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掴む藁を間違う勿れ

【ツァラストラはかく語りき】より

*落ちるものを、人はさらに突き落とすべきである*


上記の一文ですが、私は、ニーチェ独特の皮肉・芝居めいた言葉だと
思います。(所謂、アフォリズム)


極度に感じやすい彼、ニーチェは、老人や病人、動物、そうした対象に
向けて吐いたのではない。
彼らを突き落とすことなど目論んでも居ないと思う。

落ちるものとは、彼の生きた時代、社会に於ける、そうした階級、力を持つ人達への揶揄であり

*神は死んだ*と類似したニーチェ特有のひねた(叩かれることを畏れない)言い回しだと

思っている。

上記の”神”は既成の概念、体制を射し示すであろうと。

ーと、(前口上長し)

かのニーチェとは全く別のお話ではあります。

例えば、私は女。


同種たる女の

ある種共通の脆さ、試し行為、依存性に、忌々しさ、情けなさを強く感じるのである。

 

本来、異種たる男には、まずはなっから望まないのだ、違うことが前提ですし。


犬に猫になれ、と言うような愚考だ。

犬は犬だからこそ、愛らしい。(・・既に私の脳内で男=犬という図が 笑)


苦言を吐く友こそ真の友なり。


古びた言葉だが、女性同士の場合、”彼女を思って、”が発露ではなく、

”円滑に”を目的に
曖昧な、または思っても居ない同情や慰めを、時には完全なる嘘をつく。


助言を求める女はまた、上辺だけの優しい言葉に弱いものだ、それを求めて、泣いたり吐露したり。

そういう際に、ココロを鬼にして、
彼女を突き落とすかの如く、苦言を吐く。これが友情なりと私の独断。。

私も弱い。

無駄に悩み苦悶する。
かなりの頻度で、弱音を吐き散らす。

さぁ、皆の衆、此処で遭ったが運の尽き。

本気で落として下さいませ。


骨が折れれば折れるほど、頑丈になるように、私の精神もまた、したたかになれませう。

結論:落ちたいものは勝手に落ちろ。自らが選び進んで落ちることを、止めない。


溺れるものは藁をも掴む、その藁を間違うなかれ。

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