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フルフラットで臨む

noteを本格的に始めたのは去年の5月。もうすぐ1年になります。群馬から福岡に戻った年でした。長男は大学生になったものの、コロナの影響で学校には一度も行けないまま、非常事態宣言が出たので福岡に呼び戻しました。次男は中3になり、入学した時と同じ中学校に舞い戻りました。そんなこんなあって家族4人で過ごした1年間です。

そしてこの春、次男は高校生になりました。先週入学式があり、すでに高校生活をスタートさせています。長男は先週、関東に旅立ちました。大学もようやく対面授業を再開することが決まったからです。

新しいスタート、新しい春を感じています。(近況報告終わり)

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noteについて書きます。

去年noteを本格的に始めるにあたって、心掛けてたことが二つあります。一つはむやみにフォローする人を増やさないこと。もう一つはいろんなタイプの記事を載せること。

この二つは今でもずっと続けています。自分が自由に書き続けるためです。

何かに囚われたり、何かにおもねることが嫌なのです。でもSNSを続けるうちにそんな心境になりがちです。そこから離れるための方法です。

フォローする人を自分のキャパ以上に増やせば、いずれ無理が出てきます。本当にフォローしたい人だけをフォローしてきました。

またSNSで投稿を続けるうちに、取り上げる話題や語り口に、その人特有の傾向が表れやすくなります。「この人はこういう人」と決めつけられたくなくて、いろんなタイプの記事を意識して書きました。そうすることで新しいことに挑戦しやすくなると考えたからです。

先に断っておくと、このやり方ではSNSのフォロワーを増やすことはできません。でもあえてそれにチャレンジしてみたかったのです。今回の記事はこの1年間の経過報告と2年目に向けた想いを書くことにします。

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23フォロー、60フォロワー。いま現在の私のnoteの交友関係です。なんか清々しいな(^^)。実にいい感じです。何がいいのかって? 相互フォロー数が21なんです!21/23。分母は小さいけど、相互フォロー率は9割を超えてます。出会いがあって、コメントのやり取りして親交を深めたうれしい結果だと思っています。いつも密かに感謝しております。

ここが重要なんですが、
相互フォロー率がきわめて高い場合、何ができると思いますか?

ハッシュタグを無理に付けなくてもいいんです。私が記事を書くとき、まず読んでもらいたいと思うのは自分がフォローしてる人たちに対してです。そのほとんどが私をフォローしてくれてるなら、目に留まるかどうかは別にして、その人たちのタイムラインに私の記事が流れるわけです。

書いたはいいけど、ハッシュタグ付ける気持ちになれないときがありませんか?自分のこと知ってる人に読んでもらえたらそれで十分と思うような。そんなときはハッシュタグを付けずそっと記事を置くように載せることができます。フォロワー数が少なく、相互フォロー率が高いから出来るワザです。読んでほしい人のタイムラインに流れるのを想像するだけで気持ちが落ち着きます。

えっと、それから今年はフォロワー対策もしっかりしていきますよ!、というと語弊があるでしょうか。何かというと、私がフォローできてないフォロワーさんのことです。

私に興味を持ってくれる人に、私も興味があるんです。もっとコミュニケーションが取れたらいいなと思っています。その対策がもうひとつタイムラインを持つというアイデアです。詳しくはこちらをどうぞ。↓

このアイデアがあれば、フォローに縛られず自由にコミュニケーションが取れるのではないかと期待しています。

そうだ、誤解のないように書いておかないと。フォロワーさん大募集です!でもフォローしてもらわなくても、読んでもらえるだけでもうれしいです。

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次に話を進めます。

私の場合、記事を読んでほしい人の対象は、こんな感じで広がります。

フォロー < フォロワー < すべてのnoter

いつも誰に読んでほしいか考えながら書くようにしています。逆説的だけどそのほうが広く普遍性を持ってたくさんの人に届くと思うからです。

顔の見えない「誰か」を気にしながら書いても、振り回されるだけ。それは嫌なんです。

なにものにも囚われず生きられたらいいなと思う。

人はいろんなことを気にしがちで、そこから離れることができたらいいのに。好き勝手に生きるとは違う。それが何かをいつも考えていたいのです。

そのヒントは「自由」という言葉にあると思っています。自由とは「自らを由 (よし) とすること」だそうです。

西村佳哲は『自分をいかして生きる』の中でこう書いています。

自由とは、自 (みずか) らに由 (よ) っていることを示す言葉だ。「由 (よし) 」は「寄す」の名詞形で、物事のいわれや来歴を指す。
つまり手足を縛られていないとか、選択肢が十分にあることが自由なのではなくて、その本人に由来を辿ることのできる動きや働きに、わたしたちは自由という言葉をあててきたのだと思う。

自由とは「自分で選びとる」ことを言うのではないでしょうか?

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私は『宇宙兄弟』という漫画が好きなのですが、11巻に印象的な場面があります。親友のリックを事故で亡くしたビンスとピコがつぶやく言葉です。

ビンス:僕はもう決めたんだ。迷ってるヒマなんてない…!
    人生は短いんだ…!
ピコ: ああ…そうだ…!
    テンションの上がらねえことに…パワー使ってる場合じゃねぇ…!

最近よくこの言葉を思い出します。自分の人生の残り時間を意識するようになって、時間の大切さを痛感しています。「テンションの上がらないことにパワー使ってる場合じゃない」 本当にその通りです。時間は有限なのです。他人に流されて時間を使うのはもったいない。

どこに時間を使うのか、自分で選び取りたいと思っています。

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ヒエラルキーという言葉が嫌いです。相変わらず階級社会の世の中ですが、自分の位置を確認しても、そこに幸福を見つけることはできません。他人との相対的評価では、自由(自らを由とする)にはなれないからです。

誰かを上に見たり、誰かを下に見たり。自分が上だと思ったり、下と思ったり。そんな他人軸ではなく、自分軸で生きるほうがずっといい。そんなことを思ってます。

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そもそもそんなこと気にしてたら、このnoteで私は誰とも付き合えません。

年齢の差や、フォロワーの数を意識したら途端にしり込みしたくなるほどギャップがある人もいます。幸運なことに私が付き合いたいと思う人は、そういうことにこだわらない人が多いようです。それがとてもうれしい。

出自や経歴も関係ないですね。いまがどんな状況であれ、その人がその人であることに変わりありません。自分から段差をつくらないようにお互いやっていきましょー。

フラットに、フラットに。

そんな生き方をしていきたい。それがnote2年目の想いです。

(終わり)


※見出し画像は、群馬の館林美術館にて撮影。写ってるのは息子たちです。


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