盲腸(後半)

 とうとう手術日である十月一五日がやってきた。午前十一時に手術は開始されるが一つだけ心配なことがあった。というのも、手術に備え、昨日の昼過ぎから入院していたのだが、昨夜、看護師が下剤と水を持って病室へやってきたのだ。腸の中に何もない状態で手術をしないとうんぬんかんぬん……。下剤と水を渡してそのまま帰ってくれたらよかったものの、飲み込むまでご丁寧に見届けてくれるようだった。私は錠剤が飲めない。

「飲めましたか?」
 大げさに唾を飲み込むフリをして、看護師に向かって首と鎖骨が衝突するくらい激しく頷いた。
「おやすみなさい、お大事に。」
 看護師が去って行った後、奥歯で挟んでおいた下剤を噛み砕いて水で流し込んだ。

 噛み砕いて飲んだ下剤に効果はあるのか? 今日になって一度も排泄してないから多分効果は無かったのだろう。手術中に漏らすことなんてあるのか、それは問題だ。全身麻酔ならまだしも意識があるのだ。しかも下半身が麻痺しているため排泄していても気づかないだろう。人生最大の恥辱である。それを想像するだけでここから逃げ出したくなるような衝動に駆られた。結果から言えば、排泄はしなくて済んだ。しかし、それ相応の恥辱を味わうことになるのだ。

 手術開始時刻の約二十分前、昨夜下剤を持ってきた人とは違う看護師が薄青色の膝下くらいまでの長さの手術着を持って現れた。
「これに着替えてください。着替え終わったらベッドに横になってもらってて大丈夫です。ベッドごと手術室まで運ぶので。」

 私を乗せたベッドは手術室へと運ばれた。手術室には執刀医の男性、麻酔医の男性、助手らしき男性が約三名、女性の看護師が三名いた。

「麻酔を打つので、背中を丸めて両腕で膝を抱えてくれるかな。体育座りのような感じで。」
 麻酔医の指示に従って体勢を取る。私はこれに強い恥辱の念を抱いた。とにかく恥ずかしい。この体勢、胎内の赤ちゃんのようだ。自分が胎内回帰願望を持つ者だとさえ思えてきた。醜い格好をしている。手術着を捲りあげられて、背中と尻が丸見えの状態なのである。麻酔は背骨の窪みに打たれた。とんでもなく痛いらしいと母から脅かされていたが、予防接種くらいの痛みにしか思えなかった。私は母体へ還る私は母体へ還る私は母体へ還る私は母体へ還る。南無阿弥陀仏のような感覚で心の中で唱え続けたからかもしれない。
 
 手術中はBGMとしてアクアタイムズの曲が流された。下半身麻酔の場合、リクエストに応じて患者の好きな曲を流してくれるのだという。孤独だが前向きな歌詞に、つい感傷的になってしまって手術中だというのにぽろぽろ泣いて、今にも涙が落ちるぞ、というその時だった。
「いやあ、実は僕にも高校生の娘がいてさあ。君の一つ下で高校一年なんだけどさあ。反抗期で碌に会話もしてくれないんだよなあ。どうしよう、どうしたらいいのかなあ。どうしたら普通に会話してくれるのかなああ、君は家で学校の話とかするほう? お父さんとは仲いいの? 仲良さそうだなあ。分かんないけど。いいなあ、うらやましいなあ。」
 頭上で麻酔医は喋る。私を見下しながらひとりでに喋る。私が答えなくてもお構いなしに喋る。アクアタイムズの音楽は麻酔医の声によりいつの間にやら聴こえなくなっていた。
 
 極めつけは手術が終了する間際、主治医が放った一言である。
 「グロっ」
 手術は無事に成功した。

 すぐに病室にベッドのまま運ばれた。戻ると母が待っていた。
「おつかれ~。 再放送のスラムダンクやっとるでー。」
 ベッドに横たわった状態で母とスラムダンクを観た。まだ手術が終わって十分程度しか経っていなかった。
 スラムダンクが終わり、続いてサスペンスが始まった。指先の麻酔が切れ、太腿の麻酔ももう少しだというところに、ノックもせずに主治医が入ってきた。主治医が左手に持っている物を見た母が、あひっ、と小さく悲鳴を上げた。
「わ! タコや。タコの足や!」
 私は思わす声を張り上げて言った。立ちすくんでいた母はよろよろとその場にへたり込んでしまった。
「これ、君の盲腸だよー。長いでしょー。普通は大人の手の小指くらいの長さなんだけどねー、倍くらいあるよねー。」
 主治医はさらに近づいて私に瓶詰めの盲腸を差し出した。
「すごい!」
 私は興奮して叫んだ。受け取った瓶を四方八方に回転させて観察してみた。どの角度から見ても、やはり盲腸はタコの足とよく似ていた。


#小説 #盲腸 #エッセイ

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