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Biz 全国に「シャッター通り」が増えつづけている理由とは?

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#シャッター商店街
#規制緩和 #バブル経済崩壊

いまや、どこの駅前を歩いても、見かけるのはシャッターを降ろした店舗。本来なら一番栄えていなければ、おかしいのだが、その流れは未だにおさまっていない。私の住むエリアも、年々シャッターを降ろした商店は増えつづけている。そして更地になったところは、ほとんどコインパーキングとなった。寂しいかぎりである。

どうしてこんなことになったのだろう。その流れは、1990年から始まる。この時いくつかの事態が、日本に迫っていた。一つは、バブル経済の崩壊、そしてもう一つが、規制緩和のながれだ。実はこのニつ、根っこは同じところから出ている。米国政府からの要求だった。

*バブル経済の崩壊
バブル経済の発端は、1985年の「プラザ合意」によって始まった。行き過ぎたドル高により、輸出が減り、経済が行き詰まった米国。日本をふくめ先進5ケ国の財務大臣をプラザホテルに集め、アメリカに協調するよう促した。「プラザ合意」前日の相場は、1ドル242円(東京市場)。それが3ヶ月後には、1ドル= 200円を切るまでになった。さらに3年後の1988年には、1ドル= 128円まで円高となる。

円高対策として日本政府がとったのが金利(公定歩合)の引き下げだった。もちろん輸出企業を守るためだが、これがとんでもないことを引き起こすことになったのだ。市場に資金がどっと流れ、余剰資金で人々は土地を買い漁った。金融機関も我先にと貸しまくる。結果として過剰な資金により、地価は10倍以上にも高騰した。

しかしこれに危機感を持った日本政府。一気に引き締めにかかる。そして流れは逆方向に…。土地価格は大暴落し、多額の借金を抱えた資産家や、不良債権を抱えて、行き詰まった金融機関がでて経済を大幅に縮小した。

*規制緩和の流れ
米国政府は、日本側がもっと米国製品を買うべきだと主張する。目をつけたのが、大型店の出店を阻んでいた法律「大店法」だった。1974年に施行され、中小零細小売店を守ってきた。これを骨抜きにして、海外資本の参入や海外製品の市場を広げるというのだ。

2000年に「大店法」は廃止となる。その結果として、日本全国に大型ショッピングモールが生まれた。また、様々な海外企業も日本に進出し、いまや売上げを伸ばしている。結果として地元の中小零細小売店は客を失ってしまう。ほとんどが廃業し、シャッターを降ろさなくてはならなくなったということだ。

*百円均一ショップの台頭
中小雑貨店の「息の根」にとどめを刺したのが、百均ショップだった。業界をリードし続けるダイソー。直営第一号店ができたのは、1991年のこと。2000年以降、躍進をつづけ、全国に店舗をひろげ売上げを伸ばしている。

「百均ショップ」が台頭できたのには理由がある。1つは円安により、海外から破格の値段で仕入れられられたこと。また、バブル崩壊以降の不景気により、人々が百円という値段に魅力を感じたこと。そして、特許法の改正(規制緩和)により、ものまねコピー商品を簡単に作れることができることも大きかった。

*中小零細の生きる道
じつはヨーロッパにおいては、日本ほど悲惨な状況にはなっていない。中小零細工業はしぶとく生き残っているのだ。歴史や文化を重んじるヨーロッパの人々。なにごとも経済優先で考える国ではなかった。

まず第一に、市街地の活性化や街づくりには、住民の意見が反映する形となっている。大型店が出店しようと考えても、住民たちの合意がなくては、できない仕組みとなっている。日本が自治体職員や地方議員の口利きで簡単に出店できるのとは全く違う。

第二に、各業界に横のつながりがあるということだ。1店舗1店舗が小さくても、まとまれば大きな力となり得る。そんな仕組みがあるのだ。ボランタリーチェーンはそうした仕組みの一つ。本部を置き、メンバーの意見をまとめ、共同仕入れ、共同商品開発、共同ノウハウの研究もおこなう。

*日本がダメになった理由
人々の文化度や歴史にある。ヨーロッパではニ度の大戦をへて、自分の身は自分で守るという意識が高い。地域の商店についても、人々は自分たちの同胞という考えで接している。しかし、日本人にはこの意識は薄いといえる。だから、政府や自治体の意見に簡単に従ってしまう。

「商工会議所」もまさにこの流れだ。本来、運営は地元事業者でなくてはならない。しかし、実務をおこなっているのは、役人に近い職員である。形式上は、地域事業者を支える形となっているが、全く実効性は乏しい。だからこそ、シャッター通りが増えつづけている。

まとめ
地元商店は地域を支えたという側面をもつ。たとえば消防団だが、そのメンバーのほとんどは地元の商店主だった。ニュースなどでみると、いざ地震のとき彼らの働きによって助けられた人は多い。

また地域の祭りやイベント。これも地元商店が支えてきた。しかしこれらも存続が難しくなっているという。今となってはシャッター通りの復活は難しいだろう。できれば、各種NPOやコミュニティービジネスの場として再生してもらいたいと思う。そこに集う人々の和ができれば一番だ。

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