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「文学作品の作者あるいは作中人物に対するMBTI分析の試み」ってお遊びの範疇ですが

1 一応はプロフィール


如月青はハンドルネーム。2月(如月)生(セイ→青)という以上の意味はない。本名は生まれた時代(昭和後期)には石を投げれば当たる類で平凡極まる。「〇〇都民(東京近県のベッドタウンから都心に通勤する人々)」の子供で、自身もそうなった、半ば「高学歴ワーキングプア」覚悟で某私大の文学部(専攻は仏語仏文学)修士課程まで進んだが、博士課程の試験には落ちた。それから多少の紆余曲折があったものの、とある官庁系財団で通信政策調査研究の職を得て、20数年間それを続けている。研究者としては(悔しいことに)理論的なタイプではない。が、データを見るセンスと集めたデータの背景事情を読み取ってまとめる力はそこそこあるか、と自負している。

2 まずは動機


MBTIとは、外交(E)-内向(I)、感覚(S)-直観(N)、思考(T)-感情(F)、判断(J)-知覚(P)の4つの指標で16類型に分ける性格分類で、ネット遊びのコーナーでは20年くらい前からあった。近年また流行り出したようで、職業適性診断などにもよく使われているらしい。妥当性については色々言われているが、性格分析ツールとしては分かりやすい。
特性を職業で言えば、といった紹介ページはWEB上に多いが、分かりやすいのはこれかと思う。
16類型
分析家: 建築家(INTJ)、論理学者(INTP)、指揮官(ENTJ)、討論者(ENTP)
外交官: 提唱者(INFJ)、仲介者(INFP)、主人公(ENFJ)、運動家(ENFP)
番人:  管理者(ISTJ)、擁護者(ISFJ)、幹部(ESTJ)、領事(ESFJ)
探検家: 巨匠(ISTP)、冒険家(ISFP)起業家(ESTP)、エンターテイナー(ESFP)
出所:
https://www.16personalities.com/ja/%E6%80%A7%E6%A0%BC%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%97

というわけで、これまで読んだ文学作品の作者や登場人物の性格をこの方法で分類してみたら面白いのではないか、と思いついた。こういう類型分析の先駆としては、フランスの科学史家バシュラールの四元素分類がある。これは森羅万象を火・風・水・土の四元素に分類するギリシャ以来の伝統に則り、文学作品をその要素別にイメージ分析する文学理論。学生時代にヴァージニア・ウルフの「波」の分析論文を読んだことがある。

「MBTI分析」に「ギリシャ以来の伝統」に基づいた理論があるわけではないが、幾つかの例を扱ってみた感触では、少なくとも楽しめるゲームにはなりそうな気がした。で、2023年秋から「しゃべり過ぎる作家たちのMBTI」という題目でnoteに記事を書いてきた。今回の投稿はその再編・加筆である(文中敬称略)。出典については、2000年以降で出版元が明確なものは各説の末尾に記した。明治維新前のものは岩波文庫、その他はほぼ既刊の全集による。

3 4つの対立項の設定基準


1) E:行動原理が明確でブレがない vs I:屈折ゆえに紆余曲折を招いてしまう
歴史ものでいうと、(やや古く使い古された対比ではあるが)司馬遼太郎藤沢周平か。司馬遼太郎はともかく面白い。「播磨灘物語」のように戦国と言っても地方の小競り合いが主体の地味な設定でも、主人公が表に出る場面は必ず盛り上がるし、登場人物の性格はその時々のアクションからはっきり読み取れる。「巻措く能わず」でイキオイのまま読み切ってしまうけど、ある程度の年齢になると「ちょっとこれ、割り切りすぎ?演出過剰じゃ?」という疑問も出てくる。藤沢周平はその点、市井のプロレタリアが共感しやすい感情の機微を捉えている。劣等感をばねに努力して出世する「蝉しぐれ」の主人公も十分にいじましいし、時代へのかかわりも「巻き込まれ型」。自らビジョンを持って突き進むヒーローではない。「こういうの、分かるよね」と言いたくなる場面が所々にあって、ある意味時代を超えているのだが、登場人物の屈託が身に迫って感じられるので、鬱的な気分の時は読めないのが難。

2) S:素材を見る vs N:背景を見る
例えば目の前に一本の木材がある。「S」はそれの質感や硬度、木目の出具合を観察し、これを使ってどんな像や細工物ができるか、建築に入れるならどの部分に使えるかを考える。「N」はそれがどんな木から切りだされたものか、産地はどこか、その地域の政治経済は、それを切った人の生活環境…と連想を膨らませていく。その木の使い道を知ったら、ではどういう手段でどれくらいその木材を手に入れたら目的に適うかを思い描く。夏目漱石「夢十夜」に「現代の木には仏は埋まっていない」というセリフがあったが、漱石は「N」?骨董のコレクターのようにモノをモノとして愛でることができるのは「S」の特徴と思えるのだけど、「坊ちゃん」にはそういう気持ちが分からない、というくだりがありましたね。

3) F:感情移入したがる vs T:感情移入を避ける
この違い、うっかりするといわゆるアタマの良し悪しと混同してしまうのだが、あくまで行動原理の話であって、学校の成績や仕事のスキルとは関係ないと思う。日常生活で理屈を言いたがるか、共感を重視するかの差。

変な例だが高校の生物の授業でやったヒヨコの解剖(生体ではなかった)。「こんな可愛いひよこちゃんを殺して切るなんて」というのはもちろんF。「フライドチキンを食べる人間が何を言う。スーパーで買った鶏肉を料理するのとどこが違う」というのがT。もっとも、筆者世代まで(であることを祈るが)の女性には「戦略的F」もいるので油断はできない。女性は少なくとも人前では「T」より「F」であった方がいい、という(むしろ女性間の)価値観は理解できないのだが。

筆者の生まれた頃、曽野綾子のエッセイ「誰のために愛するか」がベストセラーになり、親の本棚にもあったのを中学生のとき盗み読みした。その中に、「知力も体力も女性は男性に負けるかもしれない。でも人を愛する心だけは女性の方が上」という主張があり、書かれた当時、多くの女性がこのフレーズに勇気を与えられたという。だが、十代の私は(今も変わらないが)、それ、「らしさの押し付け」の一種じゃないか、と感じた。たしかに人を愛する心は大きい方がいいに決まっているが、女性だから、というものではないだろう。

それでも、前回のMBTI流行時、どこかのサイトで「INF―」女性を「世界の悲しみを背負う存在」と評していて、「エヴァンゲリオン」の綾羽レイが典型とされていたのを見た時は、「やはりこのタイプは永遠の憧憬の対象であるな」と感じた。

4) J:プロット優先 vs P:場を優先
小説を書く人には「書き始める前にある程度の筋道が見えていて、それに沿った展開を心がける」Jタイプと「情景やセリフがまず浮かんできて、それを生かすストーリーやキャラを考えていく」Pタイプがあるように思う。実際に書き始めてみれば、どちらもある時点で人物が勝手に動き出し、それを追って記述するうちに自然に話が出来上がっていくということになるのだろうし、それがうまく進んだものが読者をつかむのだろう。(論文でもそうですね。一つのテーマを掘り下げていくと、ある時点で「データがしゃべりだす」。その瞬間は「Eureka!」です。たとえFactに立脚したシャカイ的論説であっても。)が、読み終わったあと、頭に残るものは、Jタイプでは全体のストーリー展開で、Pタイプでは個々の特徴的なシーンになる。 
 
ちなみに、筆者のMBTIは「INTJ」である。時々「INTP」と出ることもあるが、自分で「J」じゃないかな、と思うのは、親しい人とであっても話す前に「想定問答」を作っているところ。現実には相手が他人である限り、タマはいつも思わぬところから飛んできて、あたふたしながら軌道修正する羽目になる。だから、いつも他人と会話したあと、その展開を振り返り、「あそこはこういう言い方をしておけばプログラムどおりに話が進んだのでは?」と後知恵で悔しい思いをしている。テレビや映画を見ていても、登場人物に対して「こういう言い方もあるだろうに」という思いを抱くことがよくある。

最近の例では、2023年末から3か月間、日曜22時からNHK BSで放映していた篠田節子原作の「仮想儀礼」。真面目な公務員だった主人公がお調子者の友人の口車に乗って失業し、そこでまた懲りずに乗せられて仏教系の振興宗教の教祖になる。無論当人も乗せた友人もカネもうけが目的のインチキは承知。が教祖が変にご利益を説かず、来訪者の悩みに対して誠実に公務員的アドバイスをしてしまったりするのがかえってウケて信者が集まってくる。他の新興宗教団体の信者が押しかけて来て争いの中、教祖がそれを止めようと「仏様が涙を流している」というと祭壇の仏像(助手になった友人が作ったハリボテ)の目から涙が。もちろん人が見ていない隙に助手が水をかけたものだが、「奇跡」に驚いた人々が手を合わせてその場は収まる。
 
数日後「あんなのはインチキに決まっている」と再び押しかけて来た人々に「あなたにそう見えたのならそれは(あなたにとって)本当でしょう。人は見たいように物事を見る。それはステージの差だ」と言い放つが、これはマズイように思う。「教祖らしくない謙虚さ」が売りなのに、こういう教祖教祖した物言いをしたら霊感商法をやっている相手方と同類ではないか。自分なら…
「そこの仏が現実に涙を流すか流さないかなどどうでもいい。あれはモノに過ぎない。我々を生かし、仏性を分け与えている宇宙の法は目に見えるものではない。ただ凡人は何か目に見えるものに仮託しなければそれが感じ取れないからああいうモノを置いているだけだ。争いを恥じて涙を流したのはモノではなく仏性なのだが、自分も凡人であり、それが仏像の涙という形で見えた。誰もが自分と同じ形で仏性を感知するとは限らないから、あなたにそれが見えなくとも不思議はない」

ストーリーの展開からすれば、ここで主人公がぼろを出さなければならないからこそマズイ言い方をさせているのだけど、どうも口を出したくなる。筆者は原作を2009年の刊行後まもなく読んでいて、演技者がそのキャラをうまくつかんでいるだけになおさら。読者(視聴者)をこういう気にさせるのは作品が優れている証拠でしょう。篠田節子の作品は色々読んでいるが、これは特に秀逸だと思う。彼女のMBTIは、
・話の入り口が人間の内面より社会での立ち位置―E
・鳥や楽曲など、小道具の遣い方は巧みだが、重要視されるのはモノではなく背景事情―N
・それぞれの人物が感情より状況判断で動く-T
・プロットの立て方に無理がなく長編でも粗筋がたどりやすい-J
「ENTJ(指揮官)」でしょうか。


4 古典といえば


1)このお方は抜かせない
言わずと知れた「紫式部」。筆者も「源氏物語」は(現代語訳や解説書のレベルで)好きです。式部その人については、彼女が仕えていた彰子中宮の里帰り出産前後の藤原道長邸の人間模様を描いた「紫式部日記」を見るかぎり、「女子校的」で、「個人の感想」にもならぬ「個人の偏見」でいうと、何となく怖いイメージがある。というのも、筆者は幼年時から、「コミュ力がない」ことで人から批判された経験が多く、自分でもそのことに多大なコンプレックスを抱いているからである(INT-のマイナス要素?)。無論学生時代も今も、周囲に「女子校出身者」は何人もいる。彼女たち、おしなべて順応性が半端でなく高い。その一人の言によると、女子校というところは、ひとたび価値観を共有すれば他に代えがたい結びつきで結束するが、そこから外れた人間には徹底して厳しいところだということである。具体的にどういう行動をとればよいかというと…

・才能や美貌はあればあるほど良いが、悪目立ちしてはいけない(紫式部が清少納言を「知ったかぶり」、和泉式部を「歌は上手いが男好きで品行が悪い」とけなしている部分を思い出す)。
・実力はあるのよ、と匂わせつつも、「いやいや私なんて」と頭は低く。(「源氏物語」を書くくらいだからどんなに偉ぶっているかと思ったら、思いのほか内気でおっとりした方ね、と言われているのよ私は、と周囲の自分に対する評判を述べている部分を思い出す)。
・男にモテるのは良いが、それをひけらかしたり自分から惚れたりしてはいけない(和泉式部の項はもちろん、藤原道長がある夜部屋の前へやってきてお誘いをかけたのを「どうせお遊びでしょ」とうまくはぐらかした、という部分を思い出す。紫式部が道長を受け入れて「お手付き」の一人になった、という説もある。が、彼女はこのころもう30代後半くらいで、当時の感覚ではオバサンだったはず。向こうも同年配とはいえ、関係が出来ていたら、光源氏とその友人が、男好きの老女をその気にさせてからかう「源内侍」のエピソードは書けなかっただろうと思われる)。

このように並べてみると、控えめな振りで決して前には出ず、しかし底意地悪く人を観察した結果を物語の中に積み上げることができる紫式部のメンタルの強さに感服する。「物語を書くとストレス解消になるのよね」とご本人は言いそうだが、本当に内気でオタク気質の女性であったら、「人間関係」に触れるだけで疲れ切ってしまうだろう。「更級日記」という田舎育ちで物語好きの娘の年老いての回想録があるが、華やかな宮中に憧れて宮仕えしてみたものの、人疲れして長続きしなかった、と。

このあたりで紫式部のMBTIを考えてみよう。
・「源氏」でスパッとした人物はだいたい「やや魅力的な脇役」で、重要な役はうじうじ思い悩む場面が多いので-I
・落ちぶれた高貴な血筋の姫君の青い顔や赤い鼻を詳細に描く「末摘花」のように五感に訴える表現が上手いから-S
・男女関係が主の物語だから、情に訴える物言いをする人間が優位に立っているが、作者自身が登場人物になりきっているようには見えないので-T
・そこだけ切り離して味わえる「絵合」「梅枝」といった巻はあるものの、大河小説としての体裁は崩れないので-J
「ISTJ(管理者)」ですね。あまり「創造的」とは思われないタイプですが、息が長くかつ細部に気配りが聞いて破綻のないものを作り上げるには事務能力が大事なのかも。

2)「そは置きて再び説く」
突然何を?これ、江戸後期のベストセラー作家曲亭馬琴による大長編小説「南総里見八犬伝」で、新しい節が始まるときの決まり文句です。筆者は1970年代後半のNHK人形劇「新八犬伝」に夢中になった世代で、今に至るまで「八犬伝」ファンを続けている。原作は岩波文庫で出ている。全十巻。雑多なエピソードが錯綜していて、この人は前にどこで出てきたっけ、とかこの前に●と×が会ったのどこだったっけ、とページをめくりなおしているといつの間にか徹夜です。

粗筋紹介。舞台は室町時代中期の関東地方一円。始まりは「南総」つまり房総半島の南端の安房の国で、源氏の末裔ながら落ちぶれた里見家の当主が苦難の末安房を平定するが、途中で旧領主の側室の悪女を処刑、「孫子の代まで煩悩の犬にしてやる」と呪われる。その言葉どおり、国を手に入れる最後の段階で「敵を倒したら姫をやる」と愛犬に言ったばかりに、愛娘の伏姫が犬に嫁して山中に隠れ住む羽目になる。姫は犬と人間の間で生殖ができるはずもないのに妊娠し、訪れたかつての婚約者に身の純潔を証明しようと切腹すると、そこから白い煙が上がり、首にかけた数珠の玉が空に舞い上がる。

この数珠は姫が幼い時神から授かったもので、玉の中の八つには「仁義礼智忠信孝悌」という文字が見える。その玉はやがて関東のあちこちに落ち、そこで生まれた男児は姫の魂の息子「八犬士」として、それぞれの玉の徳を体現しつつ仲間を求めて冒険を重ねる。姫の婚約者だった青年は僧になり、要所要所で犬士を導く。やがて安房に集結した八犬士は姫の弟である現領主が、怨霊にそそのかされた幕府筋から仕掛けられた戦いに勝ち、里見家の重臣となる。

この物語、八人の主人公のキャラが際立っていて、映像にしてみたら、と想像力をかき立てられる。で、それぞれにMBTIをあてはめ、例えばTVの連続ドラマにしたら誰をキャスティングするか、ちょっと遊んでみます。
以下登場順
犬塚信乃(INFP)
「孝」の玉を持つ。父は足利氏の一族に仕えた武士であったが、戦傷で引退。信乃は遅く出来た一人息子で、男の子は病魔に魅入られやすいという俗信から、元服まで女装させられていた。が、実際は長身のスポーツマンタイプ。両親には従順で孝養を尽くしたものの十代前半で他界される。真面目で潔癖で、全編を通して一番ヒーローらしい役柄を与えられているが、一方では感じやすく脆い感じもする。:佐藤健 or 坂口健太郎
―子供のころの女装と、なんとなく保護欲をそそるところがある、というので女性的な外見で描かれる場合もあるが、原作では「女の子には見えない」と明記してある。これまでの作品では、2006年の正月ドラマの滝沢秀明が似合っていた。

犬川荘介(ISFJ)
「義」の玉を持つ。幼児の頃両親を亡くし、信乃の伯母の家で下男として育つ。信乃と出会って元は由緒ある武士の出であることを明かす。信義に篤く、非常に気が利いて心配りが丁寧だが表に立たない。一緒に仕事すると非常に頼りになるタイプ。初めは信乃、後には小文吾のサブ役を務めることが多い。;神木隆之介

犬山道節(ESTP)
「忠」の玉を持つ。裕福な地侍の息子。父とその主君の仇を討つため、修験者に扮して諸国行脚をしている。火を用いた忍術を修めており、登退場は派手。ケレン味が強くてカッコつけてるわりにはずっこけ場面も多く、人違いで事態を紛糾させることも:山田裕貴

犬養源八(ENTJ)
「信」の玉を持つ。安房の漁師の子に生まれるが、幼いころ足利幕府の関東支部の一つ古河城主の臣下の養子となる。一見陽気な正義漢であるが、冷静で状況判断に優れ、登山隊の隊長などに向くと思える。元々は古河城の捕吏。曲者と間違われた信乃と高楼で戦う「芳流閣の場」は前半の最大の見せ場の一つ。:竹内涼真

犬田小文吾(ESFJ)
「悌」の玉を持つ。宿屋の息子で、犬士の中では唯一まとも、というか市民的に育っている。また唯一同母のきょうだいを持つ。源八とは幼馴染。強力無双、「気は優しくて力持ち」だが、オツムが弱いわけではなく、暗殺や冤罪の危険は早めに察知して予防手段をとる周到さも持ち合わせている。:大沢たかお

犬江親兵衛(ENFJ)
「仁」の玉を持つ。小文吾の妹の息子、つまり甥だが、赤ん坊のときに両親が亡くなり、数日後に自身も行方不明に。実は神と化した伏姫のもとで育てられていた。実年齢で5歳くらいの時、見かけは16歳の超能力少年として登場。一気に犬士のトップに躍り出る。神の加護で何でも超一流だが、ご立派なことしか言わないのでこいつが出てくると退屈…というのが筆者の本音:菅田 将暉
―2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で見せたガキ大将的義経の元気さと無邪気さを買って。ちなみに、1983年のKADOKAWA映画「里見八犬伝」はアイドルを見せるだけで、ストーリーもキャラもめちゃめちゃに崩してあったが、当時はピカ一の若手アクションスターだった真田広之の親兵衛は光ってました。

犬坂毛野(ISTP)
「智」の玉を持つ。名門の武士の側室の子だが、父と正室、異母兄姉が政争で殺され、敵の追及を避けるため女性として育てられる。女軽業師、乞食、香具師と様々に姿を変えて仇を付け狙う。暗い育ちのせいで仲間にもなかなか心を許さないツンデレ。地頭がよく機転が利くが、学校のお勉強はしないほう、でしょう。;板垣李光人
―この役を女性が演じることもあるが、宝塚の男役を意識してか、かえって豪快になってしまい、「敵の目を欺くための女装」という意味が薄れる。2023年の大河ドラマ「どうする家康」で板垣李光人演じる井伊直政が町娘の姿で家康を襲う場面を見て「これだ!」と思った。

犬村大角(INTJ)
「礼」の玉を持つ。少年時、武芸の道場主だった父が化け猫に殺される。父になりすまして帰ってきた猫に疎まれて叔父の家で育ち、従妹と結婚。満たされない気持ちをお勉強に没頭して紛らわす秀才タイプ。源八の助けで秘密を知り化け猫を倒すが、その途中で愛妻が犠牲になり…。仲間は得てもどこか翳りが消えないところがある。:宮地 真史


5 近現代のFとT


1)迷いは尽きず、だけど
筆者は、「好きな作家は?」と問われたらまず泉鏡花と答える。「案外」が多いお方で、耽美的なイメージが先行している割には古い倫理に固執していたり、花柳界を描く作品が多いから粋かと思えば田舎の泥臭いしがらみを延々と愚痴っていたりする。が、あの装飾の多い饒舌な文体はクセになる。今回幾つか読み直してみて、また案外。一つ一つの文は長くない。会話で地口や掛詞めいたやりとりは随所にあるが、地の文は意外に引き締まっていて、意味のない形容詞が延々と連なる、ということはない。女性の着物や髪型の描写が細かいとか、強い感情を引き起こす表現を繰り返す、というのも雰囲気を醸し出すのに好適と思える。確かに「必要最小限」とは言えないが、ない方がよい、と言いたくなるフレーズはない。

鏡花のMBTIは?人当たりはよく晩年にはファンクラブもあったが、20代までは極度の人見知りで、尾崎紅葉に会いに行きたくとも行けずに何か月も同郷の友人の家に居候していた、と聞けば「I」は間違いない。若くして亡くなった美しい母を慕い続けて、なまめかしい中にも母性を宿した女性の理想美を書き続けたところをみると、繊細で理想家、憧憬の対象を追い求めてやまない「INFP」が思い浮かぶ。

たしかに「草迷宮」の母の面影を求めてさすらう青年とか、若き日の憧れの貴婦人との再会を夢見て危ない橋を渡る「由縁の女」の小説家とか、主人公にはこの型がそろっているように見える。だいたい主要人物は「F」、特にNFですね。「T」はどうも分の悪い役に割り振られがちで(「湯島詣」の「流れ星は隕石」と言う令嬢が情を解さないタカビーだとか)…。が作者本人はどうか、というとややズレを感じないでもない。

描写の圧倒的なリアリティを見ると、「N」より「S」を感じる。鏡花といえば「夢幻世界」とか「天上的」という評がお約束だが、最後にたどりつく場所はともかく、そこへ至る道のディテールは実に「写実的」で、特に美しからざるものの描写には視覚や聴覚だけでなく、嗅覚や触覚まで刺激される。鏡花の最後の長編「山海評判記」*から例をとると、幽霊らしい声が廊下の隅から何となく聞こえてくるとか、生魚が足に乗っかるとか。絶叫するとか助けを呼ぶ、というほどではないが、一瞬息が止まって声を出そうとしても出ないような状況のリアルな描き方は他の追随を許さないものと思う。

また、主要人物が「F」だから作者が「F」というのは安易すぎるような気はする。特に鏡花=職人という評価が定着しているので、「ISTP」の枠に入れたくなる。が、登場人物の書き方に作者の好悪がはっきり出ていて、情感が豊かなセリフには作者の思い入れの深さがはっきり見えるところを見るとやはり「F」。鏡花が感情移入する(そして読者に感情移入させたい)人物のパターンはだいたい決まっていて、男性であれば、主役は秀才あるいは芸に優れた20-30代。どこか翳りがあり、その翳りを理解してくれるヒロインを庇護する。ヒロインは苦しい境遇を潜り抜けて控えめながら心の奥には激しい情熱がある地味目の美人で、庇護者の青年を一途に慕う。そこに純真な少年少女、分け知りの粋なお姐さん、一本気な職人などがサポート役として絡む。筆者が特に好んでいるのは、家ではなく個人の結びつきとしての結婚を唱える「婦系図」と若く才能ある能楽師の挫折と再生を描く「歌行灯」だが、人物相関はこれにほぼあてはまる。難を言えば、両方とも出る意味のない登場人物が多すぎる。特に水商売の出と言う世間の偏見から、妻や母として認められない女性の悲劇として知られる「婦系図」。ヒロインの補佐役が二人いるが、これは一人でよい、という気がする。

プロットが荒唐無稽で、脇筋のエピソードを積み重ねていくうちに本筋が見えなくなり、ただ不思議な気分に引きずられるままOpen Endedで終わる、というものも少なくはないところを見ると「P」は疑えない。ストーリーに整合性を求めるのはJの特徴で、物語に結末がついたところではなく、書き手のエネルギーが尽きたところで筆を止めるのがPだとすれば。鏡花という人は書く対象と距離をとって遠近法を用いるということをしない、対象への思い入れを隠さず、頭の中の対象にひきずられるままに書いている、と思わせる。

またも「山海評判記」から。前半に出てくる美女の幽霊?が全体を貫く要の存在であろう、と期待させるのだが、その章が終わってからストーリーを動かす役割を負うこともなく。「あれは何だったのだろう?」と最後まで疑問を持たせたまま。この小説は鏡花の中でも特に展開が分かりにくい。ある文筆家(40歳前後?)が能登を旅行しているのだが、彼が出会う色々なエピソードの間に連関が感じられず、後半から出てくるヒロインの位置づけも不明確。主人公妻の親友の娘で少女時代から姪のような扱いを受けている、というが26、7と年齢が近すぎる。恋愛関係には入っていないようだが、20代後半の女性が妻の了解もないままだらだらと「叔父」の旅行について行く理由も不明である。読者としては、読み終わった後で、なぜこんな風に話が拡散したままなのかが分からない。

こちらがトシ食って、日々出会う現実というのはその時々で変動する定めなきもので、「整合性」は結局後付けに過ぎない、という経験を重ねてみると、鏡花のような書き方がかえって世の現実を写しているのかも、と思えなくもないのだけれど。

総合すると「ISFP」。「冒険家」という分類表現は臆病で神経質だったという作家本人にはふさわしくないように見えるが、芸術家として、ひととおりの完成度というレヴェルに収まらず、「ヴァーチャルな背景の上のリアル描写」を一途に突き詰めていく姿勢は前人未到の峰を目指す登山家に通じるものがある、としよう。

*国書刊行館より2014年に発売の「初稿」を参照

2)淋しさに負けた…
鏡花と並んで「T/F」で迷うのが三島由紀夫。頭脳明晰で、哲学的な対話を好むから「T」っぽいのだけど、多くの作品で、明らかに美青年への愛着が見られる点、鏡花の美女愛好と通じるものがある。三島が本来の意味でゲイだったか、腐女子的BL趣味だったのかについてはいまだに定説が立っていないようである。が、恋愛や結婚の対象は異性であっても、真の心の絆は同性間にしかない、と男/女子校的友愛を何より大切にする「ホモソーシャル」だったのは間違いないと思われる。

筆者は三島の作品では、世評が良くなかったという「鏡子の家(1959年)」が気に入っている。30代?と思しき美しい上流婦人のサロンに集う4人の青年の有為転変がストーリーの中心だが、彼らの人生観を「壁」への向き合い方で示す印象的なエピソード。「壁を打ち破る」―体育会系ボクサー、「壁を鏡として自分を映す」―俳優の卵のナルシスト、「壁に絵を描く」―少年時から天才と評される日本画家、「自分が壁に化す」―冷静沈着なエリートサラリーマン。それぞれが三島の一面ではあろうが、4人の挫折経験を描いた後、画家がスランプを抜けて「芸術家」の自覚を新たにするところで物語を終えているところ、30代の三島はまだ美を生み出す存在としての自身に希望を抱いていたのだろう。そう思うと、40歳以降の彼の在り様が残念になる。

「鏡子の家」の登場人物の中で、筆者は「壁になる」サラリーマンが好きである。誰にでも優しいように見えて実は誰も信じていない冷たさ、というか周囲をすべて突っ放して観察者に徹している姿勢が好もしい。常に自他の距離を測るツールとしての言葉を使う文学の徒の自覚としては、他者の存在を気にしなくてよい画家よりもこちらのほうがふさわしく思える。

個人的に三島の作品の中で(全部読んだわけではないが)ベストスリーと思っているのは、「禁色(1954年)」、前述の「鏡子の家」、「豊穣の海4部作(1965~1970年)」である。この3作ではペダンティスムにあふれた観念的な言辞がうるさいほど飛び交う。しかしストーリーは波乱に満ちて無類に面白い。筆者がこれらの作品についてもう一つ感じているのは、物語の舞台の設定者で、本来ならば陰で主要人物を観察しつつ操る存在が、主要人物に感情移入して舞台上に出てしまうことで物語が壊れる、というところ。「鏡子の家」ではすでに舞台がバラバラになったところで演出者の鏡子が「画家」にエールを送ることで自ら幕を引く、という設定なのであまり破綻を感じない(から好きなのかもしれない)。一方で「禁色」は人形遣い役であるはずの老作家が人形役の美青年に魅かれて矮小化し自滅する。

「豊穣の海」は輪廻の物語だが、全編を通しての観察者であるはずの弁護士が第四部で主人公の人生に介入したために輪廻の環が切れ、主人公も弁護士も舞台の外に放り出されて卑小な生を生き続けることになる。小説としての上手さでは、これが三島の最高峰のように思える。「禁色」や「鏡子の家」では、若い登場人物の会話がやたらと博識だったり思弁的だったりで、中身がないと説明されている人物まで秀才ぶった物言いをする点に違和感がある。「豊穣の海」は、4人の主人公が(言っちゃ悪いが)年齢相応におバカで衝動的なところにリアリティがあって読みやすい。知能が非常に高いとされている第4部の主人公もあまりアタマがよさそうに見えない。

さて、筆者がこれらの作品を読み、三島本人の性格について、どうも「F」寄りかなあ、と考える根拠をまとめると、彼の大作には、作者に愛される美青年がいて、「舞台に上がるのではなく演出する側の立場に立たねば」という意志を保とうとしながら、その青年への感情移入によって舞台に上がってしまう人物がいる。この人物は必ずしも作者に優遇されてはいないのだが、三島自身の願望を体現しているように感じられる。

ここでふと司馬遼太郎「燃えよ剣(1962-1964年)」で主人公の土方歳三に恋人が言った「行動で詩を描く」という句を思い出す。三島は晩年陽明学に傾倒したところから見ても、この言い方が好きだろうな、と。「詩は言葉で書く」というのはフランスの詩人マラルメの言であるが、誰よりも巧みにレトリックを操る才能を持ちながら、言葉で書けない「詩」を演じたいというナルシシズムが彼の悲劇の原点だったのだろう。

右翼団体の結成も政治的な理由というより、ナルシシズムの共有相手が欲しかったということではないか?社交の場でもてはやされるとか、家族と仲がいいとか、そういう現世の幸せは十分にある。が、小説を書くという立場は自己を他者と峻別して孤独の中でバーチャルな城を築かねばならない。三島はその苦しさを映画出演や写真集の出版といったパフォーマンスで紛らわそうとしたのだけれど、それも一時の遊びにしか過ぎず、「思想信条を共有したうえでの生死を超越した結びつき」に同意してくれる者と「行動での詩」を書くという逸脱(思想はともかく小説家としては)に走ってしまった。世評が高い「憂国(1961年)」では、妻が夫に殉死するが、彼らの間に性愛はあっても、妻という立場にいる人間には、2・26事件で倒れた同僚に寄せる夫の思いを共有するのは無理であろうから、この作品では、作者が求めていた魂のつながりは描けなかったのではないかと思ってしまう。結局「エロスとタナトスの戯れ」で美学的処理をするしかなかったというところで、作品の出来はともかく、三島自身にとっては何となくもどかしさの残るものだったのではないだろうか。

で、一応三島を「F」としてその性格分類を考えてみると、
・(内省は十分すぎるほどあるが)人に見られたくてたまらない-E
・モノを事細かに描写するより観念的な説明表現を多用する-N
・アタマは良いが結局は心情的な共感を求める-F
・長さにかかわらずどの作品もプロットに破綻がないから-J

「ENFJ-主人公」、といえば地下の三島も満足するかも。

3) TPの心地よい距離感
鏡花と三島という濃厚な「F」の後で、「T」の典型は?と考えてみたら、橋本治がまず思い浮かんだ。彼の小説は数冊(しかも初期の代表作「桃尻娘」シリーズは未読)しか読んでいなくておこがましいが。明治後期の大ベストセラー「金色夜叉」を下敷きにした「黄金夜会」*を例にとると(以下ネタバレあり)、登場人物に善悪や賢愚の区別はあるが、作者が誰かに肩入れして、読者がおのずと感情移入するように持って行く、というところは見られない。心情の描き方はどの人物でも平等、というか脇役のほうが丁寧なときもある。主人公の特徴は、時に基本設定を外れて理屈をこねだすこと。「金色夜叉」の主人公は感情の起伏が激しい衝動的な人間であり、「黄金夜会」の主人公も元ネタに従ってしばしば衝動的な行動をとる。しかし、それが本質的な行動原理であるようには書かれていない。「あの時自分がどうしてあんな行動をとってしまったか」をいつまでも考え込み、「お前は考え過ぎなんだよ」と雇用先の親切な主人に言われたりする。なぜ大学を辞めたか、と人に聞かれたときも、とりあえず「親が死んだから(実は主人公の両親は彼がまだ幼いころに亡くなっており、引き取られた家の娘と恋愛・婚約したが裏切られたため)」と言っているが、それで人が納得してしまうのはなぜか、親が死んだから大学を辞めなければならないというものでもないだろう、と考え込む(「親の借金を払ったら一文無しになった」といったその先を聞きたいけれど、詮索するのはかわいそうだ、という相手の思いやりには気づかずに)。

また、最後に近くなって起業するときにスポンサーになった女性との関係はビジネスライクに徹する。この女性は主人公に暗黙ながら情事を持ちかけていて、F型ならばそれにうっかり応えてしまうか表面は知らない振りでも大いに悩むところだが、はっきりと「ビジネス以外の相手ではない」と割り切っている。最後は、「T」であるはずの自分が夫の変態趣味に悩むかつての婚約者と肉食系年増のスポンサーという(元ネタが明治だから仕方ないが)共にステレオタイプF女性の板挟みになって衝動に身を任せる羽目になるのだが。

一方で、筆者が読んだ限り、橋本の小説は、ディテールは素晴らしいのにそれがストーリーの流れと合っていない点、「P」の典型である。「黄金夜会」は、元のストーリーに沿っているから比較的まとまりのよい方なのだが、これにも時々唐突に本筋とまるで関係のないエピソードが出て、何かの伏線か、と思っていると前後の脈絡がないままに消えてしまう。主人公は、大学を辞めてしまったということになっている。が、実は単位取得は出来ていて、卒業証書を取りに来なかっただけ、ということが友人間の会話で明らかになる。このエピソードは後に主人公の境遇に変化をもたらしそうに見えるのだが、最後まで使われず、主人公は大学中退と本人も周囲も思い込んだままで話が進んでいく、など。

個人的には、橋本の作品は評論のほうが面白い。特に源氏物語を解説して、ある部分の短い文に反映されている当時の時代的背景を解き明かしつつ登場人物の価値観や心情を推し量る「源氏供養」**は愛読書の一つである。この「背景の探索の上手さ」は「N」でしょう。E/Iは迷うところだが、論題の立て方が挑発的(「三島由紀夫とはなにものだったのか」**中で、「同性愛を書かない作家」という章を立て、三島由紀夫はゲイ趣味があった、という通説への反論か?と思わせるとか)で論争を好みそうだから「E」としよう。「ENTP(討論者)」がよさそうに思う。

もう一人、「TP」型の典型を挙げておきたい。1981年のカドカワ映画「スローなブギにしてくれ」の原作者である片岡義男である。このヒットを受けてか、1980年代前半には彼の作品が多数角川文庫で出ていたように思う。筆者はそのころはまだ大勢に流されることを嫌う中2病の盛りで、流行ものは避けて通るべきと決めつけていた。

が、数年前から片岡の近年の作品と出会い、小説ともエッセイともつかないその独特の語り方に感服している。文房具とかcoffeeとか、モノに対するこだわりが強く、気に入ったモノについては、その詳細を細かに描写する。がベタつかないのですよね。鏡花のようにモノに直接触れているように感じ、良きにつけ悪しきにつけ、その質感が激しい感情を呼び起こす、ということはない。他人のアルバムをめくるように、その時々のエピソードは十分に味わいつつ、気分は冷めている。ヒトに対しても態度は同じ。内面に立ち入らず、立ち居振る舞いですべてを語らせるその筆力には感服するばかりである。この距離感、絶妙です。まさに職人技。MBTIは「ISTP-巨匠」でしょう。

*2017年から2018年に読売新聞に連載 **新潮文庫、2005年

4) 「Fの呪縛」を断ち切って
近頃ネット上の女性向けコミックエッセイで、何かというと「食わせてやっている」というモラハラ夫批判が頻繁に出ている。家事を労働にカウントせず、「家族への愛情表現」「生活費をもらうことに対する感謝」とする偏見に満ち満ちているのが気持ち悪い。中にはダメ夫より仕事ができてしっかり稼いでいる妻が、「お前のような女はオレに奉仕する以外に価値がない」「仕事が忙しいといって家事育児をおろそかにしていいと思っているのか」というマインドコントロールからなかなか自由になれない例もあり、「Fの呪縛」は女性にとってまことに根の深い問題だ、と恐ろしくさえ感じる。筆者世代は早ければ既にこういうコミックで舅姑になっているトシで、例えば夫がモラハラだった場合、法的、あるいは心理学的な根拠をあげて反論すると周りの反感を買う、「頑張ってはいるんだけど、私の尽くし方が足りないのかしら」と涙したほうがむしろ「いや、あいつの方がわがままなんだよ」と同情してもらえる、という通念の刷り込みを受けて育った女性が多い。その中には娘に同じ教育をしてきた方々も?

家事を巡るこのもやもやを一刀両断してくれるのが、「主婦を希望する」女性は婚姻時に
家族関係とは別に雇用契約として夫と「主婦契約」を結び、労働の対価として「家計費」を受け取る、というコラムニスト酒井順子の提案する「夫婦間主婦契約」ですね。「主婦契約」がなければ外で働かねばならないが、そうであればこれも婚姻時に家事分担を話し合って決めるか、金銭的に余裕があれば外注もよし。筆者は彼女と同世代だが、著作を読むたびに「女子校的」だなあ、とややヘキエキしつつ、「女子的」感性を前面に出して油断させたところで容赦なく人を斬る「戦略的F」の手腕に感服する。中年が近づいても結婚「できない」女性の悩みを描いたかに見える大ベストセラー「負け犬の遠吠え」*も、読んでいるうちに彼女たちが家族に縛られない自由を謳歌している姿が羨ましく見えてくる。
彼女のMBTIは、
・インタビュー等に積極的に出かける社交家-E、
・「モノ欲しい女」**等、モノについて語るのが好き-S、
・対象に感情移入せず客観視に優れている-T、
「J/P」は迷うところだけれど、「負け犬」関連の著作では、インタビュー結果をそつなくまとめて類型化しているから「J」かな。「ESTJ(幹部)」ですね。会社に勤めたとしたら、人間関係の掌握が上手で、バランス感覚で評価を得るタイプと思える。

「女性だから家庭的と決めつけない」というのは、坂口安吾が昭和20年代に言ってますね。共働きがしたい奥さんがいれば働いてもらって、そのお金で家事を外注して家族の時間をゆったり過ごせるようにすればよい、と。先日、中学時代に愛読書だった私小説集「暗い青春・魔の退屈」(角川文庫)が復刊したのを見つけたのは嬉しかった。安吾の小説は「下手だなあ」と思うこと多々なのだが、「尽くす代わりに家内の実権を握る」タイプの伝統的主婦が嫌いで、「女王様」タイプの女性を描くと光るあたり、外見のマッチョぶりとは逆に「隠れM(マゾ)」だったかも。平安後期の武骨で不器用な盗賊が残酷な美女に振り回される顛末をどこかノスタルジックな筆致で物語る「桜の森の満開の下」は傑作と思う。

安吾のMBTIは、
友人や編集者には親切で気前がよかったらしいが、「交際嫌い」と自称していて、大勢に囲まれたいタイプではない-I、
細かい描写はせずにアイディアで勝負-N、
きっぱりと合理主義。情が浅い訳ではないが、「理屈じゃないんだよ、察してよ」という甘えがないのがよろしい-T、
プロットがしっかりした長編を残していない。売れる売れないにかかわらず全時期を通して良いものは短編-P
「INTP(論理学者)」が、一冊だけとはいえ優れたミステリ「不連続殺人事件」を残しているところからも妥当なところでしょう。

*講談社、2003年、**集英社、2000年


6 硬派なおフランス


外国の例についても見てみよう、と学生時代の専攻であったフランスの19-20世紀前半のいわゆる「象徴派」詩人について考えてみる。世間一般の通年とは多少異なるかもしれない。

一昔前の女性が抱いていたような、おしゃれで優柔な「おフランス」はファッションブランドの宣伝の成果である。ラグジュアリーは17世紀以来の「国家事業」で、幻想に高値を付ける手腕には年季が入っている。が、そういった演出の華やかさを支えているのが「計算高さ」であることを忘れてはいけない。筆者は仕事でフランス語圏の法律や政策文書を毎日のようにひっくり返しているが、特筆すべきは「数字好き」である。統計は定期的にきちんと出す。(本場フランスだけでなく、旧フランス領のアフリカ諸国でもその慣行が浸透している!)まことに有難い。その一方では、お役所の報告書が半分くらい数式だったりする。その部分は分からないから飛ばし、結論部分に直行して概要をつかんだ後に周辺資料をあれこれ見て、「結局はこういうこと」となんとか理解するのだが、学生時代もっと数字を扱う講座に出ておくのだったと後悔しきりである。

前振りはともかく、「象徴派」のBig Nameといわれる5人の名前と作品*に関する定説を時代順に抜き出してみるとこんなところだろうか。
ボードレール: 退廃的な唯美主義を気取る自意識過剰ダンディ
ヴェルレーヌ: 柔弱、優雅、メロディアス
ランボー: Enfant Terrible**
マラルメ: 端正な紳士とアヴァンギャルドの両極端
ヴァレリー: 擬古的な衣からモダニズムをのぞかせる知性派

「詩」というジャンルに対し、いわゆる「ポエム」のイメージを持つ人も多いから、詩人には一見「F」タイプが多そうに見えるのだけれど、「言語化」という作業に極めて意識的であったこの5人はいずれも、「INT―」であるように思える。誰がJで誰がPかは迷うのだけれど、初めの3人にはアヘンやアルコールの耽溺があって、薬物依存に陥りやすいと言われる「INTP」、後の2人は外見上はまともな市民であったから消去法で「INTJ」かな?

「INT―」の根拠としては、この5人の代表的な詩にはいずれも「Cogito」が感じられるから、としておこう。「Cogito」は17世紀の哲学者デカルトの「我思う。故に我あり(物理的な自己を含む外界の存在は疑えても、今ここでそれを考えている私の存在は疑えない)」のラテン語形。冷静さとか客観性、あるいは三人称小説における「神の視点」とも違う「書いている自分を意識している自分」といえばよいだろうか。書き様は違っても、彼らはつねに自己の存在につきまとい、意識に浮かび上がってくる「Cogito」をもてあまし、そのありようをどのような情景に仮託し、どう言語化すればよいのか、を常に考え続けていた。

例えばボードレールの散文詩集「パリの憂鬱」にある「この世のほかならどこへでも」。ふさぎ込む語り手が様々な旅行先を提示され、行きたいのはこの世のほか、と叫ぶ。自分がこの世でどういった状況に置かれているかは関係ない、自分が自分であるというそのことに苛立つ気分。またはランボーの「Illumination」の自分が自分であることを忘れる「陶酔」の希求。

極めて情感が豊かで、5人の中では一番花鳥風月を好むヴェルレーヌにも、よく知られている「巷に雨の降る如く(「秋の日のヴィオロンのため息の」と並ぶ上田敏の名訳がありますね)」に「愛も憎しみもないのに、何のためにか分からないこの胸の痛みが一番辛い」という意の句があったりする。

マラルメ、は難しい。筆者はその詩が極めて好きなのだけれど、いわゆる「ポストモダン」にもてはやされたおかげで手が届かなくなってしまった。筆者は単純にデカルトの徒で、「Ce qui n’est pas clair,n’est pas français(What is not clear, isn’t French language)」故にフランス語を愛する者である。学生時代は「ポストモダン」の全盛期であったが、アイディアはともかく、著者が何の意図でその著作を出したのか、どういう筋道で結論にたどり着くのかが全然分からなかった。今でも分からない。現役の科学者がポストモダン的文体で科学用語を濫用した偽論文を現代思想系雑誌に投稿、受理されたことでその「unclear」さを明らかにした「ソーカル事件」を知ったときは心密かに拍手した。

脱線が過ぎました。マラルメについては、ヴェルレーヌ同様、優雅な雰囲気を大事にしているが、ヴェルレーヌより硬質に感じられるのは、女性を主人公にした詩のなかで、語られる女性がはっきりとした自我を持っており、作者のCogitoが他者のCogito の存在を意識しているからではないか、と言うにとどめよう。

ヴァレリー。これは筆者の卒・修論の題材です。そのころはエッセイを主に扱ったが、中年も過ぎかけてみると、彼の集大成は40代の詩集「魅惑(Charme)」であって、若書きのコントはその助走、亡くなるまでの膨大なメモや論文はその解説であるような気がする。結局のところ、彼がその数多い著作で示したのは、「エロス」の原義が「知(を求める行為)」であるとおり、主知主義は官能的な快楽と重なり合う、ということではないかと思う。そのエッセンスは、「創世記」の誘惑の蛇を描いたやや長めの詩「蛇の素描」。今の筆者にはヴァレリーの70年余りの生涯はこのためにあった、とさえ思われる。

*出典は主にGallimard社nrfシリーズのペーパーバックを参照した。
**訳語は「恐るべき子供」。20世紀の詩人・劇作家のコクトーの小説(映画もあり)「恐るべき子供たち」から来た言葉ですが、小説の内容とは関係なく「破壊的なセンスを持つ天才児」の意味で使われる。





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