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【シリーズ「悪手、喝采」】第1回 起源、「悪に成る」

はじめに

久々に「悪手、喝采」を読み返してみた。じっくり読んだわけではない。ふんわり文字を目で撫でる程度の読み返しである。
いつかあの超大作についても吐露しなくちゃいけないなと思う。
そこで思ったこと。
これは「悪手、喝采」に直接かかる話というよりかはイメージの話になりそうだ。
そもそもこのnoteをご覧の方々のうち果たしてどれほどの方がその作品———「悪手、喝采」についてご存知なのか。ここまで知らない話ばかりして申し訳ないし、何に着けても悪手の話を引き合いにしてしまって申し訳ない。自分には他にもたくさん作品があるが自分の好みドンピシャなのが現状あれなもんで、とどのつまり自分の好きな作品について語りたいだけなんですけれども。
おそらくここからしばらく続く一連の記事はそんな「悪手、喝采」のことを振り返っていくnoteになりそうだ。



「悪手、喝采」作品あらすじ


ひとまずあらすじを載せましょうね。


悪手、喝采(あくしゅ、かっさい)

原案 宇治拾遺物語「絵仏師良秀」
芥川龍之介「地獄変」
オスカー・ワイルド「サロメ」「ドリアン・グレイの肖像」
作 野口萌花

【あらすじ】
時は明治末。あるいは、大正、昭和。時代の間。文化の過渡期。
作家・芥子川ヨウシウ(かしがわ・ようしゅう)は日々穏やかな小説を書き、飼い猫の尻に敷かれて暮らしている。しかし担当・小林芙美子(こばやし・ふみこ)女史はかつてのヨウシウの著作の影響から、彼に別の作品を書くようにけしかける。だが彼はどうしても渋るのだった。
書きたい。けれど書いてはいけない———その葛藤の裏に潜む危険な衝動に、彼女はまだ触れていないだけだった。
時を同じくして演劇界では綾小路真楽(あやのこうじ・しんらく)という美しき俳優が台頭しつつあった。しかし彼には演じる上でどうしても足りないものがあった。

良心が反転し生死の価値さえ歪む、究極の芸術と狂気をあなたに。
その先にあるのは喝采を産む傑作か、悪手が産んだ屍か。

才能に苦しみ、嫉妬する。良心に阻まれ、決別する。交わることの無い思想は交差し、終わりへの道は開かれた。
これはある作家の再生と全ての終焉の物語。

21世紀のキリン史上最も危険な新作、ここに誕生。

大仰なあらすじですね。何度書き直したことか。後半はほぼフィーリングで書いたのを覚えています。あらすじを書く作業はお話の表面を掬う作業だと思っています。

ここまで書いて思った。たぶんこの話、この記事1本じゃまとまらない。
ぜひともこれはマガジンでシリーズ化して整理したい。
よしそうしようではないか。

そもそもこの作品のスタート地点は何か。
「悪」である。

「悪に成る」過程を描くというところからあの作はスタートしたのだ。


一般に不道徳、善の対義語とされる。しかし、本来は「突出した」という意味合いを持つ。突出して平均から外れた人間は次第に「命令・規則に従わない」とされ、現在の意味に落ち着くようになったとされている。

さまざまな創作物には悪役が登場する。
話は変わるが私は東京の「あやめ十八番」という団体のお話が大好きである。好きな人のどこが好きかわからないのと同様に、この団体のお話やお芝居の一体何がひどく自分の心を揺り動かすのかわからない。しかし最近なんとなく「情と業のバランスの良さ」に私は毎度感動しているのではないか、思っている。

情と業

情とは義理、人情。友情、愛情、家族愛。コミュニティの中で育まれる大切なものに向く感情。
対して業。
自業自得。人を呪わば穴二つ。妬み嫉み、裏切り、思惑、非、冷酷。
そういったあたたかなものと冷ややかなものがあやめ十八番の作品には混在しているように思う。
あやめ十八番ではじめて見た作品は「三英花 煙夕空」。そのすぐあとに「しだれ咲き サマーストーム」、「ダズリング=デビュタント」を映像で拝見した。2023年度の公演「六英花 朽葉」は実際に東京に見に行き、2022年度の公演「空蝉」は所属していた学園座の卒業公演で上演させていただいた。どの作品も大好きである。
それらどれもに濃淡はあれど、例の「情と業」が内在していると思っている。あやめ十八番のことはいくらでも話してしまうので「悪手、喝采」もといその作品の根源である「」の話に戻ろう。

あやめ十八番の作品、とりわけ「三英花 煙夕空」や「しだれ咲き サマーストーム」には人が悪として生まれるのではなく「悪に成っていく」という過程が印象的に描かれていると思う。「しだれ咲き サマーストーム」は本当の終盤で明かされる心境?魂胆があまりに恐ろしくひどく衝撃を受けたのを覚えているし、「三英花 煙夕空」でも同様に人のこころの奥底に眠る執念、執着が恐ろしい形で萌芽していく様が描かれている。本当に素晴らしいのでぜひ観ていただきたい。
とにかく私は人が悪役に成るのではなく、「悪に成る」「そうした思考に至る過程」に面白味を感じ次作のテーマを「悪」に設定した。
まあそっから何がどうなってああいう作に落ち着いたのか、道のりが複雑すぎてはっきりとは覚えていない。
とにかく「悪に成る」過程を描くというところからあの作はスタートしたのだ。

芸術至上主義との融合

ではそういったテーマは如何にして芸術至上主義と融合したのか。

芸術至上主義×悪

そもそも私は「地獄変」という話が好きだった。あの話、絵仏師の良秀が抱く狂気に美しさを感じていたのだ。これまた具体的に「どうしてそれを美しいと思うのか/面白いと思うのか」説明しろと言われたらできない。「好き」とは本来そういった曖昧で淡くてしかるべきだと思うからだ。
さて、とにかくその宇治拾遺物語「絵仏師良秀」、芥川龍之介「地獄変」が好きだったので次作のテーマは
芸術至上主義×悪
でいこう、と思ったのである。この時点で私の好みにドンピシャである。考えるのはきっと楽しかったろう。
なぜそれと結び付けようとしたのか、それもそれもまた別で語らねばなるまい。私の創作スタイルの根幹を成すものだからだ。それはまた後日としよう。

想定上の「悪」の定義

芸術至上主義———芸術のためには犠牲もいとわない姿勢「悪に成る」過程
作家がいて人間を「悪」に仕立てようとする。それは倫理的におかしいとされる行為かもしれない。いや、きっとそうだ。ちなみにここで言う「悪」、いや当時作品づくりにあたって想定していた「悪」とは「犯罪を犯すような存在」ではなく、「他人を意図して陥れ傷つけようとする心を持つ存在」である。
後者の悪に他人を仕立てる過程で作家自身も後者の「悪」に成っていく。
気付かず染まりやがて取返しのつかない事件が巻き起こる。

どうです。すごく面白そうでしょう。
いまこれを書いている私の中にもやっぱり一番最初に見たこの「悪」がテーマのお作のイメージは残っていて。やっぱりおもしれえ。これやりたいっすね。
作家、芸術至上主義、善良とかいうものをいろいろ組み合わせた結果ああいう作品に仕上がったのですがこれら原初のエッセンスをまた培養すれば違うタイプの、それこそ今度こそ私が一番最初に考えた「悪」についての話が書けるかもしれない。ちょっと考えてみます。


「悪」を引き立たせるには「善」が要る


後者のね「他人を意図して陥れ傷つけようとする心を持つ存在」に成ってもらうためには、それ以前に潔白善良真っ白で誰が見ても非の打ち所がない善人が存在する必要がありました。
で、自分が芝居をやっている関係で「役者」という存在が必要になったんかな。もうね、覚えてない。
まあそれが結局俳優の「綾小路真楽」に落ち着いたんですけど。
役作りのために悪に成る必要があるが成れない。だから作家と絡み合ってどうのこうのっていう。

でもこれ、本当にストーリー展開上の好みの問題だと思うんですけど

作家と俳優が接点を持ち利害を一致させた上で悪に成って行く
という展開と
〇作家と俳優に接点はなく、作家の側———作品上作用する側、影響を与える側が俳優側————作用される側、影響を受ける側を一方的に認知し標的にし、俳優も気付かぬ間に作家の作用によって狂っていく

という展開では作品の思想やパワーバランス、ベクトル、あらゆるバランスが違うと思うんです。同じ方向を向いていること(利害の一致)が最初から判明してしまうとその先の不和やら大事件やらのビッグウェーブを起こしにくい。と感覚的にですが思ってしまう。
だから一方的な認知、標的、という風にしたかったんですよね。
だから当初の想定ではヨウシウはもっと不気味で悪どくしたたかな人間だったんですよ。でも私が途中で「ドリアン・グレイの肖像」とかいう神作に出会ってしまったために理想がどうの作品がどうのと存分に苦悩する、本作上もっとも不憫な人間になってしまいました。

ではどうしてその俳優は「悪」に成ることを求めたのか。
役作りです。ではそういう存在が登場する芝居が必要だ。
劇中劇とか入れたら面白いじゃん。華やかだし俳優の演技の変化をお客さんが感じとることができたらいいし、出演者としてもやりがいを感じるではないか。そんなことを考えて芝居を探したのです。

もうここで3000字ではありませんか。
この記事はここまでにしよう。

次回予告


次は「サロメ」「ドリアン・グレイの肖像」についてでも話しましょうね。
たぶんこの記事はどういう過程を経て「悪手、喝采」が生れていったのかを私自身がその当時、
・勉強したこと(芸術至上主義/芸術家のパーソナリティに関する生育環境がどうのこうの)
・触れた作品(サロメ/ドリアン・グレイの肖像/絵仏師良秀/地獄変)
・考えたこと(思想から演出まで)
・見た景色(作品世界の印象ですね)

そういうものをたどっていく・・・ことになると思います。

そもそも何でこういう風に文字に起こすかって楽しいからです。
言葉にすると消えるが文字にすると永遠に残る。振り返りにも使える。それに頭を整理したいし、とにかく楽しいから。
だからやってみようと思っている。
三日坊主で終わらないことを願おうではないか。

最後に好きな台詞でも置いて行きましょう。

芙美子 どうです?調子は
ヨウシウ 見ての通り。
芙美子 絶好調ですね
ヨウシウ ええ絶不調です。

「悪手、喝采」本編 壱五頁

かわいいかわいいやり取り。本編で数少ない穏やかなシーンより。
それではまた。


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