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お便り書きながら考えてたこと

昨日、久しぶりに力一さんの昼ラジオ「空昼ブランコ」のフォームが開いた。
今回のお題は、第1回とおなじ地方ラジオのやつ。
割と難しい方のやつよね。
正解が分からないし、割とあからさまなボケが禁じられてる方のやつだもんね。
まぁ、出すだけ出したらもう運に任せるしかない。なるようになるわ。

力一さんのラジオのお題は舞元力一とは違って、創作の要素が強い。
作品募集とか台本募集みたいな雰囲気がある。
そこが好き。

どんな場面でもそうだろうけど、依頼された時にはまだ”完璧な答え”というのがない。
依頼した方にも、された方にもない。
多分ね。
だから、提出する側は”今出来る自分なりのベストな答え”を出すしかない。

「あなたが頭の中にイメージしてる映像が今のところ私には見えてません。その中で私が今出せるものはこれです」という気持ちで出して、もしそれが想定してる正解のかたちと違ったとしても「これも正解かも」と思って貰える仕上がりにできたら嬉しいし、全然違ったなら他の人の正解が採用されるんだろうし、そこはもう賭けだよね。

絶対にやりたくないのは「採用されやすいラインを狙う」とか「今までの採用の傾向を調べて合わせる」とか「自分は良いと思わないけど、世間的にはこれがウケるんだろうな」てのを出すこと。
何をするにしても、これをやったら終わりだと思ってる。
そんなもんはAIにでもやらせりゃいいしね。
そうしなきゃ取れないもんは、自分の仕事ではないと思う。

そりゃ、ある程度は他人に分かりやすくすることや相手に合わせる部分は必要だけど、完全にスタートから「さてさて、どういうのを作ればウケるか調べましょうね」から入るのは違うよね。
それで合格しても虚しくない?
たまにビジネス系の話する人とかで「傾向と対策!ニーズを調べて徹底的に合わせる!それだけが正解のやり方!」みたいなのを押し付けてくる人いるけどさ、違和感しかない。
大勢を一絡げにしたコマの1個になりたいんじゃないなら、スタートから相手や世間に完全に合わせて物を作るのは違うと思う。
世間や相手に合わせる作業は、自分の作品を作った後の微調整のときじゃないかな。

「こんな野菜が出来ました。うちの畑ではこれが出来ます」があって、その野菜を洗って調理して美味しくするなり、袋詰めして流通させるなりして”完成”になるんじゃない?
人参しか出来ないのに、嘘ついて人参を大根みたいにして売っても仕方ない。
人参が美味しくできる畑で他の野菜むりやり作って全体の質を下げるのも違う。
自分の畑で何ができるかを知って、どこでどう売るかよね。

どのジャンルのどの作業にしても、自分に向いてる役割とか自分がやるべきパートってのはある。全員が無理に他の人の真似して同じことを同じに出来るようになるのは違う気がする。
自分には自分の得意不得意があって、やり方があって、感覚があって、その上でのベストを出し続けるしかないんだと思う。
どこかの場所ではウケなくても、どこかではめちゃくちゃウケることもあるしね。自分の居場所を見つけるのも大事。

とか、お便り書きながら色んなこと考えた。


また力一さんのラジオ始まるの嬉しいな。
「もし何かで死ぬなら、力一さんの最後の配信を見終えると同時に死にたい」まであるもんな。
自分が書いた文章で力一さんが笑ってくれる時がいちばん嬉しい。大好きな友達に話しかけて笑ってもらった時みたいに嬉しい。
ずっと続けてくれるといいなと思ってる。いつも。

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