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ないないづくしで発進した明治政府

イシ: 私は明治政府を「ないない政府」と呼んでいる。いろんなものが「ない」まま、無理矢理発進してしまった「子供の政府」だね。

 まず、金がない
 もともと金がなかった長州藩なんか、いいように武器を買わされて、借金まみれだった。薩摩も土佐も懐事情はいいわけがない。難癖をつけて東北に攻め込んだのも、論功行賞の原資を東北に求めたからという見方ができるという話はしたよね。この金欠状態をどうするかは、明治政府にとって最大の課題だった。

 次に、人材がいない
 旧幕府の官僚たちのように、外国勢と丁々発止と渡り合えるだけの人材がいない。幕臣を含めて、優秀な人材はほとんど殺してしまったり、理不尽な死に追い込んで消してしまった。残っているのは武力にものをいわせて成り上がった連中ばかり。知恵のある人材は、大久保、木戸、伊藤、大隈あたりだけれど、特に経済面で腕をふるえる人材が足りない。
 そこを欧米の曲者強者たちにつけ込まれる。特にパークスは、明治政府の影の校長みたいな存在になって、ガンガン命令口調で指示を出した。その言いなりになるばかりの政府首脳部。

 さらには、熱情で突っ走る連中が作った政府だから、考えや方針のすり合わせができず、連携が取れない
 軍部をどうするかでは上野戦争のときから薩長で対立があったし、政府の形態をどうするか、諸侯会議を基本にした豪族政治にするのか、いきなり天皇親政の若い専制政治を目指すのかといった基本的部分で、勝ち組になった政府首脳部が常に揉め続けた。

 そんな明治政府だから、庶民からの人望がない。尊皇だ攘夷だと叫んでいた連中が、いざクーデターを成功させたと思ったら、いきなり欧米の言いなり、真似事だらけ。そんな政府を歓迎できるはずがない。
 金がないことで、庶民は重税を課されて痛めつけられ、武士や、戊辰戦争に駆り出された諸隊の傭兵たちは恩賞もないまま放り出されて不満を爆発させた。

版籍奉還によって豪族支配が消えた

凡太: 「諸侯会議を基本にした豪族政治」というのは、具体的にはどんな感じのものですか?

イシ: 薩摩の島津久光、土佐の山内容堂のような藩主クラスが集まって、旧幕府に代わる政府を作るというイメージだね。そういう段階をまず踏むだろうと思っていた人たちが多かった。渋沢栄一なども、そうならずに、いきなり藩士たちが中心の若い政府ができあがってしまったことに驚いたというようなことを、後に述懐している。

 明治新政府発足直後は、天皇の下に総裁、議定、参与の三職を置くという形だったんだけど、議定に名を連ねた公家たちは、岩倉具視、三条実美などを除けば、大半は員数集め的な名誉職人員だった。島津茂久(薩摩)、徳川慶勝(尾張)、松平春嶽(福井)、山内容堂(土佐)、伊達宗城(宇和島)といった大名たちも、もはや影響力を失っていたり、明治が始まってすぐに死んでしまったりしている。島津久光にいたっては議定にも参与にも選ばれてもいないので、地元で憤慨するしかなかった。
 実際には薩長土肥のごく少数のメンバーが政府を動かしていた。
 薩摩は大久保利通、五代友厚、小松帯刀、西郷隆盛、寺島宗則ら。このうち小松は明治3(1870)年に死んでいるし、西郷は次第に明治政府とは距離を置くようになって、地元に引き上げてしまったから、実質は大久保、五代が中心。五代はイギリスの傀儡要員ともいえるので、実質は大久保ただ一人みたいなものだね。
 長州は伊藤博文、井上馨、木戸孝允らが参与になっている。伊藤と井上の背後にはジャーディンマセソン商会がいて、さらにはロスチャイルドがいることはすでに説明したね。
 土佐からは後藤象二郎、福岡孝弟らが参与になった。板垣退助は参与には選ばれなかったが、地元で藩政改革にあたり、薩長意外の雄藩も引き込んで、新政府内での土佐の発言力向上を図っていた。
 他に、佐賀藩から大隈重信、副島種臣らが参与になっている。

大久保利通(1830-1878)
薩摩藩士。幕末においては久光のもと、京都の政局に関わり、岩倉具視らと公武合体路線を指向。明治後は参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などを進めた。明治11(1878)年5月14日、馬車で皇居へ向かっていた途中で不平士族6人に襲撃され暗殺される。満47歳没。
木戸孝允(1833-1877)
長州藩士。幕末期の名は桂小五郎。吉田松陰門下生。江戸で兵学、蘭学などを学ぶ。幕末の池田屋事件や禁門の変では但馬出石に8か月潜伏。その後、薩長同盟締結の場にもいた。明治後は太政官に出仕し、参与、総裁局顧問、参議に就任。明治10(1877)年、西南戦争の最中に「西郷もいい加減にしないか」と言い残し、病死。満43歳没。

凡太: 大名の力が一気に低下したんですね。

イシ: そういうことだね。下級武士や農民から成り上がった若者たちが政治の中心に躍り出た感じだね。
 五箇条の御誓文では、参与の福岡孝弟(土佐)が作成した草案にあった「列侯会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」という第一状を、木戸孝允(長州)が「列侯」という文言を削除して「広ク会議ヲ興シ~」と書き直させている。大名たちの影響力を削ぐという意図は、ごく初期の段階からあった。

 大名の力を解体する第一歩として行われたのが版籍奉還だ。
 版籍というのは土地と人民のこと。この支配を一旦朝廷にお返ししますよ、ということだね。
 薩摩の大久保と長州の木戸が土佐の板垣や肥前(熊本)の大隈に呼びかけて、まずはこの4藩が行った。それで、他の藩も続くように、と呼びかけたわけだ。

凡太: 自分が支配していた土地と人民を手放すわけですから、諸大名の反発はすごかったんじゃないですか?

イシ: それがそうでもなかったようだよ。
 戊辰戦争で疲弊した各藩の藩主は、金だけでなく、権威も失墜していた。新時代の戦闘は、昔のような刀と槍でやあやあと向かい合う戦いではない。最新の西洋式火器を持っているかどうかで勝敗が決まる。そうなると、藩主を頂点とした家臣団という形が意味を失う。グラバーなどの武器商人とうまくつきあえる藩士や、最新の武器を持った傭兵部隊のほうが強い。
 幕府がなくなった以上、藩主の地位を保証してくれるのは天皇しかいない。藩内クーデターでやられる前に、版籍奉還して、新政府から自分たちの地位を保証してもらおう、という思惑が勝ったんだ。
 藩主は知藩事という名前になって、藩の歳入の1割が与えられた。度重なる飢饉やら戊辰戦争などでの出費で疲弊していた諸藩は、これによって、地位はそのままで、苦労が減るんじゃないか、財政面で国が援助してくれるんじゃないかという思いもあっただろう。
 ところがそうはならなかった。政府にも金はないんだからね。
 やりくりに行き詰まった藩は、藩札を発行したり、贋金を作ったりしてしのごうとするんだが、そのために苦しむのは農民たちだ。
 明治3(1870)年11月には、信濃の松代藩で、贋二分金を流通させ、その回収を目的とした緊急手形の暴落でひどい目に合った庶民が一揆を起こす午札うまさつ騒動(松代騒動)」というのが起きた。
 翌月、新政府は官吏を派遣し、一揆の参加者をあぶり出し、620名余りを検挙。うち400名余が入牢。首謀者らを斬罪にした。
 こうした事例が続いたことで、新政府は明治2(1869)年12月に藩札発行を禁止し、贋金作りの主犯格や実行者には、斬首や切腹などの厳罰で臨んだ。
 福岡藩は戊辰戦争の戦費への負担で借金苦に陥っていたんだが、明治4(1871)年に贋金作りで切りぬけようとしたのがばれて、知藩事黒田長知は罷免、大参事ら5人は斬罪になった。
 広島藩でも贋金作りが発覚して、関係した鉄問屋主人は捕らえられて獄死。加賀藩の支藩である大聖寺藩でも贋金作りがばれて、武具奉行が切腹している。
 もとはといえば、贋金作りは薩摩藩の得意技だったんだけどね。文久2(1862)年に、幕府から琉球救済目的で「琉球通報」という貨幣の鋳造を許可されたんだけれど、それは表向きで、実際には幕府が発行していた天保通宝の贋金を大量に作って軍事費に充てていたんだから。

凡太: それが明治新政府になると、贋金作りは死刑、ですか。

イシ: まあね。で、そんなこんなで、財政的にどうにもならないと観念した藩は、自ら版籍奉還を申し出た。政府はそうした小藩をくっつけて再編成していった。
凡太: それじゃあ、版籍奉還そのものはどんどん進んだんですか?

イシ: どんどん、とか、すんなりとはいかなかった。なにしろ、それを進めようとしている新政府内部の足並みが揃わないんだから。
 この時点で、明治新政府を実際に動かしていたのは、薩摩の大久保、長州の木戸、公家の岩倉らだった。三条実美はトップに担ぎ上げられているけれど、実務能力が低い。

岩倉具視(1825-1883)
下級公家の出身。幕末の宮中では八十八卿列参事件などに首謀的関与し、様々な朝廷工作に関わる。戊辰戦争でも暗躍。明治後に政府首脳の一人として迎えられる。廃藩置県があった日に外務卿に就任。その後、岩倉使節団を編成。明治16(1883)年、満57歳で病死。

 諸藩はこの4人に対してどんどん不満や疑念を抱き、疑心暗鬼が渦巻く。官吏たちは互いに協力し合わないだけでなく、公費を使って好き勝手したりする者もいっぱいいて、ゴタゴタ続き。
 4人は改めて自分たちの支配体制を固めようと政体改定を試み、お飾りだった各大名や公家の議定などを大胆に切り捨てた。その上で、版籍奉還後の国の体制をどうするか議論する。具体的には藩主たちの処遇だね。
 藩主の名前が変わっただけで、各藩がある程度独立して領地を支配する封建的な体制にするのか、それとも藩を根本的に解体して新たな郡県制にするのか。
 ここで大久保と木戸が真っ向から対立することになる。
 大久保は諸藩の反発を避けるために、藩主をそのまま知事に任命して世襲とする案を主張した。

凡太: え? それだと名前が変わっただけで、今まで通りですよね。

イシ: そういうことだね。それに対して、木戸は世襲制は絶対に認めてはいけないと反対する。会計官権判事だった伊藤博文も木戸の側についていた。大久保案が通りそうになると、伊藤は抗議の辞表を叩きつけた。

凡太: これに関しては木戸さんたちの言い分が正しいと思います。

イシ: そうだね。パークスやサトウらもそうだったろう。せっかく自分たちがコントロールできる政府ができたのに、古い世襲制のままでは意味がないからね。

凡太: それでどうなったんですか?

イシ: 一時は大久保案が通りそうになったんだが、最終的には折衷案にまとまった。つまり、とりあえずは現藩主を知藩事として任命するけれど、世襲制は認めない。知藩事の人事権は政府が握る、というもの。
 これに反発した藩主は多かった。その代表格が島津久光だね。完全に無視されていたからねえ。

凡太: 家臣だった大久保らが新政府の中枢にいるのに、実質藩主である主君の自分は蚊帳の外ですもんね。

兵制と御親兵を巡る対立

イシ: そこだよ。新政府の中には、久光が反乱を起こすんじゃないかと恐れる者もいた。武力で政権を奪った者たちが、再び武力によって今度は自分たちが排除されると恐れるのは当然だね。
 天皇親政の専制体制を維持するためには、諸藩を圧倒する武力を中央政府が持つことが必須だと考えられた。
 そこで、岩倉具視は、各藩の藩兵を解体し、政府軍として中央政府の直下におく兵制改革を提起した。
 ところが、それをどうやるかでまた薩長が揉めた。
 長州の大村益次郎は、武士や農民という身分に関係なく、国民皆兵を主張した。長州藩では戊辰戦争のとき、奇兵隊などの諸隊が力を持ったことが背景にあった。長州の木戸もその案を認めた。
 一方、薩摩の大久保は農民を兵として政府軍に入れることに反対した。ただでさえ仕事がなくなった武士たちからの反発を恐れたんだね。ここで大村と大久保が大激論を交わす。

凡太: 上野戦争のときと同じですね。あのときも長州の大村益次郎の強硬論と薩摩の海江田信義の慎重論が対立しましたよね。

イシ: そうだね。大村は国民皆兵論を強く主張して、それが後輩である山縣有朋らに引き継がれていく。
 ただ、このときは大村の国民皆兵論は退けられ、薩長土の3藩の兵から成る政府軍が編成されることになった。
 大村は激怒して辞表を叩きつけた。

凡太: みなさん自分の主張が通らないと、すぐに辞表を出すんですね。

イシ: とにかく揉めるんだよ。大村が辞表を出したから、大久保は土佐の板垣を後任にしようとしたんだが、今度はそれに木戸が猛反対して、結局、大村は新設された兵部省の大輔たいふというポジションを与えられた。
 しかし、その後すぐ、大村は出張先の京都で襲撃され、その傷がもとで2か月後に死んでしまった。

凡太: 新政府ができてもまだそんなことが続いているんですね。

イシ: 新政府の要人殺害テロだけでなく、もっと規模の大きい反乱も起きていた。しかも、新政府の中心である薩長内部でまず起きた。
 薩摩では戊辰戦争勝利で凱旋した下級藩士らが、もともと倒幕に否定的だった久光ら藩の上層部に不満を抱いて突き上げる。
 久光にしてみれば、戊申クーデターでは家臣である西郷らが藩主の命を度々無視して暴走した結果、新政府を作ったと思ったら、今度は西郷に従って戦った下級藩士らから、褒美はないのか、俺たちを重用しろと、突き上げをくらってしまい、踏んだり蹴ったりだ。
 久光は中央政界で華々しく動いている大久保にも嫌悪感をあらわにしていた。大久保はなんとか久光に協力を求めたいと、帰藩して、上京して一緒に政治にあたってほしいと説得に努めたが、久光は頑として受け入れない。そんなわけで、大久保は久光の説得を諦めてしまった。

 長州では奇兵隊などの諸隊が解散命令を受けて反発し、藩内クーデターにまで発展した。これが飛び火するような形で農民一揆も起きた。折りしも明治2(1869)年は大凶作の年だったんだけれど、資金のない新政府が、大隈重信率いる大蔵省の主導で年貢徴収の手を緩めなかったことで、全国の農村で餓死者を出すなど、悲惨な状況だったんだよね。
 諸隊から脱退した後に合流して2000人に膨れあがった不満浪士たちは、ついに武力行使で知藩事・毛利元徳に訴える。
 事態収拾のために山口に戻っていた木戸孝允は、この争乱に巻き込まれたが、藩の正規軍を率いてなんとか撃破し、毛利元徳の救出に成功した。
 反乱鎮圧後、長州藩は反乱の関係者を徹底的に処分した。斬首や切腹などの死刑に処された者たちは100人を超えたそうだ。

凡太: そういうこと、学校では教わらなかったような……。

イシ: 不平士族の反乱や農民一揆が起きたが鎮圧され……という程度の記述にまとめられてしまうからね。
 実際には、過酷な年貢取り立てで餓死する農民がいたり、贋金を作れと命令された鉄問屋の主人が獄中死したり、藩内の騒乱で100人を超える兵が処刑されたり……明治になってもそういう面では少しも「近代化」は進んでいないね。
 この頃、大蔵省のトップにいた大隈重信が力をつけていて、民部省をも合併し、凶作にも関わらず年貢の減免措置を認めないなど、強硬姿勢を貫いていた。甲斐国で起きた一揆では、大隈は、現地に向かわせた政府の役人に「やむを得ない場合は1000人までなら殺してもいい」と言ったそうだ。

大隈重信(1838-1922)
佐賀藩士。明治新政府では参与として会計官御用掛に就任。パークスと対等に渡り合ったことで名を上げ、大蔵大輔、民部大輔、大蔵・民部両省の合併で両大輔兼任など出世した。その後、第8・17代 内閣総理大臣。早稲田大学、日本女子大学創設などに関わり、教育界にも大きな影響を与えた。大正11(1922)年、満83歳で没。

凡太: ところで、中央政界では、薩摩は大久保さんの名前ばかり出てきますが、西郷隆盛はどうしていたんですか?

イシ: 明治新政府がゴタゴタ続きで始まった頃、西郷は故郷の温泉に浸かっていたんだな。引退を決め込んでいたらしい。
 自分が首をかけて作った新政府が、いざできてみると、それまでの攘夷論は完全に消えて欧米の真似ばかり。政府要人や官吏は贅沢三昧で堕落する一方、庶民は餓死と隣り合わせ。俺はこんな国を作ろうとしたんじゃない、と、完全にふてくされてしまった。

凡太: そんなんなら、最初から何もしないでほしかったです。

イシ: まったくだね。西郷がいなければ、戊申クーデターは起きなかったかもしれない。幕府が消えるとしても、優秀な幕臣たちが加わった、まともな大人の運営ができる新政府になっていた可能性もあるからね。それを武力一辺倒で叩きつぶした張本人が、事が終わって、外から「とんでもない政府だ」と悪態をつくだけ。つくづく困った人だよ。

 しかし、ゴタゴタ続きの政府にとっては、不満が渦巻く薩摩は怖い存在だった。不満分子を抑えられるのは西郷しかいないと、西郷派の藩士・大山綱良らが西郷に藩政復帰を迫り、なんとか説得した。西郷なら久光を抑え込みながら、新政府寄りの藩政改革を遂行してくれると期待してのことだ。
 しかし、これがその後、逆に不平浪士たちの受け皿を作ってしまう結果につながっていくんだね。

凡太: 西郷が不平士族たちに担ぎ上げられて西南戦争を起こした、と、学校では習いました。

イシ: 概ねそういう感じだけれど、そこに至る過程をもう少し細かく見ていこうか。

 明治3(1870)年7月、後の文武大臣森有礼の実兄・横山正太郎という薩摩藩士が、明治新政府の堕落ぶりを批判した意見書を集議院の門扉に掲げて抗議の切腹をするという事件が起きた。
 意見書には、「政府首脳たちは庶民の困窮ぶりをよそに奢侈贅沢三昧を尽くし、私利私欲に溺れている。政令も朝令暮改で、庶民は政府を信頼できない」といった内容のことが10箇条に渡って書かれていた。
 当然、政府はこの事件に衝撃を受けたけれど、西郷は横山のこの行動に感動し、追悼碑まで建立した。
 このあたりから、政府内では、政府の敵になりうる最大の不安要素は薩摩、さらには長州も含めた不平士族たちだという疑心暗鬼が膨らんでいった。
 横山が切腹した2か月後の9月、薩摩は政府軍に派遣している薩摩兵約1000人を引き上げ、交代要員を送らなかった。
 こうなると、政府内での大久保の立場が危うくなる。大久保はすぐに、吉井友実(民部少輔)、黒田清隆(開拓使次官)、大山巌ら薩摩閥の主要メンバーを集めて対応を協議。その結果、薩長土3藩から成る政府直属の軍を編成して「御親兵」として、武力を背景に廃藩置県などの政府改革を進めるという方向が決まった。

凡太: ちょっと待ってください。薩摩の本体が新政府にとっての最大の抵抗勢力なんですよね。それを抑えるために薩摩を含めた藩兵を政府の直属軍にするんですか? そんなことしたら、藩兵たちが反乱を起こしたら政府がまた武力で潰されてしまいませんか?

イシ: そうなんだよ。
 大久保の提案に、岩倉は同意したが、木戸は疑問を抱く。まさに今、きみが言ったとおりの理由からだ。
 薩摩の藩兵を従わせるためには、どうしても西郷の協力が必要だということで、大久保は西郷の弟の従道を、兄・隆盛を説得させるために鹿児島に向かわせた。
 これは結果的には成功して、隆盛は自分の要望を聞き入れてくれるなら新政府に協力するという姿勢を示した。
 要望の筆頭は、政府官吏らの腐敗をなんとかしろ、というもの。切腹して訴えた横山正太郎と同じ思いをぶつけたわけだね。
 近代化を急ぎすぎている。大隈らが牛耳る大蔵省の容赦ない財源確保路線もよろしくない。そうした苦言を呈した上で、政府が専制的な中央集権化を目指すことにはむしろ賛成した。諸藩を従わせられないのは、強大な武力を持っていないからだ。そのためには薩長を中心とした雄藩から少なくとも1万人規模の兵を出させて、天皇の「御親兵」として、いつでも動かせるようにすることが必要だ。逆らう藩はこの御親兵の武力を持って黙らせればよい、と主張した。

凡太: 逆らう者は力で潰せという、西郷らしい主張ですね。

イシ: この人はとことんそういう思考なんだね。
 ただ、この西郷の要求は、新政府の要人たちにとってもありがたいことだった。
 薩摩の大久保はもちろん、岩倉も全面的に同調し、木戸を説得する。こうして、大久保と木戸はそれぞれ藩の全面協力を求めるためにそれぞれ鹿児島と山口に戻ることにして、岩倉はまずは大久保に伴って鹿児島に、鹿児島の後に山口へ勅使として向かうことになった。そこに長州の山縣有朋や薩摩の川村純義も随行した。政府要人たちによる薩長ふるさと詣でみたいな感じだね。
 薩摩に関しては、西郷を上京させるだけでなく、久光も上京させたいという思いがあった。
 しかし、久光は最後まで病気を理由に状況は断る。その代わり、西郷を自分の代理として上京させるところまでは譲歩した。
 最低限の目的を達した岩倉は、大久保、西郷を連れて次に山口に向かった。
 前藩主・毛利敬親は全面的に政府への協力を約束した。
 その後、岩倉は帰京するが、西郷、大久保、木戸らはそのまま高知に向かい、土佐藩にも政府の改革に協力するよう要請した。その頃、土佐藩は独自に四国十三藩をまとめて大規模な兵制改革のもと、中央での政治力向上を図っていたので、大久保や木戸としては、大きくなる前に自陣に組み入れて手懐けておきたかったんだろう。
 その結果、薩長に加えて土佐からも御親兵として兵を出すことになり、代表として板垣退助も上京することになった。

廃藩置県というクーデター

 その後、薩長がまた折り合わず、長州からの兵の到着が大幅に遅れるといったゴタゴタはあったんだけれど、政府はようやく御親兵という強力な直属軍隊を手に入れたわけだ。
 それでも薩長の対立などはますます混乱を極めて、すったもんだの末に、木戸と西郷だけを参議にした薩長閥政権のようなものができるんだけれど、これもいきなり会議が難航してまとまらない。

凡太: なんだか聴いているだけで疲れてしまいました。

イシ: 疑心暗鬼とはまさにこういうことをいうんだろうね。
 その後もいろいろあったんだけれど、最後は一気に廃藩置県を決行するところまで行く。
 これはほとんどクーデターのようなもので、官吏たちには知らされぬまま、抜き打ちで決行された。
 順番としては長州の山縣有朋らが井上馨や木戸に即時廃藩決行を働きかけ、木戸のもと長州が即時廃藩で固まる。木戸らが、薩摩の西郷、大久保、大山巌らに話を持ちかけ、薩長で合意が成立。三条と岩倉が知らされたのは詔が出される2日前で、土佐藩には知らされなかった。
 キーマンは西郷だった。
 廃藩に断固反対する久光がいる薩摩を代表する西郷を納得させることは難しいと思われていたのが、意外にも西郷は二つ返事で合意した。久光からは、廃藩だけは絶対に阻止しろと命じられて上京してきたのだから、またまた主君を裏切った形だね。

 諸藩も、状況を知らされなかったほとんどの政府関係者も驚いたが、結果としては御親兵の睨みが効いて、反乱などは起きず、怒り狂った久光が鹿児島の地元で花火を打ち上げたのがせいぜいだった。

 いわゆる「明治維新」というのは、このときに一応実現したことになるのかな。王政復古の大号令以降3年半は、まだ諸大名が支配する藩が、実質残っていたからね。藩が消えて、完全な中央集権国家を宣言できたのがこのときだったわけだ。
 


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