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死ぬまでにつくりたい10の本と埋名著(my名著)Epi.3 水丸さんとの約束

民藝の里めぐりを連載、最終目的地はセント・アイブス

 安西水丸さんが逝ってから、今年(2024年)3月で10年が経ちました。私が担当していたシニア女性向けライフスタイル誌『毎日が発見』の表紙を2年にわたり描いていただき、打合せにかこつけては水丸さんの事務所があった北青山界隈で、よく夕食をご一緒しました。

 表紙だけではなく、不定期の特集記事にもお付き合いいただきました。タイトルは『水丸が行く!酔眼 慧眼 目利き旅 手仕事のニッポン 現代民藝の里巡り』。柳宗悦が推進した民藝(民衆的工芸)運動にゆかりのある地を訪ね、日本中を回ったら、最終回は柳の盟友であるバーナード・リーチがイギリスのセント・アイブスに開いた窯場リーチ・ポタリーを訪ねるという壮大なプランでした。

 民藝の世界観が好きだった水丸さんと私が、酒場で盛り上がり酔った勢いから始まった企画です。雑誌ビジネスが衰退するなか、ご多分にもれず『毎日が発見』もコストダウンを強いられ、正直言ってイギリスへ行くとなったら、どうやって制作費を捻出するか、連載もスタートしていないのに、広告タイアップの皮算用をして、何年かかるかわからない旅程に夢を馳せていました。

柳宗悦の労作『手仕事の日本』が旅のバイブルだった

 このテキストタイトルに、〝埋もれた名著〟と謳っていますが、今回柳宗悦の『手仕事の日本』を取り上げるのは、いささか語弊があるかもしれません。現在もっとも普及している岩波文庫版は版を重ねているし、青空文庫でも読め、民藝好きにとっては定番中の定番ともいえます。柳が提唱した民藝運動は、日本人の美意識を形づくり、100年近く経つ現在にも影響を与え、新たなファンを増やし続けています。

 会社員時代の出張先でも、プライベートの旅先でも、『手仕事の日本』を携行し、時間を見つけては、職人たちが丹精込めてつくった日用品を置く荒物屋を覗くのが楽しみでした。柳自身、本の冒頭に〝旅行時には鞄の一隅に入れてほしい〟と記しており、私は柳の忠実な信徒といえます。柳が各地の手仕事の現状をを調査・収集したのは、日本が太平洋戦争に突入する直前の昭和15年前後で、本を書き終えたのは戦時中のことでした。岐阜の伝統工芸品である岐阜提灯を「強さの美はないが、平和を愛する心の現れがある」と考察すると、国家の言論統制機関と化した日本出版文化協会の検閲で、「平和」の文字を削除せよと命令されます。暗黒の時代が終わり、刊行にこぎつけたのは戦後のことでした。

 私にとってのバイブル『手仕事の日本』で柳が報告した民藝が、『毎日が発見』連載時で70年近くが経っており、現在どのように受け継がれているのか、それとも衰退してしまったのか、はたまた消えて跡形もないのか、それをテーマにしようと考えていました。柳の民藝に対する審美眼は、名も無き工人たちがつくりあげた陶磁器などの焼物、織物や染物、漆器などの塗物、手漉き紙、籠や箒などの荒物といった生活全般に及ぶ日用品を、ただただ〝用の美〟として讃えるのではなく、ときに辛辣に評価します。たとえば南部鉄器の項を以下に引用します。

 南部といえば誰も鉄瓶を想い起します。それほどこの仕事は盛でありました。 盛岡の町には大きな店構えが並び今も仕事を続けます。名を広めましたので随分遠くまで品物は運ばれて行きます。 従って技術も進み様々な作り方が考えられました。しかし現状を見ますと、大変見劣りがするのはその形で、これは江戸末期の弊を受けたのでありましょう。いたずらに凝って作るため形に無理が出来、美しさを殺してしまいます。もっと単純に素直に作ったら、どんなによく改まることでありましょう。浮模様を附ける場合もまたは膚を工夫する場合も、大概は度が過ぎて、これでどんなに損を招いているか知れません。ふくらかな確かりした形がどうして生れなくなったのでしょうか。名が高いだけに将来の歴史を深めたいものであります。これに反し名が少しも聞えていない田舎 の野鍛冶などでしばしば美しい伝統の品に廻り会います。私が山の町軽米で見た「ロ鍋」などは大変美しいものでありました。

『手仕事の日本』(1985年、岩波書店)

 現在でも伝統に支えられた南部鉄器は人気があります。私も鉄瓶が欲しくて最近入手しました。フィンランド人デザイナーと南部鉄器メーカーとのコラボレーションで生まれたもので、様々な商品を見比べ悩んだ末に、自分にとってのミニマルを具現化した造形に惹かれ購入しました。家具をはじめ北欧のデザインは、日本人の感性と相性が良いのか、すっかり定着した感があります。柳のいう〝いたずらに凝って作るため形に無理が出来、美しさを殺す〟が、どのようなデザインを指していたのか、いまとなっては正確にはわかりませんが、手厳しい評価です。人に愛着をもって使われることで、より輝きを増すことに美を見いだしていた柳の忌憚のない言葉が、職人たちの励みとなり、切磋琢磨することも多かったと思います。

フィンランド人デザイナーとタッグを組み生まれた南部鉄瓶

 いつか普段着を着物にしたいと思っているのですが、夏ものなら麻で仕立てたくて、以前から小千谷縮が気になっていました。そのうち男性着物専門店のオンラインショップを見てて、能登上布にも手ごろな値段のものがあり、シックな縞柄が素敵だなと惹かれました。そんなとき『手仕事の日本』をひもときます。柳は以下のように書きます。

 能登といえば鹿島郡能登部村の上布が有名であります。世に「能登上布」というのはこれであります。ごく細かい麻糸の織物で、夏の着物に悦ばれます。品のよい織物であります。しかし上布としては、小千谷のものに席を譲らねばなりますまい。 能美郡白峯 の「白山紬」の名も言い添えねばならないでしょう。 紬の仕事にはそう間違いがありま せん。

『手仕事の日本』(1985年、岩波書店)

 そうすると、当然今度は小千谷縮のページをめくります。

 私たちは北陸道の北の端の越後に達しました。また海を渡って佐渡が島を訪ねる時が来ました。 越後は信濃川のような大きな河があって、平野が広く、 農事に忙しい国であります。越後米は庄内米と覇を競うでありましょう。しかし手仕事の特色あるもの は、むしろ山間に求めねばなりません。越後が第一に誇りとしてよいのは「小千谷縮」であります。縮では十日町の「明石縮」もありますが、小千谷の上布に如くはありません。江戸時代この方実に見事な仕事を見せました。

『手仕事の日本』(1985年、岩波書店) 

 柳の揺るぎない審美眼は、ときに苛烈を極めますが、職人たちに対する尊敬の念と愛情が文章に滲み出ています。そしてあくまでも80年前の論評なので、令和のいま同じ地へ赴いたら、柳はまた別の評価をくだすかもしれません。しかし手仕事に対して真摯に向き合う姿勢は変わらないはずです。

益子、笠間、鳥取、京都と旅し、突然訪れた別れと果たせぬ夢

『毎日が発見』での不定期連載は、初回が栃木県・益子と茨城県・笠間、2回目が鳥取、そして3回目は京都を訪ねました。いずれもカメラマンの中野正貴さんに同行していただき、連綿と引き継がれてきた手仕事の現場を撮影しました。いくつか写真で振り返ってみます。

益子では、柳宗悦とともに民藝運動を主導した濱田庄司の孫・濱田友緒さんの作陶現場を取材
鳥取では、柳に共鳴し、鳥取民藝美術館を設立した吉田璋也の足跡をたどった
京都では、東寺で毎月21日に開かれる「弘法市」を覗き、柳が愛した朝鮮磁器に見入った

 中野さんから写真をお借りし眺めていたら、懐かしさがこみ上げてきました。私が「次回は、有田焼の窯元へ行きましょうか、沖縄のやちむんや芭蕉布も見たいですね」と提案すると、「イヤー、島根の出西窯も良いよ、大分の小鹿田焼はどぉ?」と水丸さん。バーのカウンターで葉巻をくわえながら答えてくれる水丸さんの横顔が、いまも思い浮かびます。

 2013年初秋、京都取材の回を掲載した直後、突如『毎日が発見』の編集長職を解かれました。表紙クリエイターとして毎年違う方を起用していたのですが、3年目も水丸さんに続行してもらうと決めていた私は、新しい表紙案をお願いしていたところでした。しかし外部から来た新編集長は表紙を変え、水丸さんの続投はかないませんでした。

水丸さんのリニューアル表紙ラフ。全6案をいただき、4コマ漫画風にしようと心に決めていました

 そして2014年春、水丸さんが逝去しました。訃報が届き、画伯の永遠の旅立ちを知った私は、全身から力が抜けていくのを感じました。自分が腕を振るえる雑誌はなくなったものの、どんなことをしてでも掲載媒体を見つけ、民藝の里めぐりを続けるつもりだったのに。

 大英帝国へ乗り込んだら、セント・アイブスへ行く途中で、しこたまウイスキーやラム酒を酌み交わしたかったですね、水丸さん!



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