黒柳徹子さんが笑わないとき

『青豆とうふ』という20年くらい前に書かれたエッセイを読んでみると、最初の話から「ハゲ」という単語が連発されていた。

別に頭が薄い人のことを馬鹿にしている話ではない。ただ、今は「ハゲ」という言葉を発するだけで罪な気がして、時代の差を感じたのだ。

髪の毛が薄いことを自虐ネタにした芸人さんがブレイクしたのは、つい数年前だ。

どんな芸だったのかはっきりとは思い出せない。でも、薄毛の人がカッコつけたいたことに笑っていたのは思い出す。誰かが笑っていた。私もその中の1人だったように思う。

しかし、1人だけその空気に汚染されない人がいた。その人は黒柳徹子さんである。彼女は、自身が司会をつとめるトーク番組で、彼らの芸を見て言っていた。

「これのどこがおもしろいの?」

このようなセリフは他でも聞いたことがある。例えば学校の先生が正義とは何かを教えようとしていたとき。あるいは、自分の大切な人の見た目をちゃかされて怒りをあらわにしたとき。

そこには主張があった。
もし、先生という立場でなかったのなら、もし大切な人ではなく他人がちゃかされていたのなら、彼らは主張したのだろうか。

徹子さんの「これのどこがおもしろいの?」は、純粋な疑問だった。彼女の中に人の見た目をちゃかしたり、笑ったりする概念が存在しない。

私がそう感じとったのは、『窓際のとっとちゃん』という本を読んでいたからかもしれない。

窓際のとっとちゃんは、黒柳徹子さんがみんなと同じようにできないことにより小学校を退学させられて、トモエ学園に入学するところから始まる。トモエ学園はとてもリベラルな学校で、授業のやり方も普通の学校とは全く違っていた。本には校長先生が言った言葉も書かれていて、衝撃を受けたのを覚えている。

「どんな身体でも美しい」

私はその本を最初に読んだ時には、もうさまざまな偏見に毒されていて、そんなはずはないと思っていた。どんな身体でも否定はしないけれど、美しいとまでは言い切れない。自分の体で気に入らない部分もあるし、矯正したい部分もある。

しかし、まっさらな子供の状態でその教育を受けた徹子さんは、そういった偏見が入っていない大人になったのだ。

子供のころ見たり聞いたりしたもので自分が構築されているというのは事実なのだと思う。

私はまっさらな状態に戻ることはできない。大人がとっていた正義のスタンスはよく見てきたけれど、建前だということが透けて見えていたような気がした。そのように思ってしまうのは、私が毒されているせいだ。

でも、徹子さんのような人がいるということを知って、そいう人をちゃんと見ようと思った。偏見を植え付けられていない人の態度をよく見て、その人が発する言葉をよく聴くこと。

今この瞬間から見たり聴いたりするものを変えることができる。

たくさんの良いものを見て、聴いて、それが自分をつくっていくのであれば、今からでも偏見を抜いた自分を作っていくことができる。

そのポテンシャルは無限大。



このnoteはお題のある日記帳との連動企画です。

今回のお題は「人と比べてしまうとき」でした。


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