見出し画像

"The LEPLI" ARCHIVE 115/        モードから読む”表と裏”−6;          ラグジュアリィ-モード評論編。

文責/ 平川武治;
初稿/ 2014年3月13日;

 今回は表の世界、”巴里-コレクション ’15 A/W”のハイ・ファッションを舞台に論じよう。
 ミラノに来る前に友人の別荘を訪れた。
ここはあのコモ湖の近くで古くからのミラノの富裕層たちの立派な大別荘が立ち並ぶ街、
この別荘を彼女のお父さんから受け継いだ友人と久しぶりに広い庭に春の兆しの輝きと
匂いが転がって来る週末の午後、終わった巴里-コレクションの事を論じ合う。
 —時折、近づく3匹の老犬が戯れている。—が、改めて、style.comを見ながら論じるが、
論じあうどころかまるっきり意見が一緒だった事に驚く。

 ラグジュアリーモードのレベルの現在は?;
 今シーズンのトレンドが”悪趣味&キッチュ”なのかと思ってしまうぐらい、
殆どのラグジュアリー系はセンスもなく、クオリティもなく、広告で売る為のレベルの
コレクションが多かった。
 良かったのは3シーズン目のエディがディレクションする”ブランド サンローラン”のみでは
なかっただろうか? 
いい女で、自分がセンス良いと信じているブルジョア顧客ジュニアたちであれば
多分、今シーズンのエディの”ブランド サン-ローラン”は着たくなるだろう。
 DIOR by RAFもL.V. by NicolasもHermes by C.Lemaireも
みんな安直なコレクションだった。;
 
ファッション広告ビジネスにおけるF.ディレクターという役割だけを果たしているのは
それぞれ見方を変えれば凄い。きっと彼らたちにはそれなりのセンスがあるのだろう。
だから、このような大役を引き受けるのだろうが、このレベルで騒ぎ過ぎるファッション
メディアも地に落ちてしまったのだろう。
 DIOR by RAF;
 DIORのラフ君には2つの致命傷がある。
一つは、彼の才能は何か土台になるモノが言い換えれば、お手本があればそれをセンスよく
自分の顔つきにアレンジする事には丈ている所謂、センスがいい、ファッションDJ-ディレクターである。従って、誰か自分のために”土台”を作ってくれる相棒が必要の、”元ネタ”が必要なタイプ。(He is one of a typical fashion people.)
 アントワープで見よう見まねで立ち上げた自分のメンズ-ブランドには初めからそんな相棒が居た。そして、若いセンスのいい子を回りに置いてお頂戴するのが上手いタイプ。
あのJill Sanderの時は、ヴィエナの先生たちとPatrick V. O.をミラノへ連れて行った。
そして、Patrickが手掛けたウィメンズが彼の才能ある本格的なデザインによってであり
それが功を奏した。
 Patrick V. O.はアントワープの先輩であったM.マルジェラと同じコースを卒業後歩み,
彼もJ.P.ゴルチェ後、自分のブランドを立ち上げたが上手くゆかず、フランスの地方大学で教鞭を執っていたところをTAFが誘った結果であった。
 しかし、今回のDIOR社とは、自分一人の契約条件だった。それでもやはり、”輝ける椅子”
には座りたかった本人の野望とその結果が、もうこの3シーズン目でまんまと曝け出してしまったコレクションだった。
 もう一つの致命傷は彼の育ちである。
彼の育ちから、残念ながら”エレガンスが解らない、知らない。”と言う致命傷である。
この欠陥は巴里のクチュールメゾンでこの大役を果たすには恐ろしい。
本人に取っては非常に勇気が居る事である。
彼はアントワープの下町のストリートで育った貧しいユダヤ人。
だから自分のメンズ-ブランドは大丈夫だった。カッコ付けから始まり、自分のコレクションを立ち上げ時から一番買ってくれた日本人と仲良くなり日本人スタッフまで拾い日本素材を使う事、その後、ヴィエナのクンストの先生を経験した事などでその関係性が広がりあのJ.S.を
経てここまでのし上がって来た。
 ジューイッシュコネクションと例えば、引退したロンドンのI.D.マガジンのT.ジョーンズに
可愛がられた。ここでも、彼はティピカル-アントワープ出身の優等生デザイナーであった。
 しかし、ラフ君は嘗ての”若きY.S.L.の育ち”ではない。”フレンチデカダントとエレガンスと
ボングー”と言うフレンチ3大テイストは所詮、一夜漬けである。
 従って、今シーズンはこの2つの彼の致命傷がもろ表出してしまったコレクションと言えるもの。
 J.S時代の嘗ての伴侶、PATRICKがした事を、使った色合いをコピーし始めた。
でも、自分自身が"センス オブ エレガンス"が解らないのでそのままのコレクションに成って
しまった。PATRICKからのコピーでもその色彩バランス感覚もセンス悪い。
 予測通り、取り敢えず、”メディアで騒がせてくれればいいデザイナー”を今シーズンは証明した。しかし、彼がクレバーなところは、自分のDIORコレクションが駄目でも、ジェネラルなDIORブランド商品が売れればいい事も熟知している。その為に先シーズンから、コスメと
バッグに次いでよく売れるアイテムである“DIOR-スカーフ”のデザイナーにあのロンドンの
SARAH & TOSHIOのヂュオブランド、”SWASH”を起用して自分がディレクションする構造を作った。この辺りが彼のお利口さんな旨味なのである。      
 L.V. by Nicolas;
 ニコラのL.V.コレクションもだめ。センスが悪い。何のクオリティもない。
全くと言っても良い酷いコレクション。このブランドで為すべきコレクション全体の
バランス観が未だ掴めていない。彼も自分の元で働いていた嘗てのチームメイトたちが
どれだけ現在も彼をホロしているのだろうか?それに以前のメゾン Vにはそもそも優秀な
小針子さんたちが居た。しかし、今回からのメゾンは所詮、服では成り上がりメゾンブランドでしかない。未だ、服の領域では新座物ブランドであるがゆえ、「従来からのシステムである
”お針子さん”をかこっているような上質の構造」を持っていない。
此処でも、以前の立ち居場所が実質替わった分だけこのメゾンでの役割は”広告メディア”の為の囲われデザイナーでしかなくなったのか?
 デザインクオリティ、バランスクオリテ、それにブランドクオリティなし。
今後、コレクション後のメディアと関係者たちのお言葉によってこれから、多くの修正を
入れられてしまうだろう。このメゾンは最近では、時計で粗利をむさぼっているから所詮、
今回からのニコラ君は広告メディア対応の役割が彼の主なる”立ち居場所”なのであろうか?
勿体ない気もするのだが、今後の活躍を期待しよう。
 このところ、L.V.バッグはもうそれなりの階級顧客からは飽きられて久しい。 
彼らたちは自分が次は何を持ったらいいかを感じている層だから余計にうるさい。
巴里の業界編集者やスタイリストたちは今、その昔は愛犬用バッグ屋であった”GOYARD”が
ウケている。この流れは日本も同じ波長だ。
 Hermes by C.Lemaire;
 マッチョなC-ルメール君のエルメスも何もない。
所詮、”エルメスごっこ”でしかない。此処には残念ながら、あのエルメスのエスプリがない。
フランス政府によってメゾンが保護される状況を持ち得てしまった為に、ここに来て、
”フランス人デザイナー”起用という条件に見合っての彼の起用ではあるが少し、無理があろう。フランス人でも凡そエルメスとはほど遠い所で対峙していたはずのデザイナーでしかなかったはずの彼も、”カネの魔力”は凄い勘違いを生む。
 嘗て、このメゾンにM.M.マルジェラが登場した。
この時は彼のセンスの良さと頭の良さと自分の立ち居場所が熟知された上でのコレクションを
確か、3年間発表した。”エルメスというフレーム内”でどのように自分らしいコレクションを
それなりにイノベーション効果も含めてやった事である。
 その後のJ-P.ゴルチェは”ゴルチェという自らのフレーム”の中でのエルメスコレクション”
でしかなかったが為不評。C-ルメール君は自分の”フレーム”そのものもウイメンズでは無いも同然の彼自身、不得意な世界のデザイナーだ。今後、お勉強しながらの”エルメスごっこ”しか期待出来ないだろう。             
 S.Lby H.スリマン; 
 結果、今シーズンは冒頭でも述べた、不良少年(?)ぶったお利口さん、エディ-スリマン君が
いい。”これしか出来ない版”のエディのセンスの良さが出ているからだ。
映画、写真の世界から学んだヴィジュアル的な巧さと時代のバランス感を感じさせるセンスが
いい。エディは自分がイヴの育ちではない事を自認しているし、その結果の起用であり、
ブランド名から“Y”が消えたことで自分の好きなモノ、やりたいモノしかやって来なかった
この手法が功を奏した。服の巧さよりはフォトジェニックなショー全体のバランス感の巧さが
感じられた今シーズンだがただ、これしか出来ないという怖さが今後、残る。
 CARVENbyChristopher;
 元ポルカの企業デザイナーであったクリストファー君を起用し成功を収めたCARVEN。
ここ2年程のビジネスも好調なこの再生CARVENもここ迄か?
 何か新しい事、ちょっと違った事をしたいこのデザイナーの、彼が持っている器量の限界か
もしくは彼をバックアップするチームメイトたちの問題なのであろうか?
 barmanのデザイナーは未だ、若い分だけ冒険を行なった。
 次回のコレクションでは多くのデザイナーたちが試みるであろう、
”フォークロアコスチューム”にインスパイアーされた、愉しいコレクションであったが、
売り上げは取れないであろう(?)
 
 このようにこれら、巴里のモードの主役だと自認しているラグジュアリーメゾンもやはり、
”時勢”には孤立奮闘、がんばる事が難しいのだろう。
 この街のモードの世界がこの結果、『広告メディア産業』と化してしまって
もう、5年ほどが過ぎてしまった。
巴里の街で出会う本当の”クチュリェ仕事”を知っているお年寄り世代の人たちは口を揃えて
”こんなのはクチュールの仕事ではない”と嘆くのみ。
ここにも”金鍍金な虚飾”が沁み込んで来ている。

 まとめて実ビジネスをかんがえる、
 
結論的な僕の視線は、「パリのハイブランドやラグジュアリーブランドビジネスも
海の向こうの”ラルフ ローレン”のブランドビジネスの実態とその規模の大きさに
大きく煽られてしまった結果の動きであろう。

 従って、今シーズンは”キッチュ、悪趣味バッドテイスト”がトレンドなのだろうか?と
考えてしまうまでのシーズン。若しかしたら、この傾向とは極論、誰が儲けるのか?に
尽きるかもしれない。
 多分、これら発表された各メゾンのコレクションでメディア編集者たちが口だすアイテム
だけが、ほとんど“H&M”や”ZALA”でコピーされて”売れる世界”に放出される構造に
なって来たのだろう。

 僕はこのようなすばらしいビジネス構造が強かに出来上がっているのを改めて感心する。
従って、ここで儲けるのは所謂、業界風上のジューイッシュ系”素材屋と部品屋”だろう。
後はやはり、育ちの違うジューイッシュ系の所謂、”サンチェ系”コピーブランドである。
従って変らず、この世界からのmaji,sandor,koople,等が依然、高ビジネスを行っている
現実が理解出来る。
 それと口添え料としてのジューイッシュ系メディアが広告ビジネスとして儲かる仕組み。

 実際のラグジュアリーメゾンビジネスはもうとっくに服からバッグ、靴とコスメへ移行し
その後は、より粗利が取れるハイ-ジュエリィーとハイ-ウオッチへ更に移行。
 更にそれぞれのメゾンが”ラルフ-ローレンビジネス”体制へブランディングしてしまった
結果であろう。
 だから、最近のデザイナー起用というハイ・ブランドの新陳代謝はこの根幹によって
為されているだけで結局、”メデァを騒がせる特技”ある40代迄、それに”ゲイデザイナー”に
絞られている。
 ここには『広告メディア関係者たち』とどのように付き合ってゆくか?
その為の”パリ-コレクション”でしか無くなって来た。
 
 そう、”ラグジュアリィ-モード”とは元来このような“BAD-TASTE"がその殆どである世界。
この事を再度、思い出した今回のシーズン。
なぜならば、彼らたちの実顧客たちがこの世界の住民である。
だから、此の国では無い物ねだりとしての、“BONE ELEGANCE"が尊ばれるのだ。

文責/ 平川武治。
初稿/ 2014年3月13日、ミラノにて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?