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短編328.『オーバー阿佐ヶ谷』28

28.

【小牧亨の場合②】

 当時の僕のアパートは南阿佐ヶ谷にあって、『ソルト・ピーナッツ』から自宅へと帰る為には高架下をくぐる必要があった。ちょうどその曲がり角に差し掛かる時、僕は一人の娼婦と出くわした。戦後の闇市から抜け出てきたような出立ちの老娼婦と。

 その女は界隈では有名な立ちんぼだった。夜な夜な阿佐ヶ谷のあちこちに出没しては一晩の飲み代程度で体を売る、と噂の。そういう人に付き物の「国に帰ったG.Iだか将校だかを今も待ち続けている」とか「実は各界の著名人を客に待つ」とか「友達の友達が梅毒をうつされた」とか、そういった清濁入り混じった伝説を目一杯に羽織って。

 声を掛けられた訳じゃない。青白い街灯の下、娼婦はただじっとそこに立っていた。裸足に履いたパンプスから小指が突き出ていたことを今も覚えている。風でめくれたオーバーコートの隙間から見える足は細く、白く、喩えるなら地に生えた二本のネギみたいだった。ーーーこんな人を買う人間がいるんだろうか、少なくともその瞬間まではそう思っていたよ。

 ーーー魔が差したのかもしれない。別に女に飢えていた訳じゃないことは確かだ。飢えていたとしても、だ。あれはそう、魔が差したとしか言えないな。

 僕は財布の中の金の半分を使って、その娼婦を自宅に連れて帰った。道すがら、どちらも口を開かなかった。無言で歩く僕らの上を中杉通りの紅葉した並木だけが寒風に揺られ、ざわめいていた。

 ーーー軽蔑するかい?それとも少しは同情してもらえるかな。その夜は寒く、お互い独りで過ごすには厳し過ぎたんだ。

          *

 無言で鍵を開け、無言でシャワーを浴びるように指示し、無言で抱いた。あれは僕の女性遍歴の中でも一番奇妙なセックスだったな。今思い出しても、背筋が鳥肌立ち、尻のあたりが強く内側に引き込まれるような感覚があるよ。
 気持ち良くはなく、興奮もしていない。だけど、勃つには勃っていた。それはまるで誰か別の人間の”ブツ”を眺めているような気分だったな。それが出たり入ったりーーー。
 イク時の感覚もなかったけど、その代わりに胸のあたりで何かが搾り取られるような感覚があった。搾乳機を心臓につけられて、心を根こそぎ吸引されるような。
 あれ以前もあれ以降も二度と味わうことのない体験なんだろうな。

          *

 ことが済んだ後、その娼婦は言ったよ。「ごめんなさい。でも、ありがとう」って。謝られる理由もなければ、感謝される所以もない。(それが性欲を介さない屈折した形であっても)僕はただ金と精子を交換したに過ぎない。ーーーもしくは別の何か大切なものを。

 朝靄に翳る娼婦の背中を見送りながら思ったんだ。もし自分に成功が用意されているとするならば、もうこんなところに居ちゃ駄目だ、って。




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