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初投稿&自己紹介

おはようございます。こんにちは。こんばんは。
山岡竜太朗です。
残り陸上人生も少なくなってきたのでそろそろnoteを始めます。
では早速、現在までの生き様を書いていこうと思いますがだらだらの長文書くので興味があれば読んでもらえると幸いです。


自己紹介

出身:山口県山口市
学歴:野田学園中学校→野田学園高等学校→山梨学院大学スポーツ科学部→順天堂大学大学院スポーツ科学研究科(現在)
自己ベスト:100m 10.96(+1.6) 400mH 51.00  八種競技 5279点(現:山口県高校記録)※2023年10月現在
実績:三重インターハイ出場( 2018)U20日本選手権(2020) 400mH 2位

中学時代

・中学1年生
 中学校は地元の私立野田学園に入学しました。小学校の頃、親に「野田学園に行きたい」と自ら言ったらしくその理由は自分でも覚えてはいませんが確か食堂にラーメンがあったからだった気がします…(笑)そんな理由でも、入学させてくれた親・家族には感謝しかありません。この野田学園に入学が良いのか悪いのか僕の人生が陸上漬けになるきっかけになりました。
 入学当初は、みんな頭良さそうすぎたので自分も頭良い風に見せようと、今まで本なんて呼んだことなかったのに一人で本を読んでいました。そんな中、小学校好きだった子が陸上部に入ると聞いたので大会とかで会えるかな?と思い超不純な動機で陸上部に入部を決意。あまり部活動に力を入れていない学校でもあり、練習はジョグして終わりのような感じでした。でも、小学校毎年リレー選手に選ばれてたしそこそこ足は早いのかなと自負していたのですが、始めての大会かは覚えていないのですが中一の自己ベスト(以下PB)100m14.99と同学年の女子にも負ける足の遅さ、200mも31秒?くらいであっ!走るの向いてねぇって思ったのと同時に足速くなりてぇって思ったのを覚えています。また、中学高校一貫高でもあったので当時高校の先輩がやっていたハードルの練習をみてうぉ!カッケーと思いハードルやってみたいなと思いました。

・中学2年生
 中学2年生、ここで人生を一変する出会いがありました。T.T先生との出会いです。前任の顧問の先生が辞められ、前年は非常勤だったT.T先生が常勤になりそのタイミングでT.T先生が陸上部の顧問になりました。T.T先生は三段跳び専門でインターハイ、インカレも出場した経験もある当時の私からしたら「ガチの先生来たやん」と思いました。そこから練習は一変し、毎日ガチの陸上の練習が始まりこなすだけでも必死な練習でした。ですが、脚は前年とは比べ物にならないくらい速くなり100mは13.04?と約2秒も速くなりました。陸上界から見たら別に速くもないしなんなら遅いタイムでしたが、この2秒も脚が速くなるという成長が目に見えてわかる陸上の魅力に惹かれていきました。それに加え、T.T先生は試合で勝てばもっと大きな大会に出れるということも教えてくれました。当時の私は、記録会と試合の違いも分からずそんなものがあるのかと驚きでそれに加え大会に出場できれば県外に行けることも知り「めちゃくちゃええやん!試合で県外行きたい」と心から思ったのを覚えています。でも、100mでは勝てないとなったので中1でかじっていたハードルなら目指せると先生の導きがあり陸上競技をガチでやるきっかけになりました。
 この中2の出来事が僕が今尚陸上を続ける原点だと感じています。

・中学3年生
 中学3年生、この年は経験の年だったかなと感じます。先生の指導のおかげで順調に成長していき、県大会でも戦えるレベルまでになりました。また、先生の助言もあり混成競技(四種競技)も始めることになりました。決して速くはありませんでしたが、ハードルと混成競技で県大会で勝負することができ、目標だった中国大会にも出場することができ混成競技では8位ではありますが表彰台に立つことが出来ました。また、ハードルではジュニアオリンピックに出場でき初めての全国大会を経験し結果はダントツの最下位でしたが悔しさより出場できたことに喜びを感じました。当初の入部動機である好きな子なんか忘れ、陸上が楽しくて仕方なかったことを覚えています。

 こんな感じで陸上にどっぷり浸かっていってしまう中学時代でした。


高校時代

・高校1年生
 高校はそのままT.T先生のもと野田学園高校の陸上部に所属し練習に励んでいました。高校からは混成をやっていたということもあり種目を400mHに転向、普通の中学校とは違い高校受験がなかったため中学3年の冬から400mHの練習をすることができ、県総体でレベルが高くないこともあり1年生で中国総体に出場することができました。PBは58.1とかでした…(遅すぎる)。しかし、この1年生から活躍できたこもあり天狗になり調子に乗りすぎその年の県新人で110mH,400mHともに5位で中国新人を逃すという大失態。自分に向き合う良いきっかけになりました。

・高校2年生
 この年は、去年の反省を生かしインターハイ出場とU18日本選手権出場を目標にしたシーズンでした。
県総体までは順調にいっていたのですが、中国総体の間近に腰椎分離症になり中国総体はジョグもアップもできない状態で出場し9位で終了、インターハイを逃しました。
 後半シーズンは怪我を治し、U18の参加標準である52.40を突破するべく練習に励み中国総体の一ヶ月後には54.6を出すことができあともう少しのところまで来ました。しかし、そこからはなかなか切れずU18の期限前の最後の試合、絶対に標準を切ると意気込んで出場し結果は54.7、U18も出場が叶いませんでした。この結果に自暴自棄になり練習でも周りに迷惑をかけるくらいに暴れていました…(反省全然してないやん)もちろんそのせいで、先生に激怒され我に返り来年のための練習を始めました。

・高校3年生
 シーズン初戦、400mHと混成競技(八種)に出場、3月の暴風の中400mHは54.6でPB、これも驚いたのですが混成がまさかの5000点越えで大会記録で優勝。
この試合で、インターハイに確実に出場するためにはを先生と相談し混成競技で目指すことに決めました。順調に進み、県総体は大会記録で優勝、中国総体は山口県高校記録を樹立し2位でインターハイ出場を決めました。インターハイは入賞を目標に出場しましたが2種目の幅跳びで失敗し目標を達成できず終了、とても悔しかったのですがインターハイに出場できたことはとても自信になりました。
 また、早生まれだったでU18日本選手権400mHで出場できたのですが結果はボロボロでした。今思うことですが、もし混成ではなく400mHを続けていれば何秒出てたのかなと思うことがあります(笑)もしかした52 とか出てたかなとか(予想は期待を込めて52.7)
 インターハイ、U18に加え全国選抜と3つの全国大会に出場することができとても充実したシーズンだったかなと感じます。しかし、全国で入賞するという目標は叶えられないまま終わったので、大学でも陸上競技に挑戦していこうと決意しました。


大学時代

 ・高校時代勉強を全くしていなかったこともあり、紆余曲折で大学は山梨学院大学に入学。当初は、関西1部か関東2部の大学に入学しようと思っていましたが先生の勧めもありまさかの関東1部の大学に入学することになりました。
 入学すぐに、400mHでPB更新し続け7月の順大記録会で52.03、それまでのPBから1.3秒もPBを更新することができU20日本選手権の参加標準を突破しました。U20ではA決勝は逃したもののB決勝に残りそこでも勝負できたこともあり自分が全国で勝負できるようになったことにとても喜びを感じました。

・2年目のシーズンは、コロナウイルスの影響で前半シーズンの試合は全てなくなりました。しかし、なんの怪我かも忘れましたが(多分腰)前半シーズンは思うように練習が積めませんでした。しかし、早生まれだっためU20の出場資格を保有していたのでそこでの入賞を目指して怪我を治し夏場から練習に励みました。結果はなんと2位、コロナや早生まれ(反則)など沢山の運が重なり全国入賞することができました。運はありましたが素直にめっちゃ嬉しかったですね。ここだけの話、決勝進出でもう泣いてました(笑)でも、救済で9人でのレースとなり9位だけになりたくないと決勝を走ったのを覚えています。9人のレースではなかったら多分メダルは貰えてなかったと思います。しかし、この年のみPBを更新できませんでした。

 ・3年目は、大学では一番苦しかったかなと感じるシーズンでした。ハードルの歩数を14歩数に変えて、安定したタイムは出せていましたがイマイチのタイムばかりで迷走してました。そんな中、また運の良いことに日本インカレの標準が下がり52.00になり51秒をだせばいけることになり、とりあえず51秒を出すために練習に励みました。なんとか7月の順大記録会で51.97で日本インカレの出場権を得ることができました。しかし、日本インカレを切ることで満足してしまいそこからはまた迷走。シーズン最後の田島記念で51.90で少しだけベストを更新しましたがイマイチのタイムしか出せずシーズンを終えました。シーズンを通してイマイチではありましたが、田島記念で400mHの走り方を少し理解できたので苦しかったのですが翌年につながるシーズンだったかなと感じます。

 ・4年目、山梨学院大学ラストシーズンはいろんな感情を詰め込んだシーズンでした。シーズン初戦、今考えるととても良いレースだったのですが高タイムを出したい気落ちとタイムが見合ってないギャップにやられ前半シーズンはずっと気持ち的に焦りを感じ楽しくなかったですね(笑)冷静に自分を見ることを忘れていました。また、そこに腰の怪我を重ねり歩数も15歩にしたり前半からつっこんだりとレースも迷走に迷走を重ね、腰も爆発し治療+気持ちの整理する期間として一ヶ月練習を離れました。一ヶ月練習離れたことにより、気持ちにも整理がつきある意味自分に期待しない気持ちも生まれ楽しく陸上ができたかなと思います。日本インカレの出場資格は保有していたので日本インカレに焦点を絞り、8月後半に5月の関東インカレ以来3ヶ月ぶりの400mHに出場して行きレースの流れなど試合間を取り戻して行きました。
 日本インカレでは、結果は予選落ちではありましたが51.48のPBを更新できました。タイムは全く誇れるものではありませんが自分の中で大学1年からずっと足踏みしていたのが一歩踏み出す感覚があり、大学陸上が報われた気持ちになりとても嬉しかったです。大学生活沢山のことを経験し、自分の中で最後にこのような形が残せたのは現地に応援に来てくれた家族をはじめ、沢山の人の協力・応援があったからだなと強く痛感しました。また、最後に出た100mでも10秒台が出すことができ、大学での裏目標である100m10秒台もなんとかクリア!

 とまーいろんなことがあった大学陸上でした(笑)


大学院時代

・大学生活で沢山の経験をしたのですが、やはりインカレで勝負できなっかたと感じ将来のことも踏まえ大学院に進学することに決めました。大学院は、陸上名門大学でもあり大学生活PBをいつも更新させてくれた順天堂大学大学院に決めました。ここなら、自分も強くなれるし各種目の競技レベルの高い選手と考えや意見を直に触れることができると思い半ば直感で決めました。2月から練習に参加させてもらったのですが、最初のメニューから450×3などもうついていくので精一杯で、環境の変化もあり毎日凄まじい疲労感に襲われていました(笑)
環境の変化に戸惑いながらも、順大生は優しく環境にも少し慣れることもでき順調に練習を積むことができ、なんと入学してすぐの6月で51.00までPBを更新(50秒台には入れない)このまま50秒前半、日本選手権まで切るぞと意気込んでました。しかし、母子球の痛いが顕著にあらわれ300m一本走り切ると爆発、歩行も激痛なほどに悪化しました。なんとか、順大の学内選考会には間に合わそうと治療など続けたのですが希望も虚しく今も痛い状況です。(人生うまくいかないな〜悔し〜)
 結局、後半シーズンは何もできずに終わりました。同じチームの選手や他大学の選手たちはどんどん自己ベストや好記録を連発しているのを横目に自分は練習も積めず気持ち的にも焦りを感じながら過ごしていました。もう、陸上人生終わりなのかと感じていましたが、シーズンラスト先輩の引退レースでもあったので1試合だけタイムが遅くても出ようと決意。結果は載せたくもないタイムでしたが、ゴールした後の開放感、レース後の選手たちの交流などレースでしか味わえない陸上の楽しさを再確認できました。一旦は本気で辞めようと考えましたが、日本選手権出場に向けて諦めず楽しもうを気持ちの再確認できる良いきっかけになりました。(2023年10月現)

終わりに

 長文読んでいただきありがとうございました。文章で誤字や多々おかしなところがあったと思います。すみません。
超自己中的に言いたいことや思ったことの経験をだらだら書いていきました。
ということで、大学院1年までのシーズンが終わり来年で大学陸上は最後になります。新たなことにも挑戦しながら、目標に向けって頑張っていこうと思います。来シーズンこそは!!!!

あーあと1ヶ月もすれば大っ嫌いな冬季練習だ〜何回心が折れるんだろうな〜
メンタル激弱の山岡竜太朗ですが、早く怪我治して脚速くなるぞ〜!

 noteは月1投稿を目指し自分の感じたことやいろんな立場から自己中的に主に陸上競技のことを語って、しゃしゃっていこうと思います。


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