがあるからな。水もどこぞの海洋深層水というやつしか置いてなかったろ。海洋深層水の中には、それほど硬度が強くないものもあるが、あいつが使っておるのはバリバリの硬水じゃ」
 桜島さんの言われたとおり、羽賀さんの冷蔵庫にあった水は海のラベルが貼ってあるブランドのものだった。
「へぇ、水でお茶の味って変わるんですか。じゃぁ、山奥の水源の水だと大丈夫だったんですか」
「あぁ、それも後々調べたらミネラル分が少ない軟水じゃったよ。お茶やコーヒーに適した水だわ。ワシはその水を求めて、半日がかりで水源まで行ったんじゃ。じゃがその道のりは楽ではなかったぞ。川をさかのぼり水源までたどり着くまでが一苦労じゃったわい。とにかくあのばあさんをギャフンと言わせたくて、その思いだけで水源を探しに行ったわい」
「そして水を確保できた」
「そうじゃ。じゃがそれだけでは終わらんかった。水はばあさんの家の近所で借りた水筒に入れていったんじゃが、これだけではダメだと思ってな。確か前に温度が大事だという話を耳にしたことがあったのを思い出したんじゃ。水源からの帰り道はすでに暮れていて、その夜は野宿することにしたんじゃ。季節が夏だったから、草っぱらに寝転がっても風邪はひかんかったわい」
「で、温度の件は思い出したんですか?」
「これが思いだせんかったから、結局ある方法をとることにしたんじゃ」
「ある方法って?」
「自分で実験することにした。何種類かの温度でお茶を入れて、それでどれが一番うまいかを調べたんじゃ。じゃがそこで問題が一つ起きてな」
「問題って?」
「実験するには、この水筒の水じゃ足りん。そうなると、もっとたくさんの水が必要じゃ。結局、一度ふもとに戻って理由を話して、もっとたくさんの水筒を借りることにしたんじゃ。そしてばあさんの前に顔を出したのは、翌日の夕方遅くじゃったな」
 桜島さんはこのときの様子を身振り手振りで私に話してくれた。そのときの桜島さんの表情、気がついたらとても生き生きしていたことに私は気づいた。

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