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荒川放水路

北区 岩淵水門 
ここから始まる隅田川

2024.4.22
夏日になった先日,いつもの散歩会に参加して北区の商店街や昭和のマンモス団地がURの大規模団地に変貌している姿などを見て歩き,最終地点岩淵水門にたどり着きました。

右上が
隅田川と荒川の分岐点と岩淵水門

江戸時代から洪水に見舞われた隅田川。
明治43年の大洪水をきっかけに翌年から着手され昭和5年に完成した放水路。
え、隅田川は荒川だった?荒川は隅田川だった?以前からこのへんがよく理解してなかったのです。
要は、 岩淵水門から東京湾までの荒川は人工川なんですよね。これが荒川放水路。
放水路が造られる以前は1本の川だったということですよね。
だから 隅田川はこの岩淵水門から始まる。
私は足立区民なので荒川は馴染みある川なのですが、いつも見ている荒川は放水路ということなのですね。

荒川下流河川事務所
荒川放水路変遷誌より
荒川下流河川事務所
荒川放水路の基礎知識より

岩淵水門は赤水門が最初に出来、その後青水門にとって変わります。
ここが隅田川の始まりと知るとちょっと感動しました。

旧岩淵水門
(赤水門)

この赤水門を渡れば小さな島になっている緑地。

対岸には川口市のタワマンが見えます。島の端から見てみると、青水門から先が隅田川、左手の先が荒川放水路。
それにしても、川の流れに身をまかせではないけど(^.^)、春風そよぐ緑地は気持ちよかった。20000歩近く歩いて汗かいての川は眺めているだけで心地よい。今がいい季節だと思わせるそんな瞬間でした。

永井荷風「放水路」を思う

荒川放水路と聞くと やはり「放水路」を書いた永井荷風を思わずにはいられないのです。
散歩会の翌日 読み直してみました。

大正12年 6月小名木川を乗り合いモーター船で浦安まで遊びに行った時に荒川放水路を渡りその葦や荻繁る風景に心奪われています。

今日見たりし放水路堤防の風景は恰も二十年前の墨堤に似たり

「放水路」より抜粋
「荷風と東京」『断腸亭日乗』私註
川本三郎著 「放水路の発見」より

堀割を船がまだ行き交う頃なのですね。
浦安は荒川放水路の河口近く。初めて知った放水路の風景。このあたりにも隅田川を意識したんですね。
それからしばらく遠のいていた放水路を昭和6、7年によく歩いてます。50歳を過ぎた荷風散人の健脚ぶりは衰えを知らない(^_^;)

墨東の風情もさることながら江東地区も工業地になり趣の変わった風景に寂しさを感じながらも、砂町あたりの工場地帯の煙突という新しい人工物さえ哀惜の風情として惹かれています。

「荷風と東京」』断腸亭日乗』私註
川本三郎著  「放水路の発見」より

昭和7年1月12日の「断腸亭日乗」には以下の文。

千住大橋を渡り舊街道を東に折れ堤に沿いて堀切橋に至る、古蘆の景色を見むとて放水路の堤上を歩み行くに、日は早くも暮れて黄昏の月中空に輝き出でたり、陰暦十二月の十五夜なるべし、古蘆の茂り梢まばらなる間の水たまりに、圓き月の影盃を浮かべたるが如しうつりさま繪にもかゝれぬ眺めなり

「荷風と東京」川本三郎著より抜粋

読み返していると、永井荷風の文章はやはりいいですね。
荒涼とした景色も美に変えてしまう。

放水路は明治44年から昭和5年にかけて造られたのは先に述べましたが、大正12年に荷風さんがボートで渡った時にはできていた?
ちょっと疑問。橋などを造る前にすでに流水していたのかもしれません。

 荒川放水路の最高責任者

さて、岩淵水門に話をを戻します。
岩淵水門を造り荒川放水路開削事業は、のべ310万人の労働者による汗と涙の結晶ですが、その事業に貢献したのが青山士(あきら)という人物。
この方はパナマ運河の大事業に取り組んだ方だと資料で知りました。
また深めて知ると面白そうです。

荒川知水資料館に設置されている
資料など

荒川、 隅田川と何気なく通ったり見たりしている川の 歴史のほんの一部を知り、またあらためて永井荷風の追憶風景を紐解けて、いい時間をもったなと感じた次第です。

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  #創作大賞2024   #エッセイ部門








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