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コーチ物語・クライアントファイル7 愛する人へ その8

「……これが、羽賀がバツイチだってことの話しだ」
 ここまで話し終えたオレが、ふと顔を上げて目に入ったものは、目を真っ赤にしているミクと、ハンカチで目頭を押さえていた舞衣さんの姿だった。
「は、羽賀さんって……羽賀さんって……」
 ミクは声にならない声を出しながら、泣きべそをかいている。舞衣さんの方は、少し落ち着いたのかオレにこんなことを言ってきた。
「羽賀さん……正確にはバツイチとは言えないわよね。結婚していたっていう事実は変わらないけれど、それは離婚じゃないんだから。でも、そのあと羽賀さんはどうなったの?」
「あぁ、足の骨折が治ったとたん、あいつは退職届を会社に出してね。受け取ったのは畑田常務だから、当然何も言わずに受理されたよ。そしてその後……」
「その後?」
「オレの前からも姿を消しちまった。気がついたら、マンションももぬけの殻だったよ。あいつがよく行っていた自転車屋にも聞いたんだが、そのときにはすでに愛車のMTBだけ預けて、行き先も告げずに去っていった後だった。骨折が原因で、満足にレースに出られないからって、置いていったらしい」
「あ、それで……」
 ミクはようやく正気に戻ったのか、自転車の話しに反応した。
「でもさ、唐沢さんはどうして羽賀さんがここにいるってわかったの?」
 ミクがオレにそう尋ねてきた。
「これが不思議な縁でな。オレもあの後すぐに羽賀の後を追うようにして会社を辞めたんだ。由美が死んだことで、オレにも羽賀と同じように会社に対しての疑問が湧いてきてね。オレはその後、営業のコンサルティングを始めて。そこで、羽賀が会社を辞める前に携わっていた桜島さんっていうコーチと出会ったんだよ」
「あ、羽賀さんがコーチングと出会ったときの……」
「あぁ、舞衣さんが今言ったとおりだ。その桜島さんから羽賀の居場所を聞いたんだよ。そしてあの後の羽賀のこともね。実はあの後羽賀は、東京にいる桜島さんのところで、コーチングを勉強していたらしい。ま、桜島コーチの直弟子ってことだな」
「へぇ、そこで今の羽賀さんができあがったってわけね」
「ま、そういうことみたいだな」
 この後、しばらくの沈黙。三人とも、空白の期間に羽賀がどのような生活をしていたのか、頭の中で想像していたようだ。オレも、その部分は知らない。だが、由美の死と共に、あいつの中で何かが芽生え、そして大きく成長したであろうことは想像がつく。
「お茶、もう一杯飲む?」
 舞衣さんがオレにそう言ってくれた。
「あぁ、お願いします」
 舞衣さんがお茶を入れるために立った、ちょうどそのときであった。
「ミク、上にいないと思ったらこっちに来てたんだ」
 汗を拭きながら羽賀が花屋に飛び込んできた。
「よぉ」
 オレは軽く羽賀にあいさつ。
「おぉっ、唐沢じゃないか。お前、なんでここに?」
 羽賀はオレの顔を確認すると、最大の笑顔でオレに握手を求めてきた。この顔、四星商事時代には絶対に出すことのなかった表情だ。オレはこの顔を見て、羽賀が今とても充実した日々を送っていることが容易に想像できた。
「羽賀さん、やけに遅かったけれどどうしたの?」
「いや、帰り道で自転車がパンクしちゃってね。替えのチューブを持っていなかったから、修理にちょっと手間取っちゃって」
「相変わらず自転車野郎だな、おまえは」
「唐沢も、全く変わっていないじゃないか。で、今日は何の用なんだ?」
「おまえ、確か今コーチングの仕事をしていたよな。それにからんで、ファシリテーターの仕事は請け負っていないか?」
「ファシリテーターか。専門ではやっていないが」
「そうか……おまえの四星商事時代の会議運営の腕を見込んで、ちょいと仕事をお願いしようと思っていたんだが……」
「ねぇ、ファシリテーターって何?」
 ミクは羽賀の助手をしているのにファシリテーターも知らねぇのか。
「ファシリテーターっていうのは、会議の推進役のこと。単なる議長や司会者とは違って、会議の参加者から意見を引き出したりまとめたりして、効率よく効果的な会議を運営する人のことなんだ」
「へぇ、そんな仕事もあるんだ。でも、それがコーチングとどう関係するのよ」
「ファシリテーターの使う技術とコーチングっていうのは共通しているところが多くてね。それに、こいつはさっき言ったとおり四星商事時代から会議運営が得意でさ。ファシリテーターの仕事もできるんじゃないかって思ったんだよ」
 オレはミクにそう答えてあげた。
「羽賀、今度できた駅前の大型のホテルは知っているだろう?」
「あぁ、あのセントラル・アクトのことだろう」
「あそこの会議運営の改善をやるために、ファシリテーターを捜しているんだ。オレができりゃいいんだが、ウチはあいにくと営業専門のコンサルでね。そこでおまえの顔を思い出したんで、こうやってお願いに来たんだよ」
「セントラル・アクトでファシリテーターか……ま、やってみるか」
「よし、決まりだ。あとのセッティングはオレにまかせておけ」
 オレはうれしかった。またこうやって羽賀と一緒に仕事が出来るってことが。羽賀もこうやって新しい仲間と囲まれて楽しくやっているみたいだし。オレもこれからこの仲間に加えてもらうとするか。
 しかしこの仕事が、羽賀と四星商事を対決させることになるとは。この時点では予想も出来なかった。

<クライアント7 完>

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