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ブルターニュを想いながら聴く音楽 Héritage Des Celtes - Dan Ar Braz


はじめに

Bonjour !  みなさん、こんにちは!お元気ですか。
「1週間に1度は記事をアップしよう!」とやる気満々で目標を立てた私ですが、慌ただしい現実に流されてしまい、パソコンに向かって集中して書く時間が取れず(また、時間を作るための計画や工夫をしなかったこともあり)、下書きを書いては直している間に1ヶ月経ってしまいました。(大汗)

開始早々つまずいてしまい、できない自分にがっかりしてしまったのですが、マイペースにコツコツ書き続け、習慣化する工夫をして(継続は力なり!)、楽しく取り組もうと気を取り直しました。継続して記事を書いていらっしゃる皆さんに脱帽です!

記事を読んでくださった方、スキをしてくださった方、コメントをくださった方、フォローをしてくださった方に心から御礼申し上げます。とても励みになります。日本、世界各国、フランスやブルターニュ等で、様々な分野で活躍していらっしゃる皆様の記事を拝見させていただき、たくさんの学びと気づきを得ました。どうもありがとうございます!(私もがんばろう☺️)

まだまだnoteを積極的に使いこなせない私ですが、お菓子、料理、帽子、手作り、デザイン、DIY, 日本語教師、海外邦人、介護、子育て等のキーワードがきっかけとなり、世界中(フランスから見ると日本も世界中)のそれぞれの場所で頑張っていらっしゃる皆様の素敵なお話をリアルタイムで拝見できる恩恵とご縁に感謝です。

また、前回の記事(帽子の思い出話)がきっかけで、サラエボ在住の方からコメントをいただき、やりとりをしたら、なんと学んだ帽子教室が同じだったことが分かりびっくり!私は帽子作りを昭和から平成に切り替わる時期に学び、彼女が学んだのは昨年(令和)とのこと。帽子教室は東京、私はフランス、彼女はサラエボ在住。時間と空間を一気に超えて帽子が繋いでくれたご縁に驚くと共に、お世話になった帽子教室と思い出のパリ旅行の企画者である素敵な先生のおかげと改めて感謝しております。

そして、そして、これもひとえに発表の場、出会いの場を作ってくださったnote様のおかげと心から感謝しております。本当にありがとうございます。

1ヶ月前のフランスと今のフランス(下書きを読み直して)

さて、1ヶ月前に書いた下書きに、6月27日にパリ郊外のナンテール市で起こった警察官による少年射殺事件等に関連した暴動のニュース、7月14日のフランス革命記念日、前日13日の前夜祭(フランスの各地でダンスパーティーや花火のイベントが催され大勢の市民・観光客が訪れる)を前に、ボルヌ首相が13-14日の警備態勢を強化することを保障したこと等を書いていました。改めて先月は本当に大変だったと思い返しました。

今のフランスはバカンスモードに突入し、今日のトップニュースは「2024年パリオリンピックまであと365日!」「聖火リレーについて」の特集でした。まさに「喉元過ぎれば・・・」という感じです。

暴動がひどかった時期、ニュースでは連日大変な状況が報道されましたが、被害がなかった所ではいつもと変わらない日常生活が営まれていました。
(パラレルワールドのようなシュールな展開)

公共施設の破壊や火災、店舗の破壊や略奪等の被害に遭われた地域の復旧にはまだまだ時間がかかります。2005年のパリ郊外暴動事件が約3週間続いたことを考えると、今回は約9日間という速さで収束しましたが、ちょっとしたきっかけですぐ再燃する危険性はまだ残っています。

1994年のブルターニュ高等法院の火災

ストやデモ、暴動が年中行事のようなフランスですが、この目で目撃した、どうしても忘れられない出来事があります。

1994年2月4日、国土開発関係の公聴会出席のために当時の首相と閣僚がレンヌ市を訪問する日程に合わせ、漁業従事者のデモが行われました。ヨーロッパの市場統合による安価な冷凍魚輸入への抗議と厳しい労働・生活環境に置かれている漁業従事者への補償を求めるデモだったのですが、市の中心部でデモ隊は機動隊と衝突し、公共物やショーウィンドウの破壊等の被害(略奪はなかったと記憶しています)および多数の負傷者を出しました。

暴動が収束したと思ったその夜、機動隊とデモ隊衝突の場に隣接していた17世紀に完成したブルターニュを象徴する歴史的建造物であるブルターニュ高等法院の屋根から出火。火は瞬く間に燃え広がりました。消防隊員が緊急出動し、延焼を食い止めるため外側からの消火活動、そして、歴史的建造物である建物内部を守るために消防隊員が突入し内側からも必死の消火活動を行いました。明け方まで続いた消火活動にも関わらず、内部の大部分が木造である高等法院は石造りの壁を残してほぼ全焼。しかし、いたみは激しいものの至宝の大広間とタペストリーや天井画は守られました。

出火原因は、デモ隊と機動隊が衝突した際にいくつか打ち上げられた遭難信号用の信号弾が原因と思われ、また火災報知器の不具合や過失も重なり初期消火ができなかったという不運もありました。 

翌朝、まだ煙が燻っている焼け落ちた高等法院の周りには多くのレンヌ市民が集まり、みなさん目に涙を浮かべておりました。ブルターニュの歴史的シンボルが炎に包まれ焼け落ちてしまった悲劇は今でも忘れられません。今も思い出すと涙が出てしまいます。

違法な競争や不十分な計画により経済的危機に直面した漁業従事者の失望への理解。しかし、斧や鉄棒と共に行うデモは認められない。話し合いによる民主主義の尊重。国による十分な安全保障への配慮が得られなかったことから秩序の維持の執行は難しかった。ブルターニュ高等法院の正面の尊厳は守られており(焼け残った石造りの部分)、希望と命を呼び寄せる力を発散している。

地元紙に掲載された当時のレンヌ市長さんが市定例会で行った演説の要約(一部)です。目を潤ませながら記事を訳したことを覚えています。

(ちなみに、ブルターニュ高等法院の再建にかかる修復費用の寄付を一番最初に行ったのは国際姉妹都市の仙台市さんです。高等法院の再建・修復は10年後の2004年に終了。レンヌ市さんは2011年の東日本大震災の直後、いち早く「仙台市への復興支援基金」を立ち上げてくださいました。2012年、ブルターニュ高等法院の前で復興支援感謝の仙台雀踊りの演舞が行われました。当時のことを知る者の一人としてほんの少しだけ書かせていただきました)

94年の宵祭、レ・トンベ・ド・ラ・ニュイ - レンヌ(Les Tombées de la nuit à Rennes en 1994) と 「ケルトの遺産 (Héritage Des Celtes)」

火災から4ヶ月以上経った1994年6月末、再建・修復工事中のブルターニュ高等法院の前にある広場でレ・トンベ・ド・ラ・ニュイ(宵祭)フェスティバルのイベントの1つとして「ケルトの遺産(Héritage Des Celtes)」と題する野外コンサートが行われました。

ギターのDan Ar Braz 、ケルト音楽、ブルトン音楽の著名なアーティスト、カンペールのバガドゥ(バグパイプ、ボンバルド、ドラムで構成された楽団)が一堂に会した大規模なケルト音楽のコンサートで、伝説のコンサートです。

チケットは即完売してしまったため私はバリケードの近くでコンサートを立ち見しました。(チケットが買えなかったたくさんの人々が立ち見をしていました)

1曲目の Borders of Salt (塩の国境)を聞くとコンサートを思い出して毎回涙腺が緩んでしまうのですが、本当に素晴らしい曲です。ブルターニュの海の景色が目に浮かぶ曲でもあります。

(Dan Ar Brazの公式Youtube より 1994年のアルバム Héritage Des Celtes )

アルバム「Héritage Des Celtes」の全曲を聴くことができます。
本当に素晴らしい曲ばかりです!
他のアルバムも Dan Ar Braz 公式Youtubeにアップされています。

また時々、おすすめのブルターニュの音楽をご紹介しますね。

長くなりましたが、今のことから昔のことまで、あれこれ考え、思い出しながら、また綴っていきたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ではまた! A bientôt !


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