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車椅子(ホイールウォーリアー)からの目線

原付で事故って片足片手を骨折した時は松葉杖も点けないので車椅子に乗っていた。歩行という機能が失われた人間というのはとにかく動き回る気力がなくなる。何処へ出歩くにも車椅子に搭乗し、病院のエレベーターも占有してしまうのでパフォーマンスに対するコストが非常に高いなあと実感してしまった。しかし完治する余地がある身としては、期限付きではあるがユーザーの心理を体感できて良かった。そして骨折というのはボルトを入れた後も暫く痛い。

とにかくこの世は車椅子で突破できないエリアに溢れている。公共施設はバリアフリーが施されつつあるとされているが、侵入口が限定されていたり建物に入ろうとする場合はまずはスロープを探し回ることから始まるし、突入できても施設内での立ち回りは引越しのソファーの如く内輪差を考慮して行動しないといけないなど思わぬ障壁が多い。そして路面の凹凸がグリーンの芝目を読むように感知できる。

車椅子ビギナーでもあるので介助者の存在がないと上手く乗りこなせない不安も増強してしまう。そして井上雄彦の「リアル」は一時的ではあるがなかなか読み応えに溢れていた。全国の学校で読み聞かせした方がいい。そしてブックオフでの立ち読みは推奨されてもいい。立てるのも恵まれてる。

まあ上記のような車椅子というマテリアルに基づく不便さというのは試行回数で心理的受け入れや操舵技術の向上により解消されていくと思えたが、何より一番食らったのは「車椅子を目撃した時の人々の視線」であった。

とにかく表面上は配慮しているようなモラリストな表情の奥には、感じた事のない哀れみの表情が見え隠れする。自分はギプス丸出しという因果関係が理解しやすいアイコンも保持していたのでまだマシな方であったが、あの目線というのは被輪者にならなければ決して理解する事はできなかっただろう。五体満足である時点でそこら辺の意識をしなくて済むのだと改めて実感できた。

メシを残すとアフリカの事を思えと謎のフードロス論破があるが、アフリカの恵まれない子供の立場になるとメシを残す人間の存在など感知する余地もない。メシを残さずアフリカに来る人間に対して色々と考えてしまう。

しかしエレベーターの搭乗や少し段差のある床面で苦戦している時は利他的に助けてくれる見ず知らずの存在もいたのは有り難かった。同時に必要以上に「大丈夫ですか?」と心中お察しされるのは流石に申し訳なさが募るので、「押したるわ。じゃあな」ぐらいのフランクさで対応してくれるような世の中になったら社会として理想だなとも思う。

自分も含め、配慮し過ぎるというのも日本人特有の社会性だと感じるので、もうちょい簡素な親切コミュニケーションを実装された方が全員幸せになれる。メガネ掛けてるぐらいの感覚まで持っていければいい。やろうぜ。

一番怖かったのはエレベーターで同乗する時に目線を外して自分の存在が無いように振る舞う人間が一定数存在する事実であった。意図的な無関心というのは本当にみっともない姿である。そこのお前バレてるぞ。しかしベルマークという免罪符を集めれば救済されるのである。

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