水晶の瞳

私が言葉を書くときに目指すもの。
それが、「水晶の瞳に映したよう」な、淡々とした、温度のない、透明な文章。
ある古生物の眼は水晶でできた複眼だった、と聞いたことがあり、それ以来こう表現しています。

私の存在は間違いなく有機物。生き物であり、この身を切れば赤い血が流れる。痛みも苦しみも感じることができる。
しかし、水晶でできた瞳は、無機物。冷たくて、血の通ったものではない。あるものをあるがままに映すだけの存在。そこに浮かぶ感情さえ、捉えるだけ、映すだけ。
複眼だから、広角には映るけれど、鮮明ではない。感情も、人間味も、一歩引いた場所から俯瞰で眺めるような。
そんな淡々とした表現が好きで、自分のものにしたいと思っています。

私自身、現実を切り離したような感覚や考え方があって。
感情などはリアルタイムの現実ではなく、この身に起きていることでさえ、無機質な透明な板を一枚挟んで眺めるような。
…現実なのに、色褪せて見えるくらい。
この身体と、私という意識は別物で、違った場所にあるような感覚。
誰かに声を掛けられている、感情を向けられている存在は、私の肉体であって、本当の私、私の本質は別に存在しているような。
…相変わらず上手く言語化できないけれど。

でも、これは確かに私の感覚。
いつかの出来事を思い出す時のような。
冬に思い浮かべる春の日のような。
レースのカーテンを挟んだ夏の陽射しのような。
暖かくて、穏やかで。時間から切り離された、記憶の中にいるような感覚。
現実味はないけれど、色褪せた、白昼夢のような風景は、とても美しいものだから。
…それを、その感覚を、上手く人に伝えたいと思ったのが、私が文章を書き始めたきっかけ。

現実と感覚を、心と身体を、切り離す。時の流れから身を引く。理屈と感情を分けるのに近いとは思うけれど、もう一歩離れて、詳細に他人の感情を説明する。当事者と、傍観者の間の存在。

切り離す感覚も、ずっと続くものというわけでもないから、薄れてしまいもする。未だに上手く表現できてはいないし、この感覚が私の言葉で伝わっているかも分からない。自信もないし、書いていて不安になることもある。
それでも、ここには読んでくれる人がいるし、私の書く文章を「透き通るよう」、「透明感がある」と言ってくれた人がいる。
自分の望むものが、望む形で伝わっているかは分からないけれど。でも、人に何かを伝える言葉が書けたのだ、と前向きに捉えたいと思います。
…自分の言葉を手に入れるため、これからも研究を重ね、研鑽を積んでいきます。





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