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タヌキの親子見聞録 ~萩往還編①~ 天花坂口~国境の碑

第1章 タヌキの親子 萩往還を知る

 コロナ禍も3年目に突入した2022年7月。山口市の片隅に住むタヌキの一家は、「今年の夏も何の思い出作りもしないまま過ごしてしまうのか」と、せっかくの夏休みを持て余していた。山口には海も山もあるが、近場の海や山は、昨年の春休み・夏休み・冬休みに行き尽くした感があった。「コロナ禍であって、県外へは出られないが、近場で少し趣向を変えたものを体験させてやりたい」と母ダヌキは考えていた。そんなときに、目にしたのが「歴史の道 萩往還 ルートマップ」であった。香山公園前観光案内所でもらったパンフレットには「歴史を感じ、自然を感じる萩往還を歩こう。」とあった。「これだ‼」母ダヌキは前のめりに飛びついた。「山口県に住んでいて、こんな有名な歴史ある道を歩いたことがないなんてもったいない。いつも春帆楼のフグ食べたことないの?と他県の友人に聞かれて、嫌な気持ちになる(そんな高級店、県民みんなが食べに行けるわけないでしょ)が、これは、体力と根性があればやれる‼」と考えた母ダヌキは子どもたちに「今年の夏休みは萩往還を歩く」と宣言したのであった。

第2章 まずは石畳の道を歩いてみよう

 萩往還とは、毛利氏が慶長9年(1604)萩城築城後、江戸への参勤交代での「御成道(おなりみち)」として開かれた、日本海に面した萩城下町(唐樋札場/萩市)から瀬戸内海の海港・三田尻(三田尻御茶屋/防府市)までを結ぶ、全長約53kmの街道である。江戸時代の庶民にとって山陰と山陽を結ぶ「陰陽連絡道」として重要な交通路であり、幕末には、吉田松陰や坂本龍馬など幕末の志士たちが往来し、歴史の上で重要な役割を果たした。「松陰先生も龍馬も歩いた萩往還を歩こうじゃないか」という母ダヌキの呼びかけに、子ダヌキたちは「え~」という後ろ向きな反応。「夏休みの宿題、これ書けばいいじゃん」という説得にも、「暑いからいやだ」「ゲームしたい」と、コロナ禍で培われたインドアな生活習慣を変えたくないと拒まれた。しかし、母は強し。「歴史の勉強にもなるし、家の中でゲームばかりしていたら、体に毒だ!」と、子ダヌキたちを外へ放り出した。

天花坂口

 まずは、山口市に住んでいるので、山口市天花から萩市方面へ歩いてみることにした。車で萩往還天花坂口まで行き、そこから国境の碑まで行くルートを歩く。車で行って歩くので、折り返して帰ることを考えると、手始めはこのくらいがいいと考えた。2022年7月29日金曜日午前9時から、母ダヌキ、子ダヌキ二人は山口市天花入口の萩往還石柱横で石畳をバックに記念写真を撮ると、スポーツ飲料が入ったお守りの鈴付きポーチを肩に斜め掛けし、ゆっくりと萩方面へと歩き出した。

 天花坂口の最初は、石がきれいに敷き詰められていてゆるやかな登りになっていた。少し登ると、石畳の周りの草を刈って送風機で吹き飛ばして、きれいに掃除をしている人たちに出会った。この石畳の美しさはこの人たちのおかげなのだなと、心の中で感謝して通り過ぎた。さらに上に登っていくと、敷き詰められていた石がまばらになって足元が悪くなり、急な坂道が現れた。もう少し登ると、またきれいな石畳が現れ、左に曲がると石畳が消え、土がメインの急な坂道になり、登りきったところに青い看板に黄色い字で「歴史の道 萩往還 国境の碑まで2200m」とあった。さらに左に曲がるとまた石畳の急な坂道という風に、ジグザグに坂道が続いていた。ここが「四十二の曲がり」というところである。靴で歩いても大変な坂道だ。小石で足を取られて転がりそうになるのに、草鞋で上ったり下ったりしたことを考えると、昔の人は本当に健脚であったのだなと思った。

四十二の曲がり

 子ダヌキたちは歩き始めてまだ15分もたってないのに、坂の途中でスポーツドリンクを一口飲んだ。休もうと少しでも止まると蚊や虻が顔や背中にたかってきた。「虫よけスプレー持ってくればよかった」と母ダヌキは後悔した。汗拭きタオルや手で虫を払いながら進むと車道が現れた。県道62号線である。ここを横切ると、「萩往還ルートマップ」の2ページ目にある「六軒茶屋跡」への登り道がある。

六軒茶屋跡入口

 萩往還の中間地点でかつ最大の難所であった「六軒茶屋跡」は、旅人はもちろん参勤交代時の休憩場所として、殿様の駕籠を置く場所や、それぞれの身分によって休む場所が分けられているような、藩主一行の通行に伴う施設であったようだ。萩往還途中で出てきた初めての立派で大規模な施設跡だったので、子ダヌキたちもあちこち見回って興奮しているようであった。兄ダヌキは「茶屋はないのか?茶屋は?」と本当の休憩所と思っていたらしく、持参のスポーツドリンクを飲んで少しがっかりしていた。

六軒茶屋跡

第3章 「キンチヂミの清水」では縮み上がらなかった

 「一の坂一里塚跡」までの道は、石畳が整備され急な坂道であったが登りやすかった。今はその痕跡もなくなっているが、当時は塚木を建てて「北方 従萩唐樋札場 6里 南方 従三田尻船場 6里」と記されていた。ちょうどこの地点が萩往還(萩―三田尻)の中間地点であったことがわかる。

一の坂一里塚跡

すでに40分以上歩いている。子ダヌキたちはシャツの背中に斑点ができたように汗をかいている。ウェストポーチに付けた鈴を鳴らしながら、ところどころ木で石が流されないようにしてある急な坂道を、鳥の声を聴きながら時々ため息をついて登って行った。「疲れた。おっかぁ休もう。」と兄ダヌキが言うのでまたスポーツドリンクを飲みながら休憩した。

道が雨で崩されないようにするための工夫なのか、萩往還の道沿いはどんな山道でも水路が整備されていた。10分ほど歩くと山手側に3つの大きな岩が見えた。史跡の看板に「一貫石」と記されており、昔お伊勢参りの旅人が疲れてここで休んだ時に一貫文(現代で約11,520円)を入れた財布を置き忘れたが、お伊勢参りの帰りに寄ったら、そこに一貫文のお金がそのまま残っていたということでこの名前が付けられたという。

一貫石

そこからもう少し登っていくとまた石畳の道が出てきて、山側に石垣で作られた水場が見えてきた。ここは「キンチヂミの清水」と言って、岩盤から水が湧き出ていて非常に冷たかったので、飲んだら縮み上がるということで「キンチヂミ」とついたと言われている。この冷たい水を利用して、大正時代の初期頃(1910年ころ)まで、醤油味と砂糖味のところてんを販売していたらしい。清水は澄んでいたが葉っぱなどが散っていて、すぐにでもところてんに使えるようには見えなかったが、少しでもこの暑さが和らげばと思い、母ダヌキは石垣に囲まれた中に貯められている水に手を漬けてみた。「ふつう。そんなに冷たくない。」という母ダヌキの感想を聞くと、子ダヌキたちは手を漬けてみようともせずさっさと歩きだした。その日が真夏日だったせいか、それとも冷たい湧水が昔ほど沸いてなかったせいかわからないが、少しがっかりして母ダヌキは子どもたちの後を追った。

キンチヂミの清水

第4章 板堂峠はアリ地獄のようであった

 「キンチヂミの清水」を過ぎると、また県道62号線が現れた。そこを横切って右手に歩いていくと、「歴史の道 萩往還 国境の碑まで300m」という青看板があった。兄ダヌキは「もう帰らない?」といったが、あと少しで「国境の碑」なので、「あと少し歩いて『国境の碑』まで行こう」と母ダヌキは言った。

前に見えるのは、砂利道の上に急な坂道で、あまり文句を言わない弟ダヌキが「いやだ。いやだ。もうおうち帰りたい。」と言い出した。確かに、これまで歩いてきた道と比べるとはるかに砂利率が高く、固まっていないので砂利に足を取られなかなか思うように登れないのだ。さすが萩往還の最高峰であり最大の難所「板堂峠」。これまで歩き続けて体力が限界だったが、タヌキ親子3人は「限界を超えるぞ!」と声を掛け合って、アリ地獄のような峠道を砂利に足を取られながら何とか踏破した。超えた先には「東鳳翩山」の登り口と「萩往還」の続きの道の二股道があった。

弟ダヌキは疲れて帰りたそうにしていたが、「ここまで来たから行こう」という母ダヌキ、兄ダヌキの気迫に押されて目的の「国境の碑」を目指して歩き出した。
 「国境の碑」は「板堂峠」からすぐであった。県道62号線を再度渡り、右手に大きな駐車場があり、左手に石の階段があるので、そこを登りきると山側に案内板が設置されていた。その上に「南 周防国吉敷郡」「北 長門国阿武郡」と書かれ、裏に「文化五年(1808年)戊辰十一月建立」と彫られていた「国境の碑」があった。石碑が昔の国境であったのだなと思いを馳せながら景色を眺めている母ダヌキとは対照的に、子ダヌキたちはスポーツドリンクを飲んで一息つくと、「早く帰ろう」と母ダヌキをせっつき駐車場へと飛ぶように歩き出した。

国境の碑

初めての萩往還(天花坂口~国境の碑)の旅は約3kmで1時間半の旅であった。駐車場まで帰るため、結局約6km歩いたタヌキ親子が、家に帰って昼から冷房が効いた部屋で、3人川の字になって昼寝をしたのは言うまでもない。

萩往還サイト「歴史の道 萩往還


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