5/1 落語動画の基礎知識

5月に入って、落語界は停止状態に入りました。これは都内に四件ある寄席の定席が営業を休止することになったためで、公共のホールなども休業に入り見かけ上の生の落語の高座が消えたようであります。目に見えぬ微小な敵との間の勝負が続くなか、効果のほどを今(おそらくこの後になってもそうかもしれない)確認することはできず、沈黙をもって時間と空間を埋める日々へ。

代わりに無観客での高座を動画にて配信するという方法が確立しつつあり、これはあくまでも臨時の代替手段でしかないのだと誰もが了解しているけれど、まさにそのような代替手段としてカメラに向かって落語が上演され続けています。
スタジオ録音というのがいちばん近いのかもしれませんが、お客との空間内やりとりで間やポイントの置き所をズラしたり伸ばしたり縮めたりする、弱い芸能である落語にあっては、生の高座とはまったく異質なことをしなくてはなりません。

生の高座では、同じ空間の中で演者と聴衆にともに体験される落語(そこでは、話す身体と聴く身体が共振して、時間的な間も変化を被る)がある。
その一方で映像の落語は、情報の伝達の結果になってしまう。光が音とともにカメラの場所からやってくる。その動画は、生配信であれ収録であれ、つねに致命的な遅延を伴っています。これが何を意味しているか。これによって、通常では有り得ないことが起こります。

私たちが生きる世界では有り得ないことの想定で最もポピュラーだといえること。それは、時間が止まることです。
動画配信の落語では、時間を止めることができる。映像は停止ボタンひとつでストップすることが可能である。
また同様に現実では、時間が不可逆であることも確かですが、動画にあっては時間を巻き戻すことも可能になる。このように落語を視聴するということが、異なる世界のルールのもとでの鑑賞となるわけです。
ここに、生の高座と配信動画との、計り知れない断絶があります。

先に、映像としての落語は情報の伝達の行程にすぎないと書きました。ここで怖ろしいのは、映像が、情報として完璧になってしまうことです。
生舞台で体験される感興は、全体的であっても偏っています。心から感動したとしても、それはまったく個人的なことで、本来誰とも共有できない。言葉にもできず、これは情報という観点からは実に不完全なものです。
しかし映像の場合、情報として完全になってしまいます。演者の発したセリフや表情、仕草にいたるまで、すべての情報が完璧に記録されている。情報は情報に参照されて、そのようなものとして記憶される。
私は情報の中にはおらず、体験の中にのみ存在しています。過剰な情報が体験に取って代わるような事態が、ここで起きるのです。

以上のようなところに、生と映像の違いがあるかと思います。ただ受け取り方が変わるというだけで、優劣の問題などではまったくありません。(それだからこその、悩みなのであります)

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