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シン・ウルトラマン雑感

シン・ゴジラ~シン・ウルトラマンへ

もともと庵野監督はウルトラマン、とりわけシリーズ3作目の「帰ってきたウルトラマン」を愛しており、自分自身がウルトラマンとなる DAICON FILM版「帰ってきたウルトラマン」をアマチュア時代に撮っていたりもします。

帰ってきたウルトラマンは融通の利かない上層部と主人公達の属するチームの対立がしばしば描かれ「組織の軋轢」を日本のアニメ・特撮などに持ち込んだ走りの作品とも言われますが、ウルトラマンをやや脇におき2大怪獣が東京で暴れまわり、それに翻弄される市井の市民や隊員間に組織の葛藤など現実社会の街中に怪獣が現れたらどうなるかをシミュレーション的に描いた意欲作「グドン・ツインテール編」のプロットをシン・ゴジラではほぼなぞっていた所もあり

シン・ゴジラでありながらシン・帰ってきたウルトラマンでもあった作品だと言えるかもしれません。それを改めてまたシン・ウルトラマンとして撮る場合、必然的に人間ドラマ的な側面が強くなった「帰ってきたウルトラマン」以降の第二期ウルトラシリーズではなく「ウルトラQ、ウルトラマン、ウルトラセブン」といった自然災害の象徴としての怪獣や未知の現象を起こす根源としての宇宙人を描いた初期作。

つまりシンプルなSFに回帰するだろうなぁというのがなんとなく事前にイメージしていたものです。

その後の二次創作的な流れを受けた設定の数々

しかして、その内容は旧作のオマージュもたくさん散見されました。

当時の学年誌の誤植であったゼットンを操る宇宙人ゾーフィ(実際にはゾフィーはウルトラマンを助けにきた光の国の使者で、ゼットンを操るのはケムール人そっくりなゼットン星人だったのですが…)

ゼットンの吐く1兆度の炎も劇中にそれらしい描写はなく怪獣図鑑の設定が一人歩きした結果だし、ウルトラマンと怪獣が暴れた後の建物の倒壊が国家予算と照らし合わせてリアルに描かれたり、1兆度の炎が実際に出現したら、太陽系が消滅するなどの設定は90年代頃にウルトラマンで育った世代が社会の中核を担いだした時期に出された様々な書籍…「ウルトラマン研究所説」や「空想科学読本」からのフィードバックとも言えます。

パゴスがネロンガに、それがガボラにという怪獣の製作費を浮かすために怪獣の首をすげかえたと言われる、後に語られる制作側の事情も、劇中の公式な怪獣の変換として盛り込まれるなど、概ね当時の設定が一人歩きしたり、オタク第1世代がつっこんで考察したり、後に製作者が語った舞台裏だったりを特撮やアニメを浴びるように見て、それらのガチの二次創作やパロディーに手を付け始めた走りの世代のクリエイターである庵野監督自身がフィードバックし、それを体系的に取り込んで仕上げたあたりがある意味見事なコラボレーションだなとも思った次第です。

各怪獣たちに見られるオマージュの跡

また生物感のある四足歩行の怪獣だけを選んだうえでそれをどこか生物兵器的(シリーズで言えば4作目ウルトラマンエースで描かれた生物的な怪獣に機械的な装置が組み込まれた「超獣」的な趣)が今回の怪獣たちには強く感じました。名称もずばり「超獣」を思わせる「 禍威獣」だし。超獣は異次元人ヤプールに手で改造を施されていますが…禍威獣も実は…という設定にも旧作品群の作品の枠を超えたオマージュを感じさせます。

また後半に登場するシン・ウルトラマン版のゼットンの造形はハリウッド版のパワードゼットンにも近い。一方で田園風景や山岳地帯と怪獣がセットになったイメージがどこか昭和のウルトラマンの情景としては強く、ノスタルジーすら感じさせるのですが、とりわけそのイメージが強く打ち出されているのが「ガボラ」のエピソードだった記憶があるのです。

純粋な地球産の怪獣第1号であるネロンガは別にしてウルトラマンの全話の中では比較的マイナーな扱いであった「ガボラ」に焦点を当てたのも、エヴァで田園風景や山岳地帯と幾何学的な生き物である使途とのヴィジュアルの融合を図った庵野監督らしいセレクトに思えます。顔を体表で被るあたりも生物兵器的に描きやすいという特徴もあったのではないかと。

サラブ星人もマイナーな宇宙人ですが、確か庵野監督がウルトラマン中一番好んでいる宇宙人であり、同時に「ニセウルトラマン」に化けるという能力的に美味しいキャラだとも言えますね。ゼットン・メフィラスはともかく、バルタンやレッドキングやゴモラあたりの人気怪獣をあえて出さなかった点も、どこかリアルタイム世代の拘りを感じます。

また泉がいなくなったシーンで隊員たちを下からのショットで捉えている点は「実相寺」オマージュでニヤリ。メフィラスとの居酒屋での妙に人間臭いやりとりもちゃぶ台を囲んで対話する「狙われた街」のオマージュのようにも思えました。メトロンもメフィラスと同じ「暴力」を嫌う宇宙人繋がりでもありますし…

まったく新しいウルトラマンとしての立ち位置

ウルトラマンが人間と宇宙人の狭間の存在である、という展開はウルトラマン自身が人間に「成りすましている」最初のウルトラマンである、ウルトラマンの続編「ウルトラセブン」で深く掘り下げられた設定でした。地球に来て、最初に会った勇敢な青年「薩摩次郎」をモデルに「モロボシダン」に変身したウルトラセブンが人類と宇宙人との狭間でしばしば苦悩するという設定がセブンでは多く見られたもので、さらに平成になってからの続編「平成ウルトラセブン」では地球人を巡る処遇で光の国とセブンが対立する設定もあると聞きます。

「お前は人間なのか、宇宙人なのか」というメフィラスの問いかけ自体は原作「ウルトラマン」そのものにもあったものですが、シン・ウルトラマンの後半の一連のパートはこういった「ウルトラセブン」的テーマにざっくり踏み込まれていると感じます。

自分の身を犠牲にして誰かを助け、それに感動して一体化するウルトラマンという設定は実はシリーズ3作目「帰ってきたウルトラマン」や「ウルトラマンエース」以降で見られた展開でしたが、それをあくまで事故のうえで融合するという流れの初代ウルトラマンベースの物語に持ち込んだ展開もさりげなく革新的なのです。


ウルトラマンではハヤタは基本的に悩むシーンなど描かれずそういったシーンはしばしばイデ隊員など別の隊員の役割。主人公=ハヤタはあくまで寡黙なエリート隊員として描かれていました。ウルトラセブンでは悩める主人公でこそありましたが、主人公の人格面が=ウルトラマンという設定(ウルトラマンが地球人に憑依する型=マン・帰マン・エース・タロウと地球人に擬態する型=セブン・レオ・80・メビウスの2タイプに分かれるのですね)

帰ってきたウルトラマンではウルトラマンと融合した主人子である郷秀樹が、居候先の坂田家との交流に所属するMATチームの隊員間との軋轢なども描かれ、ウルトラマンの力を得たあくまで普段は等身大である主人公像が始めて描かれましたが、主人公がウルトラマンとしての人格に徐々に取り込まれ、最終的には地球を去ったとされる見解が多く、二期と言われるウルトラマンの作品は基本この流れを踏襲しています。平成になってからのウルトラマンは人格面はあくまで主人公そのものであり、ウルトラマンは超人的な光の力とされている構図が多かったと記憶しています。

そこに描かれたテーマとは?

今回は物言わぬエリート隊員のハヤタ=ウルトラマンの人格が全編を通して前面に描かれ、そこは原作の通りなのですが、そのウルトラマンが人間「 神永新二」の人格に徐々に取り込まれるというパターンにもなっていてこの構図が実に新しかったと思います。未知との遭遇風に描かれてもいますが、どこか人間賛歌的なんですね。そして初代ウルトラマンに帰ってきたウルトラマンの融合のパターンを混ぜて、人格面の融合はその逆の流れを行くという変則型…。


いずれにせよ、この狭間のものである「ウルトラマン」という存在は、沖縄出身で本土人でもない、沖縄人でもないというアイデンティティに内心は苦悩していたと言われるウルトラマン・ウルトラセブンのメインライター金城哲夫、また同じ沖縄出身で帰ってきたウルトラマンのメインライターを手掛けた上原正三、キリスト教徒というマイノリティと複雑な生い立ちからどこか家族的なドラマを忌避した市川森一などのかつての脚本家達の遺伝子が受け継がれている形とも言えます。これら昭和のウルトラマンに漂っていた深み・あるいは歪みのようなものはメインの脚本家たちが戦争体験世代(あるいは焼け野原世代)でもあるのと同時にどこかマイノリティで「境界線」を感じさせる人たちだからこそ描けた点だとも言えるはず。

ウルトラマンと一体化した「神永新二」は大量の読書を重ねて人類の情動を学ぶのですが、その姿は映画フェノミナンで隕石の落下を受けて超人的な記憶力と超能力を持ってしまった主人公の苦悩も描かれる「フェノミナン」あるいは悪魔の力を経た人間と言うダークヒーロー的な側面が強い「デビルマン」を思わせる所がありました。

しかし神永新二はサイコパス的な存在として、どちらかというと人間側から見た「異質な存在」という描写が強く。しかし人類のために無償で戦うのではなく、仲間である禍特対を同胞である人間が恫喝するのならこちらも恫喝で返す。また人類に関わるのも自らの好奇心からという独自の倫理観で動いており、あくまで人類とは違った種であるという「異質」な描写も徹底されています。これらが狭間のものという存在のウルトラマンの伝統に、新しい息吹を込められた感もあります。

そのうえで人類の上位存在として「マルチバース」という外宇宙の連盟(ウルトラマンエースで設定だけ出てきた「銀河連邦」を連想します)のようなものが仄めかされており、まだ未熟な人類を導く大いなる存在としてのウルトラマンという神秘性も保たれてます。

かつての科特隊がウルトラマンに頼らずに怪獣を倒す事をテーマとした「小さな英雄」「さらばウルトラマン」などの設定も終盤のメインのテーマとして立ち上がっていました。そこに昭和のウルトラマンの実質的完結編と言われているウルトラマンメビウスで、ゾフィー、そしてウルトラマンが投げかけた名セリフ「我々ウルトラマンは決して神ではない」「人間よついに自力でここまで来たな…それまでは我々が君たちの盾となろう」などを思わせるセリフもさりげなく盛り込まれています。

昭和時代のウルトラマンは沖縄出身のメインライターや創世記で熱意に溢れたクリエイターたちによるどこか反体制的な趣もあり。SFやサスペンス、ファンタジー色なども前面に出されているなか、ウルトラマン=米軍の比喩だと言われることもしばしばありました。

シン・ウルトラマンでは禍威獣は日本にしか現れない矛盾点にも切り込まれていて、米軍は強力な兵器を日本に売りつける事で利益を得て、一方で外宇宙からの侵略者のテクノロジーを独り占めし、有利に立とうとする強かな外交戦略を打つ日本というポリティカルフィクションな描写も際立っていました。ニセウルトラマンが襲うのは横田基地、これは混沌の時代にあって未だ立ち位置が定まらない日本を俯瞰的に描いたのかなとも思えます。未だシン・ゴジラ的な立ち位置をうろついている今日の日本の姿ともいえます。

続編があれば…

今回はシン・ゴジラと同じく政治劇の狂言回しとしての禍特対の側面が強かったのですが、欲を言えば庵野監督的なポリティカルフィクションや科学的考察をねじ込みながらもなんとか「ビートル」や「スパイダーショット」を放つ「戦闘服」に身を包んだより原作に寄った禍特対のシーンを見てみたかった気もします。

今回の事件によって地球はマルチバースの世界における特異点として外宇宙からの侵略に巻き込まれる恐れがあるという設定はそのまま(当時は直接的な続編とはされていなかったものの)最終話に始めて宇宙人の大々的な円盤群の襲来を受けたウルトラマンの最終回を受け、その続編では宇宙人の「侵略」が番組のメインとなる「ウルトラセブン」の物語と連なっていく事が示唆されます。その一方でウルトラマンという未知の存在と一体化した人間の苦悩、あるいはその存在を研究対象とする身勝手な人類の姿は映画「ULTRAMAN」とそれを受けての「ウルトラマンネクサス」、既に宇宙人の侵略が既知のものとされている世界をダークなトーンで描く物語として、「ULTRASEVEN X」という一連の平成作品を思わせる流れもありました。

続編的な展開があるならば、人類がウルトラマンの存在を「忘れ」ウルトラマンと戦う「禍特対」の設定は関わった人間の記憶を「消去」する事で世の秩序と自分たちの立場を守るいわば「ウルトラマンネクサス」の「ナイトレイダー」的な組織として禍特対を存続させれば「スパイダ―ショット」を放ち「戦闘服」に身を包んだ「ウルトラセブン」的な続編に発展しそうで妄想が捗ったりもします(笑)あるいはウルトラマンガイアのように科学班(禍特対)、攻撃班(自衛隊から分離した特別チーム)の対立や協調を描くとか。。

シン・ウルトラマンでの禍特対はあくまで禍威獣や外宇宙からの侵略に始めて立ち会った混乱期でもある「ウルトラQ」時代的な立ち位置だとも言えるはずで。そんなリアリティな設定とウルトラマンを融合させようとした一連の平成の作品群の流れもやっぱり真っ当に汲んでいて、そういう意味でリアリティやスタイリッシュさにも拘った「平成特撮的なベタさ」にも溢れており、ともかく安心して視聴できる作品でもありました。

もう片方の日本特撮の原点である、シン仮面ライダーにも俄然期待が湧く出来に仕上がっていました。

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