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大学時代(約20年前)に住んでいた町「朝霞台」をぶらついてきた話

2004年春、僕は東洋大学という大学に入学しました。ちょうど20年前になります。20年て引きますね。

当時の東洋大学というのはちょっとした転換期でした。それまで文系学部は1~2年生が埼玉の「朝霞キャンパス」、3~4年生が東京の「白山キャンパス」に通うというシステムで、うっかり留年したり単位をとりこぼしたりすると3年生になっても1時間くらいかけて朝霞の講義を受けに行かなければいけない「朝霞バック」という刑に処される地獄の学校でした。

これを防ぐため私がちょうど2年生になる際、「普通に1年から白山で学べるようにしましょう」という形に統一され、朝霞送りにされる文系学生はいなくなりました(朝霞には別学部が新設された)。

そんな全員が白山に通い始める幸福なタイミングで、なぜか朝霞キャンパスがある東武東上線「朝霞台」駅で1人暮らしを始めたイカレ野郎がいました。僕です。

当時の私(たろちんスタンプの元画像)

僕は大学で「東洋大学グルービーサウンズジャズオーケストラ」というビッグバンドジャズのサークルに入っていました。吹奏楽みたいに大人数でやるジャズバンドなので都会の白山キャンパスでは活動場所がなく、田舎の朝霞キャンパスのでっかい部室で活動していました。

当時ホームページにのせてた画像(これは部室ではなく借りたホール)

せっかく都会の大学に行ったのにそこからわざわざ講義終わりやバイト前に田舎に移動して、よりによってジャズとかいう陰気な音楽に打ち込むやつらは基本的に奇人しかおらず、みんなおそろしくウマが合いました。友達が欲しくて大学に行った元不登校児の自分にとって大学とは朝霞であり、それすなわち若者のすべてだったわけです。

なので何の疑問もなく朝霞台に住みました。もちろん留年しました。(今でも大学をサボりすぎて卒業できなくなるという夢を見ます)

朝霞での生活は今も宝物です。講義は白山に腐るほどあるのに家を出るとなぜか朝霞台駅のロータリーを通過してそのまま朝霞キャンパスの部室に向かい、練習後は友人らと激安居酒屋で貧乏飲み。そのままスーパーで安酒を買ってうちに移動し、朝まで地球防衛軍をやり昼まで寝る。翌日は当たり前のように誰も大学に行かず、coco壱のカレールーだけ出前してうちで炊いた米にかけて食い、また白山に行かずに部室に行く。大体そういう感じの日々でした。僕たちはずっと間違っていて、正しかった。

先日、当時の仲間と「久しぶりに朝霞台で飲むか」という話になり、ついでに当時の町を歩いてきました。

朝霞キャンパス

大学、めちゃくちゃきれいになってた。なんの面影もない。新歓とかオープンキャンパスのとき、中庭で演奏したりしたなあ。(講義にほぼ出てないので校舎内の思い出がない)

原風景

コミュニティセンター、通称「コミセン」。ここに部室があり、実質ここに住んでいました。そこの階段上がったとこの喫煙所で通算2万本くらいのタバコを吸った。

サークルが毎年お世話になっていた養老乃瀧(跡地)。先月でちょうど閉店していた。朝霞台には養老乃瀧が2軒あり、こちらは老夫婦がやっている昔ながらの養老乃瀧。僕らは愛と親しみをこめて「ダメ養老」と呼んでいましたが、地元の気さくで手作りな感じが本当によかった。追い出しコンパなどの定例飲みでは2階の座敷を貸し切りで自由に使わせてくれて、クソウザ学生大騒ぎの宴会をやっても笑顔で受け入れてくれる素晴らしいお店でした。一生忘れません。

この「つるや」という居酒屋に全朝霞キャンパス民が行っていました(僕調べ)。後年、激安居酒屋「一休」が駅前にできてからは拠点をそちらに移しましたが、雰囲気とか実家感とかは圧倒的にここにある。日・月のサービスデーはつるやに行きたいがために部室に行き、したくもない練習をしながらみんなが「じゃ、つるや行くか」と言うのを待っていました。

日曜はビール、月曜はサワーが安くなる。当時は100円だった
がつ刺し(440円)とチキンバスケット(720円)
しそ巻き、つくね(各200円)

この「チキンバスケット」「がつ刺し」「しそ巻き」が思い出の味です。値段はさすがに上がってたけどそれ以外は20年前となんも変わってなかった。うれしい。

あと、さすがに写真のせられないですが僕が当時住んでいたボロアパートもそのままの姿で現存してました。しかもちょっと人住んでるっぽかった。当時からスキマ風ピューピューだったのに今や築40年くらいになってて、もう半分外だろこれと思った。家主がいない間も誰かがいるようなたまり場だったし、初めてゲーム実況録ったのもこの家でした。魂みたいなものはここに置いてきた。

なんか色んなこと思い出したんですが、つい最近のことのような前世のことのような変な懐かしさがありました。当時の仲間も家庭を持ったり地方に行ったりしてめったに連絡もとらなくなった人がほとんどですが、僕が退院したときにはみんなで通話する機会も作ってくれたりして、そういうのは膵臓失ってよかったなあと思いました。よくねえよ。

人は老い、時代は変わり、進んだ時計の針と失った臓器は戻せませんが、変わらないものもあるということが心の安寧になることもある。20年後も生きていたらまたこの町に来たいと思います。

以下、マシュマロ返信です。


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