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ウィリアム古書店と悪魔の楽譜(完全版)

本作は、昨年末に投稿した同名の作品を、雑誌寄稿向けに加筆修正したものです。雑誌は6/10に発売されます。詳細はページ下部をチェック!

- プロローグ -

 フルートが俺の頬を掠め、廊下のランプを貫き割った。次いでクラリネット、ピッコロ、オーボエ。追手がデタラメに投げてくるそれらが直撃せぬよう祈りながら、俺たちは廊下を全力疾走する。

「おいニコ! お前んトコの楽団は暗殺術も教えてんのか!?」
「まさか! 結構高いんだよ楽器って!」

 言い返したのは、俺の隣を走る男だ。毛玉だらけのセーターを着た、猫毛猫背のビン底メガネ。名をニコラス。音楽家だ。

「だよな、いくらお前が非常識だっつってもさすがに──」
「……あ、でも指揮棒は投げたことあるな」
「みなさーん! 狙うならこっちの男をってウワァァッ!?」

 背後の追手に呼びかけたら、俺に向かってシンバルが飛んできた。
 必死で身を屈めて回避。寸前まで俺の首があったところを金属の円盤が通過して、そのまま壁を抉りながら飛んでいった。

「あっぶねぇなクソ殺す気か!」
「まぁ殺す気だろうね」
「ああそうだったな畜生!」

 さっきから執拗に楽器を投擲してくる追手は、街のオーケストラの楽団員たち……要は単なる一般人だ。そんな連中が、ニコの言う通り殺す気で俺たちを追ってきている。その顔は皆一様に青白く、目には紫色の光を宿し、そして多少のケガではひるむこともない。まるでゾンビだ。

 どうしてそんなことになったのかって? それは──

「ウィルおじちゃん! そこ右!」
「あん!? なんかあんの!?」

 声をあげたのは、俺が抱えている少女だった。金髪おさげの赤ワンピ。彼女──メアリーは、なにやら確信めいた表情で言葉を続けた。

「ひじょーかいだん! ドアにカギかかるの!」
「まじか!」
「うん! むかし閉じ込められたから!」
「好奇心旺盛だな!」

 そうこうする間に、正面からも楽団員たちが押し寄せてくる。挟み撃ちだ。

「ウィル、飛び込もう!」
「あいよ!」

 俺たちは扉に飛び込み、即座に鍵を掛けた。

 ……さて、なんだってあんな連中に追われることになったのか、の話だったな。

 事の始まりは数時間前。クリスマス・イヴの夜に、ニコに呼び出されたところからだ。

- 1 -

 ジングルベル、ジングルベル、ジングルオーザウェーイ。

 浮かれた街を足早に抜け、俺は目的の家に辿り着いた。ろくに雪かきもされてない玄関先を注意して歩いて、ドアをノックする。程なくして「開いてるよ」と気怠げな声がして、俺は扉を開く。暖かい部屋の中では、ニコとメアリーが待っていた。
「この子は?」
「メアリーっていうんだ。うちの楽団員の娘さん」
 少女はぺこりとお辞儀して、ニコへと視線を向けた。
「せんせー、このひとがお手伝いのひと?」
「そうだよ。ウィルっていう便利屋さん」
「便利屋じゃねぇ。古本屋だ」

 そうそう。俺はウィリアム。周囲からはウィルと呼ばれている。
 古本屋を営んでいて、ニコラスはうちの店で古い楽譜やらを買ってく常連だ。まぁ、配達のついでに「電球替えろ」だの「薪を割れ」だの、あれこれ手伝わされてるのは確かだが。

「そんなことより、これ見て」

 俺の文句をスルーして、ニコはそれまで見つめていた紙束を俺に寄越す。

「なんだこれ……楽譜?」

 そう、楽譜だ。ただし、素人目に見てもヒくほどの音符が書き込まれている。さらに紙の端は血の指紋。眉をひそめる俺に向かい、ニコが言葉を投げた。

「それ、明日のクリスマス・コンサートの楽譜」
「は!? てことは、これお前が書いたの!?」

 ニコは毎年のクリスマス・コンサートの作曲と指揮を手掛けている。もう10年ほどになるはずで、楽団員や劇場とも縁が深い。
 つまり、この心の闇そのもののような楽譜をこいつが? いや、確かに人間性に問題がないわけではないが……

「ニコ……お前、その、悩みごととかあるなら──」
「違う。僕が書いたわけじゃない。人の話を最後まで聞きたまえ」

 俺の言葉を遮って、ニコは立ち上がる。そして懐から一通の封筒を取り出した。

「確かに、今年も僕が担当のはずだった。それが3日前、」

 封筒を受け取る。差出人は劇場の支配人。インクが乾くのも待たずに出されたのだろうか、その宛名は滲んでいる。

「急に変更になったと通達がきた。なんの事前確認もなしにね」
「マジか」
「ああ。信じられないことにね。……そして」
「新しい曲の練習をはじめてから、ママがおかしくなっちゃったの」

 ニコラスの言葉を継いだのは、メアリー。彼女はしょんぼりとしたまま、状況を説明しはじめた。
 彼女の母親はここ3日間、文字通り"寝食を忘れて"、丸一日バイオリンを弾いているらしい。手が血まみれになるのもお構いなし。そして、ブレーカーが落ちるみたいに眠りに落ちるらしい。

 あまりの異常事態に、メアリーは母が"落ちた"隙に楽譜を盗んでここに駆け込んだそうだ。

「音楽のことだから、せんせーならわかるかな、って」
「なるほど。大体わかった。
 ……で、ニコ? なんで俺が呼ばれたんだ?」
「便利屋さんならなんとかしてくれるかな、って」
「家の電球取り替えるみたいなノリで言ってんじゃねぇ」

 悪びれもせず言うニコをひと睨みし、俺は手元の楽譜をパラパラとめくる。見ているだけで眩暈がしそうなほど、どのページも楽譜でギッチリ。狂気の沙汰と言わざるを得ない。というか──

「これ……楽団員全員分、書き起こして複製した奴がいるのか、もしかして?」
「流石、目の付け所が良いね。一番最後のページにサインがあるよ」

 ニコに言われるがままに、俺は最後のページを捲る。右下に小さく、汚いサインがあった。

「ロバート……フィル……」
「フィリップス、だね」
「フィリップスか。なんか見たことあるな、このサイン」

 ロバート・フィリップス。その名を聞いて、俺はふと首を傾げた。

「今年から宮廷入りした宮廷魔導士だからね。それも、なにかと噂の多い人だ」
「そういやそうか……いや、でもな。なんかそれ以外で……だめだ、思い出せん。あとで考える」
「そう」
 俺の言葉に相槌を打ちつつ、ニコが俺の手から楽譜を取り上げて。
「さて、それじゃあ」
 それをぴらぴらと眺めながら、彼は事もなげに言ってのけた。

「ウィルもきたことだし、この曲、ちょっと弾いてみるよ」
「「えっ」」

 俺とメアリーの声がハモった。弾く? これを?

「いやお前ケーサツに相談とか」
「こんな案件、取り合うと思う?」

 俺の言葉を躱し、ニコは楽譜を手にピアノへと向かう。その背に向かってメアリーが声を投げた。

「せ、せんせーもおかしくなっちゃうよ!?」
「大丈夫。なにかあれば便利屋さんがなんとかしてくれる」
「古本屋だっつってんだろ」

 そうこうする間に、ニコはピアノの前に座り、軽く息を吸い込んで。

「いくよ」

 問答無用で、トーンと1音。そして。

 次いで流れ始めた旋律は、俺とメアリーを絶句させるに余りあるものだった。

 想像以上に、ものすごい密度の曲だった。そして、おどろおどろしい。とにかく悲しく、恐ろしく、そしておぞましい旋律。12音の組み合わせとはおよそ思えぬ、怨嗟と、絶望と、恐怖の詰まった曲。少なくともクリスマスに聴きたい曲ではない。

「め、めめメアリー? お前のかーちゃんこんなの弾いてたのか?」
「わわわ、わかんない! とぎれとぎれだったから!」

 怒鳴りあう俺たちをしり目に、ニコは淡々と粛々とその楽曲を奏でていく。譜めくりすら必要としないその様を見るに、どうやらすでに暗譜しているらしい。と──

「ひっ……」

 メアリーが悲鳴をあげたのは、30秒ほど経った頃だった。

 まず、室温が急激に下がった。暖炉の火はついているのに、だ。次いで、ニコの足元から夜色の靄が立ち昇る。それは部屋の床を這うように拡がっていく。

「ちょ、おいニコ! なんかやべーぞ!?」

 俺はメアリーを抱き上げて避難しつつ、ニコに叫ぶ。ニコの足元が薄く輝きを帯びた。光は筋となり、ニコを中心に渦を巻くように伸びていく。あれは……魔法陣?

「おい! ニコ! やめろって! おーい!」
「……………………」

 返事はない。夢中になっている……というか、捉われているような。
 陣が広がり、紫の靄が濃くなってゆく。

「っ……ああもう! メアリー! 部屋の隅に!」
「う、うん!」

 畜生、貧乏くじはいつも俺だ。
 旋律が激しさを増していく。魔法陣の拡大が停まり、代わりに内部の模様の密度が高くなっていく。素人の俺でもわかる。"完成"が近い。

「畜生! この靄、触って大丈夫なやつだろうな!?」

 俺は叫びながら、魔法陣の中に飛び込んだ。三歩で届く距離。たったそれだけの間に、冷や汗が全身を濡らした。三歩目の足を、”なにか”が掴んだ。俺は構わず、ニコを蹴り飛ばした。

「オラぁっ!」
「……、ッ!?」

 ニコが吹っ飛ぶ。その身体が周囲の本やら箱やらをなぎ倒した瞬間、魔法陣は嘘のように消失した。

「っ……あれ? 今、なにが……?」
「なにが、じゃねーよバカ! 死ぬかと思ったわ!」

 罵倒を交えつつ、俺はニコに状況を説明する。部屋の隅で震えていたメアリーを宥めるのも同時並行だ。

「なるほど……魔法の中には、音楽を媒体とするものがあると聞いたことがある。これはそういう類の曲なんだね」
「ンなこと見りゃわかるわ! ったく……」

 俺は深々と溜息をつき、言葉を続ける。

「にしても……ニコひとりでこれってことは、だ」
「オーケストラでやったら大変なことになるのは間違いないね」

 魔法陣が完成したとき、そこでなにが起こるかはわからない。ただ、ロクなもんでないのは確かだ。

「主催に言って、公演やめさせるか?」
「いや。僕をクビにする手紙を送ってきたくらいだ。共謀していると思った方が良いね」
「じゃあ、いっそ会場に乗り込む?」
「警備員に蜂の巣にされるのがオチだろうね」
「んじゃどうすんだよ」

 ため息交じりの俺の言葉にニコはしばし考え、ぽつりと口を開いた。

「楽譜を奪うのはどうだろう?」
「楽譜?」
「そう。この難しい曲を楽譜なしで弾くのは、よほどの天才じゃないと無理だ」
「……せんせー、さっき暗譜してたよね?」
「メアリーやめとけ、こいつはそういう奴だ。だから友達が少ない」

 そんな言葉を完全にスルーして、ニコはぶつぶつと言葉を続ける。

「問題は……みんな、自宅に楽譜を持って帰ってるだろうってことだね。遠方の人もいるし……」
「だな。本番前なら全員揃うかもしれねーけど、ギリギリすぎるよなぁ」
「あ!」
 そこで声をあげたのは、メアリーだった。
「本番前の夜、集まって練習……って言ってた!」
 俺とニコは顔を見合わせる。本番前の夜。つまり、今夜か。
「おいおい、徹夜で練習かよ」
「無理なことするもんだね……」

 ニコはそこで言葉を切ると、俺の目を見て問いかけた。

「よし……ウィル。君、劇場の警備員と顔見知りだったよね?」

- 2 -

 劇場は不気味に静まり返っていた。

 警備員を舌先三寸で丸め込み、俺とニコ、そしてメアリーは劇場に穏便に忍び込んだ。メアリーは危ないから置いていこうとしたのだが、ついていくと駄々をこねられた。

 ニコの先導のもと、劇場内を駆ける。壁掛けランプにぼんやりと照らされた劇場内には人の気配がなく、俺たちの足音以外にはなんの音もしない。と──

「あ」

 ニコが不意に立ち止まった。

「……例の曲が聞こえる。あっちだ」

 ニコの耳を頼りに、俺たちは再び通路を歩く。ほどなくして、俺の耳にも楽器の音が聴こえてきた。
 部屋の扉は開いていた。中からは冷気と、例の紫の靄が漏れ出ている。俺たちは互いに視線を交わした後、ゆっくりと扉に近づき──

「なにしてんのもう!」
「「ッッ!?」」

 室内から聞こえた声に身を震わせ、動きを止めた。室内の演奏が止まり、紫の靄も消えた。俺は咄嗟にメアリーを抱き寄せる。ニコも息を止め、メガネを直した。

「もーーぉちーがう違う違う違う! どうしていつも同じところで間違うんだ! もう一回!!」

 再び演奏がはじまった。冷気と靄が再度溢れ出す。
 ……どうやら、間が悪いだけだったらしい。俺はそっと部屋を覗き込む。

 室内には10人ほどの楽団員。想像通り、正気を失い、血まみれの手で例の曲を一斉に弾いている。
 そして、正気で佇む二つの影。ひとりは、銀髪の、初老の男。素人目にも高そうな布で作られた魔道士の装束。宮廷魔導士、ロバート・フィリップス。古い魔導書を手に、神経質な目で奏者たちを睨んでいる。
 その傍には指揮者がいた。黒く長い髪をオールバックに撫で付けた男。不気味な笑みを浮かべて指揮をしている。その頭には──

「……ツノ?」

 俺が呟いた、その時だった。

「私の、楽譜」

 不意に、声がした。背後から。

「「!?」」
「ねぇ、私の、楽譜」

 俺たちが振り返ったとき、そいつは既にニコの眼前にいた。金髪のレディ。その腕が素早く動き、ニコの首を掴む。

「ぐっ……!?」
「ママ!?」

 メアリーが声をあげる。「楽譜、楽譜」と譫言のように呟くレディは、信じられないことにその細腕でニコを持ち上げてみせた。

「ママ! やめて! ママ!」
「このっ!」

 悲鳴をあげるメアリーを飛び越えて、俺はメアリーの母親に体当たりをかました。その手がニコから離れる。

「げほっ……!」
「ニコ、大丈夫か」
「だだ、誰だっ!?」

 ドタドタと足音がして、出てきたのは二人。ロバート・フィリップス。そしてツノの生えた指揮者。

「な、なんですかお前たちは! ……って、お前はニコラス・フィンブル!? なぜここに!? クビにしたはずだが!?」
「そういうあなたは、ロバート・フィリップスさん」

 ロバートがヒステリックな声を上げる中、ニコは冷静に言葉を続ける。

「ロバートさんこそ、宮廷魔導士様が、どうしてこちらに? ここは劇場ですが」
「う、うるさい! お前には関係のないことだ!」
「まぁまぁ、ご両人。落ち着いてください」

 ニコとロバートのやりとりに口を挟んだのは、ツノ野郎だった。

「し、しかし……ッ」
「ねぇ、ロバートさん。ロバート・フィリップスさん」

 そいつは大仰な態度でロバートの言葉を遮った。びくりと身を震わすロバートに、そいつは歌うように言葉を続ける。

「彼が誰かは存じませんが……どちらにせよ、彼らを生かして帰すわけには、いきませんよねェ?」
「ああ、ああ……そうだ。そうだ」

 それだけで、ロバートの顔には獰猛な笑みが浮かぶ。その目に浮かぶは狂気。そして、紫色の光。

「……あの野郎、やっぱ人間じゃねぇな?」
「お、おおおお前も、生贄にしてやる!」

 俺の言葉は、ロバートの叫び声に掻き消された。
 室内から楽団員たちが駆け出してくる。そいつらの瞳にも、紫色の光。

「チッ……! ニコ! 走れ!」

 俺は即座に、メアリーを抱え上げて踵を返した。

「追えーッ!」
「行け」

 ロバートとツノ野郎の声に続き、楽団員たちの足音が追いかけてくる。

「ああクソ、どうすんだこれ!」
「とにかくまずは、安全なところを探さないと!」

 ランプの灯りが照らす廊下を、言い合いながらひた走る。足音がどんどん増えていく。

「どこにこんなに居たんだよ畜生……ってうわ危ねぇ!?」

 フルートが俺の頬を掠め、廊下のランプを貫き割った。次いでクラリネット、ピッコロ、オーボエ。追手がデタラメに投げてくるそれらが直撃せぬよう祈りながら、俺たちは廊下を全力疾走する──

- 3 -

 ──で、今に至るってわけだ。

「ゼェ……ハァ……め、メアリー、カーテン閉めてくれ……」
「はい!」

 先ほどの廊下からワンフロア上の会議室。非常階段で追手を足止めしつつ、なんとか辿り着いた安全地帯だ。

「ハァ……ハァ……畜生、楽譜を奪うどころじゃねぇな……」
「ヒィ……ハァ……ねぇ、ウィル……ゲホッ……」

 肩で大きく息をしながら、ニコは言葉を続ける。

「あれ、たぶん……ゲッホゲホ、ハァ、たぶんあれ人間じゃないよね……」
「あのツノ野郎だろ? たぶん、悪魔の類だ。……悪い魔道士と人外て。御伽噺かなんかかよ──って、あれ?」

 そこまで言いかけて、俺はふと言葉を止めた。

「おとぎ、ばなし」
「? どしたの、ウィル?」

 首を傾げるニコとメアリーを放って、俺は思案にふける。
 御伽噺。その言葉に、なんだかものすごくデジャヴを感じ──

「この本、いわくつきっすけど、大丈夫っすか?」
「いわく? どんな?」
「なんでも、悪魔を呼び出せるとかなんとか……」
「はっは、悪魔? 御伽噺かなにかですかな?」
「アーまぁ、宮廷魔道士サマなら万が一はないでしょーけど。返品は受付けらんないっすからね」

「…………あっ」

 頭を過ぎったその会話に、俺は思わず声をあげた。
 ロバート・フィリップスの名を聞いたときから、ずっと引っかかっていたんだ。どこかでその名を、あの小汚いサインを見た気がする、と。

「ロバートのやつ、ウチの店にきてたわ」
「そういう大事なことはもっと早く思い出してほしかったな」
「わ、悪い……」

 にわかに廊下が騒がしくなった。どうやら追手が探し回っているらしい。
 ニコが声を潜め、問いかけてきた。

「それで? ロバートはなにか買って行ったのかい?」
「ああ。古い魔導書というか……楽譜だな。悪魔憑きって噂の逸品だ」
「悪魔の楽譜……か」
「ああ。確か名前は──」

 俺が言いかけた、そんな時だった。
 廊下を走り回る追手たちの足音に紛れて、コツリ、コツリと歩く音。それは迷いなくこの部屋の前にやってきて、ぴたりと止まった。

「……まさか」
「楽、譜」

 バァンッと激しい音とともに、ドアが蹴り開けられる。

「ママ!?」「嘘だろ!?」

 ぬるりと部屋に入ってきたそいつは、メアリー母だった。
 そいつはメアリーや俺を完全にスルーし、迷わずニコに……否、ニコのカバンに手を伸ばす。

「楽譜。私の、楽譜」
「ッ……そうか、この楽譜が……!」
「その通り! 彼女はその魔力を追いかけています」

 ニコの言葉に応えたのは、ツノ野郎の声だった。メアリー母がびくりと動きを止める中、そいつは悠然と戸口に姿を表した。

「さてさて……覚悟はできてるんでしょうか?」
「おい、ひとつ教えろ──」

 余裕ぶったツノ野郎を睨みつけ、俺はその名を口にした。

「悪魔、マーダック。いや、マルドゥークか?」

 ぴくり、と。
 その眉が動く。

「……貴様、なぜその名を」
「街の古本屋さんをナメんなよ。お買い上げいただいた本を忘れるわけねーだろ」
「購入者のことは忘れてたけどね」

 ロバート・フィリップスが購入した本は、“MARDUK”。音楽を介した召喚魔法について記された魔導書。状況から考えるに、例の楽譜の転載元はこの本だろう。そして、それはそのままツノ野郎の名前だったらしい。

「なーマーダックさんよ。あのやべー曲で、なにしようってんだ?」
「……教えると思うか?」
「おーいおいおいマーーーダック? 敬語キャラ忘れてるぜ? 名前がバレてビビってんのか?」

 ツノ野郎マーダックは、俺を全力で睨みつけている。結構本気で怖いが、俺はそれでも笑ってみせた。

「まーそりゃそうだよなぁ? お前が憑いてた本を知ってるってことだからなぁ?」
「貴様……ッ!」

 激昂したマーダックの指揮棒が、ぴくりと動く。俺は慌てて両手を広げて捲し立てた。

「おおっと! いいのかマーダック? 唱えちまうぜ、お前を封じる呪文をよォ!」
「…………呪文?」

 その瞬間、マーダックが訝しげに眉をひそめた。

「ん? あれ? ……“アンサモン:インバージョン・レトログレード・パラ・モジュロ・サモン”!」
「……ふん?」

 マーダックが首を傾げる。嘲笑するような表情。冷や汗が吹き出す。あれ、違うのか? 俺には呪文としか思えなかったんだが。

「クク……なるほど。まぁ、教養がないとわからんよなァ」
「え、え、呪文じゃねーのかあれ!?」
「クハハハハ! まぁ貴様にはわかったところでどうしようもなかろうな!」

 勝ち誇った顔で言い、マーダックは指揮棒を掲げた。直立していた楽団員たちが臨戦態勢になる。やばい。

「お遊びはここまでです! ここで手足を捥いで──」

 マーダックが言いかけた、その時。

「──ウィル!」
「お?」

 ニコの声。次いで、俺の後ろからカバンが飛んできた。

「ぬぅっ!?」

 カバンがマーダックに激突する。まだ指揮棒は立てられたまま。楽団員たちは動かない。
 カバンの蓋が開き、中身が舞い上がった。血のついた楽譜。例の楽譜が。

「楽譜、楽譜ゥ! 私の!」
「小癪なッ──ぬがっ!?」

 メアリー母がその楽譜を追いかけ、マーダックに飛びかかった。

「ああ、楽譜! 楽譜!」
「このっ! どけッ!」
「ウィル、窓!」
「! おうよ!」

 俺は傍にあった椅子を掴むと、窓に投げつけた。派手な音と共に割れた窓からニコが飛び出し、ベランダを駆け出した。俺はメアリーを抱え上げて後を追う。

「邪魔だこのアマァッ!」
「ああっ……!」
「っ……ママ!」

 後ろから、メアリー母が投げ出される音がした。ニコが走りながら声をあげる。

「メアリー、ごめんよ。急いで解決するから!」
「おいニコ! どこいくんだよ!?」
「ピアノがあるところ!」
「ピアノぉ!?」

 俺の言葉に、ニコは走りながら力強く頷いた。

「ああ。わかったんだ。あいつを封印する方法が!」

- 4 -

「ウィル。さっきの呪文、あれって覚え間違いじゃないよね?」
 薄暗い廊下を、ウィルは迷いなく走る。
「ああ間違いねぇ。いわく付きの品の大事そうな呪文は覚えるようにしてんだ」
「おじちゃんすごい。きおくりょく!」
「そうだ。だからおじちゃんじゃない。お兄さんだ」

 俺が言い返した、その時──

「そこまでだ!」

 ロバート・フィリップスの声と共に、氷のつぶてが飛んできた。

「どわっ!?」
「邪魔は! させないぞ!」

 つぶては握り拳ほどもある。完全に殺す気だ。

 俺たちは慌てて手近な扉を開き、盾にした。バギンッゴギンッと耳障りな音と共に、氷のつぶてが扉に突き刺さる。ぶっ壊れるのも時間の問題。さらに後ろからは追手が近づいてくる。

「くそっくそっ! 炎魔法が使えればこんなやつら! ああもう!」
「……ニコ。合図したら、メアリーを連れて走れ」

 俺はメアリーを降ろし、ニコに押し付けた。

「! しかしウィル……」
「いいから。あとは頼むぞ」

 ロバートの攻撃がやむ。同時に俺は扉の影から飛び出して。

「ワーーーーーーッ!」

 同時に、大声を出した。

「ヒィィッ!?」

 大声に驚いて、ロバートの詠唱が止まる。俺はそのまま間合いを詰め、敵に飛び掛かった。

「ぐえっ!?」
「ニコ、メアリー、行け!」

 扉の影から、ニコがメアリーを抱えて飛び出し、駆ける。まとめてすっ転ぶ俺たちを抜き去って、ニコは廊下を駆けていく。

「くそっくそっ! 邪魔をするな下等市民!」
「うるせぇ!」

 俺は受け身を取って起き上がる。ロバートとの間合いは五歩分。そいつはゆらりと起き上がり、眼前に氷のつぶてを生成しはじめる。

「下等市民! お前から凍らせてやるッ!」
「やってみろよこのヘタレ!」

 駆け出す。一歩、二歩。
 氷のつぶてが完成する。小型の代わりに、詠唱が短い。ロバートが狂気の笑みを浮かべる。

「死ねェッ!」

 ロバートが叫ぶ。俺は──跳んだ。
 三歩目で床を強く蹴り、廊下の窓枠へ。そこを蹴って、三角跳び。身を捩る。脇の下スレスレを氷のつぶてが飛んでいく。

「なっ!?」

 手を伸ばす。目標、壁掛けランプ。

「てめーは……!」

 右手でランプを掴む。根元が折れた。手のひらが熱い。眼下のロバートと目があう。熱い!

「寝てろァッ!」
「ゴパッ!?」

 真下に投げ放ったランプが、ロバートの顔面に直撃した。ゴシャァッと派手な音がして、ロバートが崩れ落ちる。

「よし、ヒット……ってあ痛ァッ!?」

 俺は俺で着地に失敗し、そのまま廊下に投げ出された。ランプの欠片で切り傷まみれになりながら1回、2回とバウンドし、壁にぶつかってようやく止まる。

「あだだだだ……畜生、とんだクリスマスだ……」

 そうしてなんとか胡座をかいた頃、俺は楽団員たちに取り囲まれていた。
 その後ろから、ゴツ、ゴツと革靴の足音が追いついてくる。

「おやおや、ロバートはやられたんですか……まぁあの三流には最初から期待していませんでしたが」

 悪魔・マードックが嗤う。指揮棒が天井に向いている。

「まぁ良いでしょう。本番を迎えられればそれで良い」
「本番ってのはアレかい? 奏者と観客を生贄にして、仲間を呼ぶみたいな話か?」
「ほぉ? よくお分かりですね。ロバートから聞いたんですか?」
「いんや、別に」

 じりじりと、包囲の輪が狭まる。それでも俺は、マードックを睨み上げ、笑う。

「考えてたのさ。あの魔導書に書かれた楽譜で、なにが起こるのか」
「ご推察の通りですよ。明日のコンサートで悪魔の軍勢を生み出し、現世を支配するのです」
「あらら、ずいぶん素直に教えてくれるね?」
「ええ。冥途の土産というやつです。あなたはここで死ぬんですから」

 答えながら、マーダックは指揮棒を俺に先向けた。楽団員たちが得物を握る。濁った瞳が俺を見下ろす。
 それでも俺は、笑っていた。

「そーかい。でもそんなことより……いいのか? 俺の連れをほっといて」
「ええ。君を捕らえたらすぐにでも──」
「おやおや? 楽団員たちから、お聞きになってない?」

 俺がそう問うた、その時。

 ──ピアノの音が、劇場に響きはじめた。
 1音目は静かに。2音目からは激流のように、旋律が始まる。

「ッ──!?」

 その音が聞こえた瞬間、マードックの表情が凍りつく。

「こっ……この曲は……!?」
「あいつは人間性はアレだが、音楽については天才だぜ?」

 凄まじい密度の音が織りなすは、底抜けに軽やかで、元気よく、そして明るい旋律。12音の組み合わせとはおよそ思えぬ、多幸感とエネルギーに満ち溢れた曲。

「そ、送還術式!? なぜわかったなぜ知っている、いや、それ以上になぜ弾ける!? ま、まずい……!」

 マードックがテンパった隙に、俺はベルトを外して手近な楽団員の足に巻き付ける。そいつはチェロを抱えていた。

「お、お前たち! こいつは放っておけ! まずはこの音を止めろ!」
「行かせると思うか?」

 俺はそのベルトを思いっきり引っ張った。チェロ弾きがぶっ倒れる。デカい楽器がぶおんと音を立てて、周囲の楽団員をなぎ倒し、そしてマードックに激突した。

「ゲェッ!? じゃ、邪魔だ! お前たち! あいつを殺せ……いや、演奏を止めろ! 早く!」

 楽団員の下敷きになり、ジタバタもがくマードック。俺は痛む身体に鞭打って立ち上がると、そいつの指揮棒を奪い取った。

 不意に、黄色の靄が俺たちの足下から沸き上がった。それは楽団員たちとマードックの身体を包み込む。

「んじゃま、メリークリスマス、マードック」
「や、やめろ! せっかく現世に出られたのに! くそ! 消える! やめろ! やめっ──」

 マードックの身体が、魔法陣に沈む。
 もがいていた楽団員たちが眠りに落ちていく。

「あー痛たた……ふぅ。とりあえず、終わりか」

 俺は呟き、ニコたちを探して歩き出す。
 希望と幸福にあふれたメロディは、それからしばらく鳴り続けていた。

- エピローグ -

 翌日、クリスマス。
 クリスマス・コンサートの舞台袖で、俺とニコはコーヒーを飲んでいた。

「結局、あの呪文はなんだったんだ?」
「ああ、あれかい?」

 “アンサモン:インバージョン・レトログレード・パラ・モジュロ・サモン”。俺にとっては謎の言葉の羅列でしかないが、ニコはあの瞬間、封印方法を理解したのだという。

「あれはね、全部音楽用語なんだ。インバージョンは“転回”、レトログラードは“逆行”。“パラ・モジュロ”は同主調に転調。最後の“サモン”は多分、召喚術式のあの曲のことだろうね」
「えーっと……?」

 首を傾げる俺に、ニコは説明を続ける。

「つまり、あの楽譜の曲を、明るい曲調にして、音をズラして、楽譜の逆から弾く。それが、マードックの送還術式だったんだ」
「……それを、楽譜なしで弾いたのかお前?」
「いやぁ、流石にミスるかと思ったよ」

 これは後から聞いた話だが、普通の人なら3年掛かっても弾けない曲だそうだ。

「さて、そろそろ行かなきゃ」
「なんとかなりそうなのか?」
「んーまぁ、4日前まではみんな練習してたわけだし。なんとかなるよ」

 そう言い残して、ニコは舞台へと上がって行った。

 昨夜の事件の後。
 作曲家兼指揮者は消滅、宮廷魔道士は病院送り、そして楽譜は消失(俺が燃やした)。そんな状況下においても、クリスマス・コンサートは実施されることになった。当日中止はできないだとか、スポンサーがどうのとかいう大人の事情らしい。

 とはいえ、開演時間を1時間遅らせ、セットリストは組み直し。4日前までニコ主導で練習していた曲のうち、今のコンディションで弾けるものを使うこととして、楽団員たちは舞台へと上がった。

 そうして開演したクリスマス・コンサートは……まぁ、大成功とは言えないかもしれないが、十分に成功だったと思う。

 喝采を浴びながら、楽団員たちが舞台袖へとハケていく。

『さて、今年のクリスマス・コンサートは終わりです。急な予定変更、驚かせたかと思います。すみません』

 舞台にひとり残ったニコは、客席に向かって言葉を続ける。

『最後に、1曲だけ。最近、ちょっと大変な目に遭って……その時に出会った曲です』

 ニコはマイクにそう告げて、ピアノに向かった。

 1音目は静かに。2音目からは激流のように。
 底抜けに軽やかで、明るくて、多幸感とエネルギーにあふれた旋律が、コンサートホールを満たしていく。

「わー! あの曲だ!」

 隣ではしゃぐメアリーと共に、俺は手拍子で場を盛り上げる。それは周囲の客に瞬く間に広がって、会場全体がひとつになった。
 そんな楽しいひとときは、あっという間に過ぎ去って。

『ありがとうございました。それでは、メリークリスマス』

 御伽噺みたいなクリスマスを、ニコの言葉が締め括る。

 万雷の拍手と共に、幕が下りる。
 俺たちはそれを、笑顔で眺めていた。

(完)

あとがき

『ウィリアム古書店と悪魔の楽譜』、お読みいただきありがとうございます。本作は、昨年末に開催したnoteイベント『パルプアドベントカレンダー2020』に合わせて執筆・投稿した作品を、サークルの合同誌向けに加筆修正を行ったものです。

 アドカレのときは時間に追われて必死で書いていたこともあり、改めて読んでみると設定的な矛盾とか、ちょっと無理矢理感のあるセリフとかがありまして、この機会に思い切って色々と手を加えています。例えば潜入パートが簡素になっていたり、アクションシーンが短くなっていたり。以前よりもテンポ良くなっている、と自分では思っているので、楽しんでいただければ幸いです。

 それにしても改めて読むと、ウィルもニコもいいキャラですね。可愛げがあるし、頼り甲斐もあるし、なにより物語をぐいぐいと牽引してくれる。キャラ造形としては『仮面ライダーW』と『吸血鬼すぐ死ぬ』あたりの影響を多分に受けている気がしますが、バディものの教科書ですからね。仕方ないね。

 ファンアートとか描いてくれる人いたら泣いて喜ぶのでよろしくお願いします🍑

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いじょうだ

 またの機会にお会いしましょう。ちゃお!


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