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知的障害者のきょうだい③       --くるりんぱ--

□2限目「障害者に対するイメージを考える」

 2限目の授業では、冒頭にHP「くるりんぱ」を見せた。キツネに見えていたイラストが「くるりん」と回転すると、アシカに見えたりと、様々なイラストがクリック一つで「くるりんぱ」と変化するHP。これを導入とした。スクリーンに次々と「何に見えるか?」と尋ね、生徒の答えが出るとクリック一つで絵を回転させ、別の動物に変えてしまう。「ものの見方は一つではない」と言う遊びをしてみた。

 また、前回の授業の最後に宿題として、「片方だけのスニーカーもらったら、どんな利用方法があるか?」考えてくるように言っていた。

 「ぬいぐるみの家にする」「靴紐を持って振り回して、戦闘用の武器にする」「穴を開けてランプシェードにする」「植木カバーにする」「親と喧嘩して家出をしたときに、その片方だけのスニーカーを玄関に置いて、出ていき、不思議に思わせて仲直りのきっかけにする」などなど。

https://www.wwdjapan.com/articles/900276

 「ものの見方は一つではない」。それが今回の狙いなんだと伝えたかった。この授業に至るまでに、アートの力で障害者の社会参加に取り組まれているアトリエインカーブの理事長今中博之さんに直接、話を聞く機会があった。先のHP「くるりんぱ」も今中さんに教えて頂いたものである。「ただの石ころでも、光の当て方を変えれば、美人になる」「IQ知能指数でしか測らないから、光らない」。幸せをデザインする今中さんの言葉を振り返った末に、考えた導入だった。インカーブの今中さんをご紹介くださったのも、再び、読売テレビの堀川雅子さんである。

 このような導入を行った上で、『障害者はやっばりいやだ』と題した次の作文を紹介した。
 【僕にはケン兄ちゃんと言う障害を持ついとこがいます。ケン兄ちゃんは知的障害者で、うまく言葉がしゃべれません。けど、それ以外は普通の人と何も違いません。部活もしているし、普通に高校にもいっています。むしろ、普通の人よりもすごいくらいです。ケン兄ちゃんは明るくて、とても優しい人です。けど、僕はどうしても自分から積極的に話しかけたりすることができません。何を言っているのかよくわからないし、何よりも心の中で差別しているからです。表面上は、ニコニコしながらしゃべるけれど、心の中ではいちいち面倒くさいとか、障害者だからニコニコしゃべってやるか、とか最低なことを思いながら喋っていることがたまにあります。
 というのも、ケン兄ちゃんには、障害を持たない普通のお兄ちゃんがいて、ついそのお兄ちゃん、ケン兄ちゃんを比べて、‘なんでこんなに違うんだろう’と思っているからです。 
 小学生の時、お兄ちゃんに‘ケン兄ちゃんと一緒にいるのはしんどくないの?’と聞いたことがあります。その時、兄ちゃんはたしか‘別に普通の兄弟なだけで、特になんとも思わない’と言っていました。僕はこの時、なんでそんなことが言えるのか不思議でした。周囲からの目も気になるだろうし、何よりも恥ずかしくないのか、とか色々な疑問もありました。
 もし、自分の兄弟に障害者がいたら、絶対に僕は耐えられないと思う。ああいう疑問に思ったことが本当に思ったことが本当にありそうで怖いからです。それに、もっと重度の障害者だったらと思うと、兄弟とは思わず差別してしまい、絶対に普通に接することは無理だ。それにお兄ちゃんは、ただキレイ事を言っているだけだと思っているからです。 
 この作文を書くにあたって、いろんな人の意見を読んでいくうちに、障害者の兄弟を普通と思っている人がいるということに気づかされました。そして、そういう人たちは、みんな兄弟の努力や心を知っている人なのだということに気づきました。おそらく、お兄ちゃんもそういう人の1人なのだと思います。というのも、ケン兄ちゃんは何事も一生懸命にやる人だからです。なのに、僕はそれをそんなことも出来ないのかよと、最低な視線で見続けていました。            冊子を読んで、障害を持つ人の方が、僕なんかよりもずっと努力をしているし、差別にも耐えているすごい人なのだと実感させられた。けど、やっぱり僕には障害者の人と普通に接することはできない。結婚相手の兄弟に障害者がいたら、世間体を考えて逃げると思う。もし兄弟に障害者がいたら、いじめにあうかもしれないから、友達に知られたくないという考えが体から離れない。           多分、僕は意識しても心から接することが出来ないかもしれない。なぜなら、きっともう僕の心の中には【障害者=かわいそう】という考え方が根付いていて、きっと上から目線でものを言ったり、心のどこかで同情で行動してしまうと思うからです。ただ、心からの行動でない行動が許されるのであれば、協力したいと思う】
   生徒C『障害者はやっばりいやだ』授業冊子「知的障害者のきょうだい」

NHKアーカイブ
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009040485_00000

 この作文を読んだ上で、私は「【障害者=かわいそう】という考え、イメージが根付いているという彼の言葉を考えてみたい」と言い、次の映像を見せた。それはNHK『きらっと改革委員会・発展編』(2008.12.06放送)。この番組は障害者は‘きらっと’ 生きなければならないのか?を徹底討論したものである。     
 この中の「障害者は日本のメディアの中でどのように描かれてきたのか?」を伝えた6分間を抜粋して見せた。「障害者はかわいそう。親は大変」と伝える1958年の映像、脳性麻痺の子供を殺した母親への減刑嘆願に「障害者は殺されても仕方ないのか」と当事者が立ち上がった青い芝の会の1971年の映像、そして「不幸」「かわいそう」という障害者へのイメージを変えようとする1981年の国際障害者年の映像。こうした日本のメディアでの障害者の描かれ方の変化を見せて、障害者に対するイメージを考えさせた。この後、「身体障害者と知的障害者」と題した生徒Dの作文を紹介した。
 小学校時代の様々な障害を持った級友との関係を振り返った彼は、身体障害を持つ級友に対しては好意的な雰囲気があったが、知的障害を持つ級友はイジメられていたことに触れていた。そして「なぜ身体障害者は、社会の中で皆に助けられながら生活を送っているのに、知的障害者は軽べつされ、避けられる生活を送らなければならないのだろうか?」と投げかけていた。

 私は「君たちが口にしていた‘ガイジ’という言葉は、身体障害者と知的障害者どちらを指しているのだろうか?それとも障害者全般を指しているのだろうか?どれだと思うか?」と尋ねた。多くの生徒が知的障害者を指しているととらえていた。この問いかけの後で私はこんな話をした。                   「かつて、この学校で車イスを体験する人権学習が行われていたことがあった。車イスに乗って学校を回るというもの。私はそれが疑問だった。もし車イスに乗ることで身体障害者の視点に立てるのなら、どんな体験で知的障害者の視点に立てるのだろうか?そんな疑問を持ったことも、この授業をやりたいと思った動機の一つなんだ。この授業では、知的障害者について考えたいと思っている」

 続いて、先のNHK『きらっと改革委員会・発展編』で紹介された英国メディアのあり方を伝えた7分間を抜粋して見せた。障害をあえて笑いにするコメディー『Little Britain』、「あわれみなんていらない」とメディアの描き方に抗議した1992年の英国障害者運動の映像、そして障害者を‘勇敢なヒーロー’や‘あわれむべき犠牲者’などの特別な視点では描かない方針が出来上がった現在の英国の状況。こうした映像で【障害者=かわいそう】というイメージが果たして‘正しい’のか?を考えさせた。

 ある生徒Eは「本当に失礼だし、人権を無視した意見だが・・・‘この子がいたお陰で強くなれた。痛みのわかる人間になれた。家族の絆が強くなった’という人もいるだろう。しかし、そう思えるまでには、それ以上の苦労や悲しい思いを乗り越えている。出来れば、そんな苦労や悲しい思いはしたくない。知的障害の家族がいるために、自分の人生や人生における選択に制限をつけたくない。それが僕の率直な意見である」と作文で述べていた。

【障害者=かわいそう、家族=大変】というイメージだけで考えると、彼のような‘率直な結論’になってしまう。それで良いのだろうか?と考えさせたかった。先入観や偏見、そして無知、またメディアによって作られたイメージを揺さぶることが必要だと考えた。その上で現実の家族はどうなのか?を考えさせるために『きょうだいだって愛されたい』という本を取り上げた。この本は「全国障害者とともに歩む兄弟姉妹の会」によって編集され、障害者のきょうだいの体験や課題、支援策がつづられたものである。幼児期・学齢期での普通の家族とは違うという思いや、友人の反応、青年期・成人期での結婚をめぐる問題、中高年期での親なきあとの関係などについて当事者の声が綴られている。全てを紹介することはできないが、「実はそんなに大した悩みではなかったりすることも多いので、きょうだいに肩を叩いて、壁を壊してくれるような周りの声かけがあったらよかったなと思っています」「あの結婚する前の心配は・・・しなくても良かったんだと、もしもっと早くわかっていたら、自分の結婚についても、もっとのびのびと考えられたらなぁと今更ながら思っています」など、悩みと共に重みをもって当事者の体験が語られてる。

  この体験談の抜粋を黙読させた上で、生徒たちに授業を受けた感想文を書かせた。生徒の感想を抜粋して紹介したい。
 感想① 【 ‘みんな一緒、平等なんだ’とひたすら教えるだけではなく、健常者と障害者との間に感じる違和感を認めた授業だと感じた。冊子の中の生徒の意見も参考になった。特に【心からの行動でない行動が許されるのであれば、協力していきたい】と書かれた人には、‘よくここまで自分に正直で、かつよく考えられた文章が書けるなぁ’と感心し、共感した。自分も知的障害者に対する同情、偏見を捨てきれないし、将来においても捨てられないかもしれない。しかし(月並みな言葉だが)結果よりも過程、積極的に相手を理解しようと尽くすしかないと思う】。
   感想②【授業を受ければ受けるほど知的障害者に対する接し方って難しいと感じました。周りに知的障害を持つ人がいない僕にとって、無知は恐怖にしかならなかったし、同情は障害者を見下す気持ちしか生みませんでした。だから、障害者に接する時に、相手はもちろん、親族の方にも失礼にならないように、もっと障害者を知っていかなければならないと思いました】。
 感想③【 この授業を受けた帰りの電車で、知的障害者の方がいた。授業を通して知的障害者への接し方を改めて考えたつもりだったが、‘気持ち悪い’ ‘かかわらんとこ’とか避けている自分がいた。やっぱり、こういう授業を受けても、いざ知的障害者を前にすると以前と何ら変わらない自分がいました。身近に知的障害者がいないと、その接し方や考え方を変えるのは難しいと思いました】。
 生徒それぞれが「答えが簡単に出ない」中で考え、葛藤しているように思えた。そして『兄バカと障害者』を書いた彼は、次のように書いていた。
 【僕には知的障害者の弟がいますが、この事についてここまで深く考えたことはなく、この授業で、かなり考えさせられました。深く考えてみると不安ばかりで、本当にどうしようかと思いましたが、こんな人間は自分1人ではないことを知って、すごく安心しました。もう10年以上も弟と付き合ってきても、やっぱり少しかわいそうだ、不幸だと思ってましたが、本人からしたらそう思っていないことを知って、これからは容赦なく?!付き合っていきたいと思います】。
 この感想文を書かせながら、私はこう言った。「この授業の締めくくりとして、知的障害の妹を持つ方に来ていただいて、‘対話集会’を行います。感想文にどんなことを聞いてみたいか?質問を考えて欲しい」


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