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手振りで尋ねたのではない

ルカ1:57-66 
 
ザカリアは、耳は聞こえていたように思われます。1章に「口が利けなかった」とのみ記されているからです。天使がせっかく、念願の子が授かると告げ、偉大な役割を果たすとまで知らせたのに、「どうしてそれが分かるでしょう」と応え、受け容れなかったため、ガブリエルが「話すことができなくなる」と、信じなかったことへのしるしを与えました。
 
しかし、1章の後半で、マリアと妻エリサベトとの関わりを経て、ついにヨハネが生まれるに至り、人々はザカリアに対して、「手振りで尋ねた」のでした。耳が聞こえているとばかりに私は思っていたのですが、このとき手振りで尋ねたとあるからには、口で言っても聞こえなかったことを意味しているように感じました。
 
エリサベトの懐妊から出産という時間の中で、ザカリアは、聞こえていた耳の力をも失ったかのようです。ザカリアは書き板にて、つまり筆談にて、ヨハネという名を子に与えることを人々に知らせました。妻にはすでにそれを伝えていたのでしたが、人々に対して公には初めてでした。もちろん、筆談はザカリア自身話せなかったからです。
 
しかし、「この子に何と名を付けたいか」と人々が訊いたのは、「手振り」だった、と書いてあります。これに対して、ヨハネでよいのだ、と宣言したとき、ザカリアは「口が開き、舌がほどけ、ものが言えるように」なったのでした。耳のことは書かれてありません。あの「手振り」とは何だったのでしょう。違うのではないでしょうか。
 
「手振り」ではなく、「うなずく」などのような仕草を交えていたということなのではないでしょうか。「ヨハネだって? いやそんな名ではないのだよね」と、人々はエリサベトの言ったことが意外で信じられず、ザカリアに、確認をするように言い、尋ねたのではないかと思うのです。首を横に振って、それから尋ねた、というように。

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