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重要文化財『麗子像』 なにか異様な童女の油絵!この絵画の秘密に迫ってみる!

#西洋絵画  #岸田劉生 #白樺派
#麗子像 #美術  
学校の教科書に載っている「麗子」の絵。子供のとき見た私には、なんとなく不気味な感じに思えた。その顔は、暗くもあり、形もおかしく見えたのだが…。この絵は何を表しているんだろう!そんな考えに支配されたものだ。

まずこの絵の作者、岸田劉生から見ていこう。1891年に東京銀座で生まれる。父は実業家で、14人の子供の9番目(四男)だった。14歳で、父をなくす。その3年後に、西洋絵画の重鎮「黒田清輝」の門を叩いた。ここで2年学んだことで、日本最大の展覧会「日展」に出品。2点の作品が入選を果たす。

1911年20歳の時、白樺派の文人と知り合うようになった。これは白樺が主催した美術展で、画家・陶芸家のバーナード・リーチと意気投合したことが大きい。リーチは、終生の友となる。柳宗悦を介して、白樺派の人々と交流していたためだ。

白樺派は、自然回帰や農村に理想を見いだし、自由な社会や個人主義を訴えた文芸活動だった。岸田劉生も魅力を感じ、引き込まれていく。

劉生21歳のとき、高村光太郎や萬鉄五郎らと「ヒューザン会」を結成。第一回展覧会には14点の作品を出品し、画壇にデビューした。

この翌年には、小林シゲルと知り合い、結婚する。すぐ子供もできたという。名は麗子。そう、あの「麗子蔵」のレイコだ。

ヒューザン会は、内輪もめで解散。この後、草土社を立ちあげた。メンバーは、中川一政・椿貞雄・河野通勢など。1915年から1922年までに9回の展覧会を開いた。

劉生26歳、体調を崩し、白樺派の友人、武者小路実篤の住んでいた神奈川県藤沢町鵠沼(クゲヌマ)に別荘を借り、移り住んだ。この地に6年間住んでいる。これを、クゲヌマ時代とよぶ。この後、転居することとなる。理由は1923年におきた関東大地震の影響だった。

このクゲヌマ時代、劉生が一番輝いていたときだ。草土社の仲間たちも移り住んできて、画業にも交友にも恵まれた時代だったといえる。そして、ここで生まれたのが、「麗子像」だった。劉生自身、心は充実していたことは間違いない。

[麗子像の異様さ?]
まずは妻のシゲルについて。その父は、学習院の漢学の教授だった。女学校を卒業してから、鏑木清方を師として日本画を描いている。そんなシゲルは、展覧会で劉生の絵を目にする。積極的だったシゲルは、すぐに劉生に手紙をだした。「絵の話を聞きたい」と…。このシゲルも劉生も、親からの仕送りで生活していた。本当の貧乏は知らない。そんな2人、すぐに燃えあがる。

そうして生まれた子供に、麗子と名づけた。劉生は、かなり溺愛していたという。カンシャク持ちの劉生。ときおり、子供の前でも出てしまう。するとすぐ海岸まで行って気を沈めた。そして、麗子にたいし「悪いお父様は、海へ捨ててきたよ!」と言ったそうだ。

劉生は、モデルに耐える年齢5歳から娘を題材にして描きはじめた。目指したのは、ヨーロッパ北方絵画のリアリズム。ドイツの画家、アルブレヒト・デューラーの絵を目標にしたようだ。もう一つの特徴が、絵の具のビチュームだった。草土社の仲間たちが、よく使っていたものだが、天然アスファルトが原料で、色が黒ずんでいた。

注目すべきは、劉生のえがく衣類の質感。本物と見間違うほどの写実に徹していた。このあと劉生は中国の画家「顔輝(ガンキ)」にも傾倒していく。「寒山拾得図」をみて、麗子の姿をデフォルメしていった。つまり不気味さが、さらに増したということだ。

[震災後の岸田劉生]
クゲヌマの家は全壊となり、居を西へうつした。まずは名古屋にむかうが、すぐ京都に移りすんだ。ここで2年暮らすこととなる。

劉生は、この地で悪趣味にハマってしまう。骨董と芸妓遊びだ。知り合った古美術商にうまいようにそそのかされ、多くの金を使いこむ。さらに旦那衆も連れられ、芸妓にうつつをぬかす日々。画業はまったく疎かになる。

一方、娘の麗子は、学校で馴染めず、不登校に…。しかし2年後、一家は鎌倉へ戻っていった。麗子は健康を取りもどし、学校へ行けるようになったと言う。

このとき、麗子14歳。父親を煙たがる年齢となっていた。もう父親のモデルにはなってくれなくなっていたようだ。だから、娘の絵は1枚2枚しか残っていない。

1929年、劉生は満州にわたり、絵を描き、資金を得ようとした。しかし、画力が落ち、ほとんどの絵は売れなかったという。失意のなか、体調も悪化していった。帰路についた劉生。途中、山口県でその命は絶えた。享年38、この報を聞きつつけた妻シゲル。むかう電車の中で、涙したという。

まとめ
とにかく、日記を書くことや、写真を撮ることが大好きだった劉生。後世の我々には、いつ描いたのか?どのような状況だったのかが、手に取るようにわかる。

麗子の写真をみると、普通の女の子だったことがわかる。この麗子、親に似て画才があったようだ。子供のとき、描いた絵で賞品をもらうほどだった。また、麗子の娘(劉生の孫)も、芸大をでて画家となっている。画家が3代続いた岸田劉生の一族。劉生、もし生きていれば、かなり喜んだであろう。

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