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聖書愛読こよみ

お気づきの方もいらっしゃるだろうと思う。私は1日おきに、聖書から「ショートメッセージ」を記しているが、これは日本聖書協会の、聖書「愛読こよみ」に基づいている。少なくとも2014年の秋から、毎日この聖書箇所を頼りに、聖書と祈りのひとときを過ごすようにしている。そこで与えられた聖書箇所を開き、B6ノート1頁に黙想を綴るのだ。
 
ローズンゲンという、ドイツで伝統の「日々の聖句」もあるが、「愛読こよみ」は無料で提供されているので助かるし、また週毎にテーマがあるというのも、気に入っている。一週間、一定のテーマに沿って深めていく、というのはとてもよいと考えている。
 
しかし、人間の提供するものであるために、ミスがないわけではない。以前にも、聖書箇所がどうにもそぐわない、と思われることがあった。テーマとも合わないし、そもそも段落からも離れ、奇妙なことに節の途中で切れている(なお、内容重視のため、聖書に印刷されている段落には必ずしも指定箇所を合わせていないこともあることは知っている)。同じ書の、別の章であれば、その節の指定で、テーマにぴったりであり、切れ目も申し分ない。やはりあれは、章の数字の印刷ミスだったに違いない。
 
さて、先日4月22日の指定箇所も、久しぶりにおかしいと感じた。私はpdfで提供されているものをプリントアウトして用いているが、そこには申命記1:11-20と書いてある。そしてその週のテーマは、「永遠の命のパン」であった。だが、この指定箇所からは、どうにもパンが感じられない。また、切り方としても奇妙である。前後の箇所を見ても、パンらしき話はどこにも出てこない。
 
以前の経験から、これは節は正しいが、章が異なっているのだろうと考えた。しかし、2章も3章も、適切だとは思えない。ふと、前日の箇所を参照したら、もしや、と思った。前日が申命記8:1-10であった。主はイスラエルの民を苦しめるが、それは訓練であり、やがて導く約束の地において、豊かな地の産物を与えてくださる、という内容で、もちろん「永遠の命のパン」にもつながるものであった。
 
長い聖書箇所を、二、三日に分けて割り振ることは、この「愛読こよみ」においてはよくあることである。つまり、前日の8:1-10に続けて、翌日が8:11-20と指定することは、よくあることなのである。開いてみると、これが実にぴったりと切れ、また内容的にも申し分なかった。
 
この方は、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広大で恐ろしい荒れ野を進ませ、あなたのために硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖も知らなかったマナを、荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめ、試みても、最後には、あなたを幸せにするためであった。(申命記8:15-16)
 
これだけであれば、ただの印刷ミスを私が大袈裟に取り上げた、ということになるだろう。だが、問題は、日本聖書協会のウェブサイトである。ここには、日々の聖句の箇所だけではなく、その本文も提示されるようになっている。そこには、「申命記1:11-20」という表示だけではなく、聖書本文が、丁寧に『聖書 聖書協会共同訳』より引用されているのであった。テーマとしてタイトルには、「永遠の命のパン」と掲げた上で。
 
お忙しいことは百も承知だ。だが、もし人間の目でこうした作業をしていたとしたら、このタイトルと、切り取られた聖書箇所とが明らかにちぐはぐであることに、気づくのではないだろうか。ちらりと目を通しただけでも、「あれ?」と思わないわけがない。
 
だから、これは人間の手によって作られているのではないのだ、と私は思った。最初の箇所の入力ミスというものなどありえないのだ、と信じ込んでいない限り、人は簡単にチェックするものである。
 
機械的に、自動的にこの作業がなされている様子を感じた。ウェブサイトのページソースを見ると、聖書本文は指定したままに読み込むように設定されてあった。これはもう、仕方がないことではあるだろう。
 
ただ、こういうことはないとは思うが、もしも、「こんな聖書箇所を日々掲げても、誰も見て気にしてなどいないだろう」というような心理が、スタッフの中にあったとしたら、それは違う、と言ってあげたい。少なくともここに一人、毎日それと30分以上格闘している者がいる。水の上に投げられたパンも、食卓から零れたパンくずも、天から降るマナとして、どこかで命となっているのだ。正に、「永遠の命のパン」をもたらしているお仕事に感謝し、応援している者がいるのだ。

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