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勝手に考察



社会には色んな人がいる。

「自分最高!自分大好き!」という人も居れば、「自分嫌い、自分なんて価値が低い」という人もいる。SNSを含め実社会でその両方の人たちと接したり、呟きを読んでいると、あることに気づいた。

それは「自分大好き」な人は「理由がない」状態で「自分大好き」なことが多く、「自分大嫌い」な人は、何らか「理由がある」から自分が嫌いなことが多いのではないか?ということだ。

「自分大好き」という人は、「そりゃ好きだよだって私だもん」といった感じで自分が好きだ。

また「自分」の「優れている面」も「卑しい部分」も平等に受け入れているということも挙げられる。

自分のスペックを天秤にかける(ジャッジする)のではなく、「まぁ人間そんなもんだよね聖人じゃないんだから」と割り切っている部分もある。

それから、私が思うに、「自分を好きになる」のに「理由がある」状態の人は「理由を好き」なのであって「そんな自分は他人と比較して優れている」という優越感が好きなのではないかと思う。言うなれば「問題ある比較の仕方」をしているのだ。

自分を好きになるのに「好き」に「理由」がいるのは、
その理由を失えばたちまち自分を嫌いになるのではないか?と心配になる。

「理由好き」を「自分好き」と「混同している」とも言える。

本当の「自分好き」は、「理由」などない。

いや、強いていうなら「自分の存在そのものが好き」なのだ。「自己愛が満たされている状態」とも言い換えられる。

また「自分は自分、他人は他人」くらいに考えていて、「自分」と「他人」の「境界線」が明確にあり、「自分の領域内」が「安定」しているようにもみえる。


そして、もう一方の「自分大嫌い」の人の方は、自分を嫌いなのには明確な「理由」がある。
それは「自分の容姿」だったり、「頭の回転の速さ」などに「劣等感」などを抱いてしまっていたりする場合が多い。


たしかに、学習速度や出来具合は「成績」という形である程度「数値化」できる部分もある。現実としてそういう事実があるのは間違いない。

だが、それはあくまで「能力」の「数値化」であり、「人としての尊厳」とは無関係のものだ。それなのに、その能力を自分の価値や尊厳と結びつけて考えてしまう人が多いようにみえる。

はたから見たら決して「不細工」でもないし、特段生活するのに「知能に問題がある」わけでもないのに関わらず、多くの人が自分に自信がもてないで苦しんでいる。


これらから推察できることは、おそらく現代の「社会構造」に問題があるということだ。
これだけ多くの人が自信を喪失したり、鬱になったりするのは、もはや個人の問題とは言い難いだろう。

「問題ある比較の仕方」を社会全体でしてきた結果がその反動として出ていると私は考える。
「比較経済社会」でみんな苦しんでいるのだ。

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