就職活動について

お久しぶりです。某ナナシです。


夏のインターンについて


夏のインターンも終わりに近づいています。私は今夏、企業見学2件・インターン(one dayのもの)に3件しか行きませんでした。このままでヤバイという不安が非常に強いです。しかし、今年の夏休みは就職活動を行えないほど忙しかったのも事実です。なんせ集中講義が3つも被っていたのだから。自分の計画力の無さに失笑してしまいます。失笑するのと同時にこの失笑とはとてもよろしくないものではないかと考えました。
それは自分に対しての失笑は自分への自信の無さを無意識化でも認めてしまっていることだと。自分の世界をもろに出して読者を置いてけぼりにしてしまうのはよろしくないので丁寧に書きたいと思います。よろしくないというのは駄文ということです。そして自分の中で直感的にしか理解できていないので、それは考えとしてあまりよろしくないので、この場をお借りして自分の気持ちを整理させていただきたいと思います。

自分への失笑への考察


自分への失笑がなぜ自信のなさを表すのか。失笑というのは狙って出せるものではないからです。自己・他者への軽蔑が思わず出てしまうものを失笑と呼ぶので自然に出てきた自分への失笑というのは、自信喪失状態にならなければできないと考えたためです。
このように考えるとこの失笑は本当に「自分に対して行っているのか」という疑問が湧きます。その失笑というのは「忙しい」という言葉に対して使われた言葉である可能性も出てきます。また忙しすぎて嫌な人を思い出し、その人を軽蔑することで心の安定を図ることが無意識化で起こっていたのかもしれません。このような疑問が湧くと思います。

反論

これに対して反論します。自分の気持ちすら疑っていては自分に対してのセルフケアができないのではないでしょうか。これは自分の考えを信じることができない人間が、自分を労ることができるのかということです。
この自分を労ることができない状態を放置すればさらに自信喪失状態になりますので、きちんと自分のセルフケアをすることが大切ではないでしょうか。
この自分のセルフケアを行うことが自信喪失に繋がる理由ですが、自信というものは努力することによってしか維持することができないからです。
これはどういうことかというと、地位や名誉を努力して手に入れたとしても自分の自信を育む努力をしなければということです。
もちろん、実績は自分の人生をより豊かにすることでしょう。そして、実績や能力は人を魅了します。しかし、いくらこれを身につけたとしても自信がつくことは一向にないのではないでしょうか。
そのために必要なことが自分の努力や、苦労を誉めてあげるという行為なのです。これは行き過ぎれば自己憐憫を生み出しますが、ちょうど良いものであれば自らの自信を育む良薬になります。これらのことを意識して自分に対して自信をつけていく必要があるのではないでしょうか。もちろん、それは難しいことかもしれませんが、早いうちからこれらのことを完了させておくと後々の人生がかなり楽になるのだと信じています。少々、脱線気味になってしまいましたが、自分に対して失笑してしまったときには、立ち止まって自分はよく頑張っているという言葉をかけることの大切さについて説きました。
文章能力は壊滅的ですが、ご容赦ください。

さらなる蒸し返し

とここまで書いたが、私はこんな簡単に全てを終わらせるつもりは毛頭ない。むしろここからが私の理論展開だ。
先程自信をつけることの大切さについて述べたが、あれは嘘かもしれない。そもそも自信というのは勘違いに過ぎないのではないだろうか。
私たちは余程気が狂っていない限り、自分を愛している。(先程の論理展開で行くと私が狂ってしまったために自分に失笑してしまったことになるが)
それにも関わらず、自分を褒めまくるのというのはどうなのだろうか。既に自分を可愛がっているのにさらに自分を可愛がるのかということである。つまり、自分を褒めるということはやはり不要なのではないかという疑問である。次の文章ではこれについて明らかにしたい。



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