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そんな時は過ぎて 大人になりずいぶん経つ。

5~6年会わなかった友人が、去年、ガンで他界した。

僕はどこにいるときだったか忘れたけれど
彼の遺言のような手紙が
LINEでまわってきて、その事を知った。

「この手紙を読む頃は、僕はこの世にはいないと思う。」

たしかそんな書き出しだったと思う。
「格好つけて、あいつらしいよな」
と笑えるくらいの時間が、あれから、あっという間に過ぎていた。

その手紙を、時がきたら、まわしてくれと、彼に託された デイヴ先輩と、
僕の同級生のアユミと。後輩のノリコが、お店に食べに来てくれた。


「俺はさぁ、その前の一年、めちゃくちゃ一緒に遊んでたんだよね。釣りも教えてもらって。ガンが見つかる直前も一緒に、カヤックやってたり。だから、なんかなぁ」

手紙を託されたデイヴ先輩(たぶん太ってるからデイヴと呼ばれてたんだと思う)は、ガンが見つかる前から、そして、そこからの闘病生活を含め、精神的にも物理的にも、家族以外で、彼に一番寄り添っていた人だと思う。

そして、ショックも大きかったと思う。

僕は、もう何年も会ってなかった友人だし、葬儀もお通夜も行けなかったから、先週まで彼が死んだことが実感なかったけれど。「あぁ、もういないんだ」ということをようやく、感じることができた。

釣りのはなし
スーパー銭湯のはなし
入院生活のはなし
姉貴がかわいいはなし
彼にまつわる、いろいろなはなし
それからいつも おなじ話もたくさんした。

亡くなった友人を含め、僕らは、もう20年前にもなるんだけれど、相馬で出会った仲間で。相馬で出会った人だけでこうやって集まるのは、僕にとってはもう思い出せないくらい久しぶりだった。

高校から大学までの7年間。長期休みは、よーく相馬に通った。

あの頃は、同じ相馬でも、今、魚を送ってもらってる原釜漁港にも行ったことなかったし、そもそも、相馬においしい食べ物があることも気がつかなかった。相馬に行っても、食事の時は、スーパーで買ったどこにでもある食材ばかり食べていた。

そんな時を一緒に過ごした仲間たちとは、ほとんど会わないけれど。何人かは年に一度くらい、こうして遊びに来てくれる。


その日はサワラの干した焼き魚を出した。

「このサワラめっちゃうまいじゃん」と言われ。
「それ、相馬のサワラだよ」
「まじかー!すげーなー」

と、遠く離れた場所でそんなことを言い合えて、それは、とても幸せなことだなと思った。

彼らと相馬で過ごしたベース基地みたいな牧場は、
震災と共に解散して、多分もう復活はしないと思う。

懐かしさは沢山あるけれど、あの場所やあの時間に、戻りたいとは全く思わないし(物理的に無理なことを考える時間がもったいないし。)、僕は僕で原釜漁港に新しい仲間ができた。

それに20年前の「相馬の空気感」は今でも自分自身の中にちゃんとあるし、こうやって仲間も会いに来てくれる。

「今、改めて相馬に通ってて思うけど、あの頃、相馬の美味しい食材もっと食べてたら、もっと相馬のこと好きになってたと思うんだよね」

「わかるわぁ、ほんとそうだよなぁ。でも、こうやって、またお前が相馬に通ってるのが、俺は相当嬉しい。いやぁ、嬉しいわ」

人は、大切なことは、2回繰り返す。デイヴ先輩、ありがとう。

そういえば20年前、デイヴ先輩は相馬に住んでいたし、
ガンでなくなった友人も少しの間相馬に住んでいた。

僕たちにとって相馬は、地元でも、故郷でもない。
家族が住んでるわけでもないし、知り合いが被災したわけでもない。
それでも、なんとなく、大切な場所だったことは、それぞれが感じている。

「去年、仕事で相馬に行く機会があったんだけど。どうしても足が向かなくて、断っちゃったんだよね。」
相馬で出会った別の友達は、そんなことを教えてくれた。

僕もベース基地に行けなくなって、
相馬や震災に対する「心のありよう」が、
今でも、よくわからないことがよくある。
宙ぶらりんの気持ちを、解けない問題は考えてても仕方ないからと。
引き出しにしまったまま夏休みが終わりそうな8月後半のような日々。


それでも、そういうことを、少しずつでも解決(社会的な課題ではなく、自分自身や仲間の心の問題として)していかないとだし。

それができるのは「仕事」なんだと思う。

とりあえず、アイデア見つかるまで、手を動かす。それだけ。
相馬の真鯛が絶好調です。あめいろー。





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