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「”お手軽欲望”むさぼれば」

突然だが、最近、自分の欲求がだんだん「お手軽欲望」になってきているような気がする。
たいていの事が「スマホ」の「ワンクリック」で手に入るようになって、何かを欲するときの「溜め」のようなものが薄れつつあるような気がしている。

それは「出会い」にも言える。
スマホの画面をみれば、「マッチングアプリ」や「SNS」で人と出会うこともできるし、通信しあって会話ができる。

極端なことを言えば、このスマートフォンという文明の利器は、かつての人間関係を一気に「整頓」してしまい、自分の「条件」にそぐわぬ人とは話さなくても生活できる術になっている。

そしてそれらが「ワンクリック」で事が「成立」するようになってしまい、私たちの「欲望」は「お手軽化」してしまったような感じが私自身はしている。

かつての人間関係がすべて良いとか、最高だったというつもりはない。

だが、明らかに「欲望」を満たしたときに得られる「満足度」が減ったようなそんな感じがしているのだ。

それを僕は、米津玄師の歌で気づかせてもらった。
タイトルは”米津玄師”の歌、「百鬼夜行」という歌詞から引用している。

お手軽欲望をむさぼって、目と頭ばかり肥えていき、肝心の「経験値」は増えないで「頭でっかち」になっているのではないだろうか。

自分の事を棚にあげて偉そうなことは言えないのだが、わたしはずいぶん前からそのように感じている。

もっと自分の足で歩き、世界を見て、自分の心にいろいろな感想を湧きあがらせが方がいい。
「百聞は一見に如かず」と昔の人たちは諺を残しているが、それは今も昔も変わらないのかもしれない。いや、むしろインターネットが普及した現代のほうが、この諺の重要度が増した気がする。

自分の体で出来るだけ色々なことを感じて、感情を刺激したり思考をめぐらすことが脳にいいのはもちろんだが、そんな「損得」ではじめるのではなく、「気分がいいから」「生きていることを実感したいから」という主観的な動機ではじめる方が物事続きやすいと、最近続けている「散歩」をいま振り返りながら感じている。

自分の興味があることをやりたいね。死ぬ瞬間に後悔しないで死ぬなんてきっとむりだけど、「日々それなりに満足していたからまぁいっか、おれそこそこ頑張った」と思いながら生涯を終えられたらいいなー。

考察交じりの日記のような文章になりましたが、ここまで読んでくださりありがとうございました。
ではでは。

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