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短編329.『オーバー阿佐ヶ谷』29

29.

 話はそれで終わった。小牧はフォークに刺さったまま残されたオリーブを齧り、グラスをバーテンダーに返した。

「で、そのHOEが小牧さんの言う”怪物”なのか?」
「もしくは、単なるアゲ-マン売女」と真妃奈が付け加えた。
「そうですね。僕が成功の扉を叩いたのだとしたら、あの夜のあの出来事以外考えられませんね。もしそれを怪物と呼ぶのなら」

 ーーー解せなかった。演出家から聞いていた話とだいぶ違う。確かに”すがりつく”という点では似たようなものかもしれないが。

「怪物は見る人によって姿形を変えるのか?俺が見た奴と全然違う」
「怪物も馬龍丑。さんには抱かれたくなかったんですよ、きっと。分かる〜」と真妃奈が言った。
 ーーー今は冗談とかいいぜ、bitch。
「どうなんだろう。もしかすると、東京には怪物がたくさんいるのかもしれませんね。それは時代によって姿を変え、求めに応じて形を変えて、あちこちに生息しながら他人の夢を喰う機会を伺っている」
 小牧は財布からカードを取り出し、支払いを済ませた。手出し口出し出来る隙もないほどのスマートさだった。

 私は小牧の寂しげな横顔が気になった。演出家の通夜から怪物の話まで些か昔を思い出し過ぎたせいなのかもしれない。
「ーーー会って良かったんだろ?怪物に」
「どうかな。夢を追っていたあの頃の僕の方が、今よりもずっと輝いていたように思えて仕方ない」
「おい。成功者みたいなつまらないこと言うなよ」
 小牧はバーテンダーからコートを受け取り、それを羽織った。上質そうな革のコートだった。
「君たちも東京という怪物に呑み込まれないように気をつけた方がいい」
 我々の肩に手を乗せ、スツールから立ち上がった小牧は先程より一回り痩せて小さくなったように見えた。
 ーーー照明の当たり具合のせいかもしれない。

 ドアへと向かうその背中に声を掛ける。
「Hey!ちなみに梅毒は大丈夫だったのかよ、doggs?」
「幸い、今は良い薬があるんだぜ、Bro.」とだけ小牧は言った。

          *

 残った酒を飲み干す。もう一杯頼むだけの余裕は肝臓にはあっても、財布には無かった。タイムリミットだけがあった。西麻布には駅がない。ここから阿佐ヶ谷へと帰るには六本木まで歩き、都営大江戸線を経由して代々木で総武線に乗り換えなければならない。終電が迫っていた。ヤれそうにもない女とのタクシーの相乗りなど言語道断だった。

「そろそろ帰ろうぜ」と私は言った。
「うーん。私もそのお店行ってみようかな。『モスト・デンジャラス』だっけ?今日の帰りにでも」
「『アルト・バイエルン』だよ」
 !ーー正しくは『ソルト・ピーナッツ』。阿佐ヶ谷に存在する世捨て人のポケット。
「馬龍丑。さんも付き合ってくださいよ」
「俺は御免だね」
 こんな良い酒を飲んだ後に、ドブ底をさらって仕込んだような低級酒なんて身体に入れたくはなかった。

          *

 真妃奈とは阿佐ヶ谷駅前で別れた。本当に『ソルト・ピーナッツ』に寄って帰るつもりらしい。まぁ自分のとこの主催が馴染みだった店だ。わざわざ止める筋合いもなかった。飲みたい奴は飲めばいいし、死にたい奴は死ねばいい。自由とはそういうものだろう。違うのか?

「もし場所が分からなかったら電話してくれ」と真妃奈にケータイの番号を渡した。それ以外の理由で掛かってくることなんて期待せず。



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