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「エモい」はハードコア性を喪失している

「エモい」が一般概念化して数年経ち、本質的な意味合いも変容しつつ、既に侵食し終わったターンになっているが、元ネタのemo的音楽だってそもそも変容しながら日本にて形容詞化されていると思う。

emo/screamoだってみんなどういうのが正であるのかだってわかってもいない。悲痛な叫びのあるハードコア的音楽から分散的なアルペジオに載せ語るように丁寧に歌うまでもがなんかエモだと認識しているし、歴史が後から再発見的にmidwest emoだとかreal screamoだとかemo violenceだとかskramzだとか細分化して体系化しているに過ぎない。

こういった界隈の音楽に関してはゼロ年代文化としてリバイバルの兆しがあるし、リアルタイム数年後ぐらいで出会えた自分でさえ既に同窓会ミュージックなジャンルとなっている。(謎の外国人がYouTubeでこの手の音楽はライブラリ的に違法に上げまくってるのでそこも楽しい)

「エモい」という日常会話的な利用は端的に言えば「心にぐっとくるようなこと歌ってくれる奈々ちゃん」が本質に近いと定義できる。魂を震わせるような自己の感情の領域を支配されるような爆発力を指し、その感情を「エモいなあ」と原点的には利用してきた。まあemotionalが「感情的」という意味があるので状況はそれに沿っているが、どこかhardcoreな精神性を裏側に持つという二重性も抑えているというのが重要だったのである。

エモとハードコアは分離していき、源流の界隈も両者を行き来するような音楽であったが、ハードコア要素は重視されなくなり耳障りのいいエモの部分を突き詰めていったのが「エモい」の変容の第一歩だと言えるだろう。

やがて日本語的には「沁みる」みたいな意味合いを持つ言葉としてピックアップされ、その語感の良さや利便性も伴い「望郷」や「青春」、遂には「恋愛」などに付随する感覚を形容する段階まで至ったのである。

ハードコアの精神は分離後は最初から存在しなかったようになっている。別に言葉も感情も時代で変化するので「エモい」原理主義的な思考も働かない。そもそもハードコアというジャンルだって曖昧で定義化できないし、激情系なんて名称も確かにそうなんだけど、「激情系」って言いたいだけやろと今になって思ってしまう。(あとハードコアをHCと略すのは当時からなんか違うなあと思っていた)

文化に対しアーリーアダプター的に参加しそのマス化を見届けて、解釈の多重化を観測するというのはやっぱ何年もかかる趣味として面白い。最早今日では至る所で勃興と衰退を繰り返し、今知った概念が数年前から継続し変化した姿として現れることが増え、逆にアーカイブを辿り追体験するというのも楽しい時間である。

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